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【掌編小説】彼女の母親

彼女は自信のない子供だった。

幼いころからいつも母親に叱られないように気を付けて、母親の顔色を窺いながら振る舞うことが体にしみついていた。自分の希望を自分で口にする勇気もなく、母親の代弁に頼っていた。当然のように進路にも進学する学校にも、母親が大きな影響を与えていた。
 
小学6年生の時の担任の先生との三者面談。中学受験をしてはどうかという担任の提案を、

「いいえ、受験しません!」

母親は即座に断った。ただでさえ学校を休みがちな彼女が早起きをしてバスに乗り、遠くの学校に通うのは体力的に無理があると言って。彼女自身は受験の何たるかもよく分かっていない有り様で、されるがままに地元の公立中学に進学した。そのことに満足も不満もなかった。
 
中学3年の時に、通っていた塾の先生に県外の高校を受験することを薦められた時も、

「いえいえ、とんでもない!」

母親はにべもなく一蹴。人見知りの強い彼女は、中学から親元を離れて他県の高校に進学することを想像しただけで全身の力が抜けるような恐怖を感じたので、助かったと胸をなでおろした。
 
高校1年の時、担任教師と文理選択を決める三者面談で、担任は彼女に文系を選択してはどうかと提言。たしかに彼女は本を読むのも文章を書くのも好きだった。話すのは得意ではないけれど、文字に書くと言葉がすらすら出てくると気づいたのも、この頃だったかもしれない。しかし、小学生のころから研究者になる夢を抱いていた彼女は、理系を選択するのが当然だと思っていた。衝撃に胸を衝かれ、絶望に押し倒されるように椅子の背に体重を預けて呆然とする彼女の隣で、

「いいえ、理系を選択します!」

と母親がきっぱりと答えるのが耳に入ってきた。それから彼女が言葉を失っている間に、担任と母親の間に合意が形成されたようで、彼女は理系クラスに進級することになった。
 
大学受験の際は彼女の希望が母親の考えに適っていたのか、志望校の選定は彼女に任され希望の大学に進学に進学することができた。そして大学4年の夏、大学院を受験するという彼女の希望を母親は快諾。安心して大学院を受験し、無事に合格した。ところが、その次の春に大学を卒業し大学院の修士課程に入学した彼女は、そこで母親の思惑を知ることになるのだった。
 
「大学院なんて出たら結婚できなくなる!」

母親はそう言って彼女にお見合いの話を持ってきた。結婚して大学院を中退するようにと言うのだ。当時は大学院に進学した40人ほどの同級生のうち女性は3人だけという時代であった。でも、彼女には小学生の頃から描いていた研究者になりたいという夢がある。その夢に向かって勉強し、その夢をかなえるべく努力してきた。

二度三度とお見合いの話を断っても、なかなか母親は諦めない。自分自身は国家資格を持って仕事を続けてきた母親が、突然手のひらを返して彼女の未来を閉ざそうとする。母親には尊敬と感謝の念を抱いてきた彼女ではあるが、この時ばかりは裏切られた気持ちになった。しかし、ここで母親の言いなりになって夢を諦めたなら、間違いなくその先の長い人生を後悔を抱きかかえて歩むことになる。いよいよ、夢を実現するための最後の扉に向かってラストスパートをかけようかというところまで来ているのだ。
 
母親が喜ぶことをしなければならないと思っていたのは、幼いが故のことだったのかもしれない。そのことに彼女は薄々感づき始めていた。これまでは母親がうなずく選択をすることが最善だと思っていたし、それ以外の選択をする勇気もなかった。でも、今回はどうしても譲れない。大学に進学したのを機に一人暮らしを始めて以来、誰かに頼らずに自分で決断する場面を経験するにつれ、自分の人生に責任を持つ者は自分以外にいないことを知り始めてもいた。母親の顔色が気にならなくなっている自分に気が付いた彼女は、ついに自分の意志を貫いた。
 
やがて彼女は大学院を修了し、民間企業で研究員としての職を得た。社会人として、夢を叶えたという達成感など些細に感じられるほど多くの経験をし、それが生きる上での考え方や振る舞い方の礎となっている。役割は違えども同じ方向を見据えて力を合わせた同僚との絆は、彼女の人生においてかけがえのない宝だ。それに何より、自分の人生を賄う術を身に着けたことは、先の展開が予測できない人生の保険となった。

そしていま、定年退職という言葉が現実味を帯びてくる年頃になった彼女は、あのとき自分の人生を自分で選んでよかったと心の底から思う。人生に正解はないと言うけれど、ないのは模範解答である。それぞれが覚悟をもって出した答えならば、それが正解だ。
 
この文章を打っているパソコンのディスプレイの向こうには両親の小さな遺影が並んでいる。その写真の中で、母親が澄ました顔でこちらを見ながら微笑んでいる。母親の笑顔に目を遣りながら彼女もかすかに目を細め、ほんのわずかに自分の口角が上がるのを感じる。そして、もう何度目になるか分からない回想に浸るのだった。

これまで胸を張って生きてこられたことに何度となく心を温め、これからもそうして生きていくであろうと確信できるのは、大学4年の夏に自分で答えを出したからだと。人生の岐路に立ったあの時に、この生き方を自分で選んでよかったと。

彼女は自信をもって生きていく。


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