十年の遅れ

以前音楽評論家の吉田秀和さんの全集が完結した折り、小説家の丸谷才一さんが新聞紙上に祝文を寄せていた。
吉田さんについていずれ少しずつ書きたいと思うのだが、きょうは丸谷さんの文章中の一言から。

上記の文の中で丸谷さんは小林秀雄にふれ、文学の中に哲学などを持ち込み、日本の文学を十年は遅らせたと難じていた。

文学者はよくこういう言い回しをするけれど、僕はあまりピンとこない。素人の無責任な発言を許して貰えるならばこういった言い方は嫌いだ。

丸谷さんといえば、とほうもない知識と教養で、エッセイを読むつど面白くて最後にはため息が出る。つまり、どうやったらこんな教養が身に付くのだ、という種類のため息だ。

そんな人が言うのだから十年遅れたのでしょう。しかし遅れたと言うからには遅れなかった理想的な状況が考えられるわけで、それがどういうことか僕にはまったく分からない。

そんなところでもたもたしない人が文学の世界にはうようよしているのだろうとしか言えない。

丸谷さんが小林さんを好かない理由は、何となく分かる。まず痩せた文体が駄目なのだろう。吉田さんにせよ、丸谷さんが好きな石川淳にせよ、柔軟且つ重厚な文体を形成している。

丸谷さんは吉田さんの文章について、断定を避け柔らかく広がりを持つ、といった風に評していた。それはその通りだと思う。小林にはその奥行きが無いと言いたいのだろう。

たとえばゴヤの「裸体のマハ」についての小林は「服を脱げと言うのかい、脱ぎゃいいんだろ、そんな絵だ」と書く。

こういうのが丸谷さんにとっていけないのだろう。吉田さんなら、色調についてゆったりと語り、構図について考察していくに違いない。吉田さんの絵画論を読んでみるとそれは容易に想像がつく。

間違えないで戴きたいのだが、僕は文学談義などというお門違いなことをしたいわけではない。

丸谷さんの言う十年は遅れたことが本当だとしても、十年遅れたと書くことが出来るのは日本語が失われていないからではないか。日本語があるかぎり、丸谷さんは小林さんに依存することなく、自分の世界を展開できる。その幸福を思う。

丸谷さんは十年遅らせたなどと文学者の常套的表現など抜きに小林さんのこれこれこういうところを私は理解できぬ、好まぬと立派な日本語で言えるではないか。十年遅らせたなどという、思わせぶりな修辞を使わずに済むではないか。

他方音楽に考えを巡らせるならば音楽は、丸谷さんも音楽を好きらしいが、解釈、講釈に押しつぶされて音を失っているのだ。あるいは音を失った結果、解釈や講釈が限りなく入り込む余地が出来てしまった、というべきかもしれない。

音が失われた音楽は、あらゆる観念を容易に呑み込んでゆく。耳は観念的にもなりうるのである。それはほとんど言葉の遊びである。十年遅れたなどの言い回しは音楽にとっては寝言に等しい。すべてが取り返しつかないのである。

文学の世界が羨ましいと言いたくもなる。音が失われたことを広く伝える手段を音楽自体は持たないのである。「失われていないではないか」の一言ですべては終わる。演奏の批評がむなしい理由だ。

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