究極の正確さ

むかしある人がこんな演奏はいかがでしょう、と一枚のCDを持ってきた。たいへん参考になり、生徒たちにも聴かせたことがある。どう参考になったのかを書いておこう。

これは実はコンピューターによる演奏である。持ち込まれたとき、あまりのばかばかしさに聴く気にもなれず放っておいた。それをある日急に思い立って、この際徹底的に馬鹿にしてやろう、と一念発起して聴いたのである。

この気紛れな思いつきは予想通りの結果しかもたらさなかった。CDをごみ箱へ放り込もうとした瞬間、もうひとつの気紛れな思いつきが芽生えた。そうだ、これをメトロノームにコンプレックスを抱いている人に聴かせよう、捨てるには惜しいではないか。

こちらの思いつきは僕の予想をはるかに上回る働きをした。なにせ泣く子も黙るコンピュータだ。勘違い、思い違い、数え違いなどがあるはずがない。
究極の正確さによる早いパッセージを聴かせると、面白いことにたいていの人が思わず口にするのだ。不埒千万にもコンピュータに対して「間違っている」と。

コンピュータが音楽的な演奏はできるはずがない、と全ての人が考えている。しかし、所謂正確さを必要とされる箇所を正確無比に弾くことだけはできる、とどこかで信じ切っているのではなかろうか。

しかし論より証拠。機械的な正確さで弾かれると、面白いことに、つんのめって聞こえるのだ。僕らの用語で「ころぶ」というやつだ。逆はない。つまり、間延びして聞こえることはない。なぜかは分からないが。それを考えてもあまり実りはなさそうなので、うっちゃってある。

ドガは走る馬、踊り子など動きというものに関心をもった画家であった。そのころ写真技術が発達し、飛ぶ鳥や走る動物の様子が人間の肉眼で見るのとは大いに違ったことを教えた。ドガも大変驚いた。写真は画家に動きを見る目を教えたわけである。

音楽ではそうはいかない。コンピュータの「転んだ」演奏から、新しい正確さを知った、という演奏家は現れるはずがない。トスカニーニが生きていないのはかえすがえす残念だ。コンピュータに向かって「No!No!」と絶叫しただろう。そして現代の演奏も少しは違ったことになったかも知れない。

パソコンの扱いに自信のある人はひとつ作ってみたらいかがだろう。たとえば二声のインベンションのヘ長調などを使って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?