カール・フリードベルクを聴いて

カール・フリードベルクというピアニストがいたことを知った。クララ・シューマンに学んだ人で、往年の名ピアニスト、エリー・ナイは彼の弟子だという。苔の生えるような昔の人だと思ったが、なんと僕と人生が重なっている。

音楽愛好家の中では知られた人らしい。愛好家の知識は半端ではない。反面、演奏を職にしている人たちは案外同業の先人について知らないものだ。

シューマンの時代といえば遙かな昔と思う。しかしこの人のCDを聴いているとそんな観念は吹き飛ぶ。つまり何の違和感も感じないのである。現代のピアニストを聴くときにしばしば感じる大きな違和感を。僕とシューマン、ブラームスの時代とを結びつけているのはフリードベルクが生きた年代だけではあるまい。

それは簡単に言ってしまえば音にある。ピアノという楽器の発音のメカニズムに逆らっていないのだ。音に対する信頼だけが僕たちを遙かな昔とを結びつける。それは文学者の言葉に対する信頼と同じである。批評家は新しいピアニズムを言いたがるが、発音のメカニズムが変わらぬ以上、そんなことはあり得ないのだ。

ピアノという楽器は大変便利な反面、だまされやすいという致命的な一面を持つ。それは弾き手も含めてなのだ。あらゆる理屈をむりやり押しつけることさえ可能だといえる。

どんな細やかな感受性も精緻な理論も、音の出せないトランペットやヴァイオリンを弁護することは出来ない。まず音を出したまえ。すべてはそれからだ。

それに引き換えピアノでは鍵盤を押せばそれらしき音が出る。単純に押されて出た音と楽音とを聴き分けることは、連綿と続いてきた演奏の歴史の中に身を置けばそう困難ではないのだが、ひとたび失うとなかなか取り戻せないのも事実だ。僕がフリードベルクに違和感を感じないというのもまさにその点においてである。

こんなひとのために付け加えておこうか。音の好みは時代と共に変化するのではないかという人へ。それは当然のことである。しかし管楽器、弦楽器、歌どれをとっても発音の原理だけは変わらないのだ。あなたは勇気をふるって詩人の恋を歌ってみたまえ。それが笑われない時代が来るかも知れない。それまで待つことだ。僕はと問われれば人前で歌うことはご免こうむる。

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