見出し画像

花の愛で方

苦手な女性がいました。

その女性は、綺麗な花束をお店で買ってきて、家に飾るのが好きでした。

その女性の口癖は、配偶者の悪口か、育児の愚痴、それから「なんかいい事ないかな」「どこかに王子様いないかな」でした。

彼女は完成された美しさや、幸せを与えられることを望む女性でした。

私は、そんな彼女が苦手でした。


切り花は、美しさのピークに店頭へ並び、消費者が手に入れた瞬間が最も華やかで綺麗な時期です。

花瓶の中で、少しでも長くその美しさを保つように手入れをしてあげることは出来ても、そこからさらに成長し、新たに大輪の花を咲かせることは難しい。

枯れた花はゴミとなり、花瓶には別の美しい花を買ってきては飾る……そのループ。

決して切り花を否定しているわけじゃないんですが、私には彼女が花を消耗しているようにみえました。

私も植物は大好きです。
美しい花も、瑞々しいグリーンも。

ただ、私にとってそれらは消耗品ではなく”命”なのです。

種を土に撒き、芽が出たら観察し、土が乾いたら水をやり、根が窮屈になれば鉢を変え、枝が混んだら剪定をし、日に当て肥料をあげ…
花が散ってもまた次のシーズンまで根は土の中で静かに眠る。

そんなふうに手をかけ目にかけ「育てる」ことに魅力を感じるのです。
育てたあげた結果にこそ、価値があると考えています。


人間関係においても、私は時間をかけ対峙する中で信頼や愛情を育んでいきます。

大切に思う気持ち、好きな気持ちが少しでも大きく育つような種をたくさん撒き、ゆっくりゆっくり育てます。

手間を惜しまないし、見返りだけを急かすようなことはしません。

目的(相手)があり、手段(行動)の先に結果(信頼)がある私。

ですから、「何かいい事ないかな」「どこかに王子様いないかな」という彼女は、
結果ありきで、なるべく楽な手段で、目的なんか無いように私の目には写ります。

彼女のように「育てる」という概念がない人間は私が苦労して育てた人間関係を羨み、私の大切な場所を土足で踏み荒らすのです。


結果しか見ていないから。
手段を知らないから。

そうして、私が育てた尊い花を摘んで、去っていくのです。

そんなふうに手に入れた花は彼女にとってどんな価値があるんでしょうか。

残された私は、泣く泣くまた何かを育てる準備をします。

ただ、
私という土壌は豊かで、少しくらい荒れたとしても手入れ次第で直ぐに整い、何を植えても深く根を張り、逞しく育ち、多くの綺麗な花を咲かせる強さを持っています。



「消耗する」彼女と
「育てる」私。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?