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刹那的ノスタルジアに飯を噴く

新たに出てきたものを礼讃する人が、幾星霜経ってそれが消えゆくときに郷愁を抱く。それはそれでよくわかります。
他方、新たに出てきたものを酷評しておきながら、幾星霜経ってそれが消えゆくときにさも前者と同じような背格好をして郷愁を抱く。
自分には後者のこれが、よくわからない。

歴史あるもの、時間の経過が良さを醸すもの。そういったものが好みである人にとって、新しいものというのは時系列的比較対象になるぐらいであればさほど気にもならないと思うのです。
ところがなぜか新しいものを「古いものを駆逐する・淘汰する」ものだと認識して、アレがダメだ、コレがなっていない、前の方がよかったとか声高に宣って騒ぎ立てる。
それでいてさんざ叩きのめした“数十年前の新しいもの”が消えるとなれば、いやーあればよくできたやつだったとか、ここのこれがよかったとか、ステレオタイプにドルビーやサラウンドかけまくったハウリング万歳の歯が浮きまくって総入れ歯にでもしたくなるようなコメントを陳列させる。

なんなの、この妖怪顔負けのン枚舌に脚立たてまくりのマルチスタンダード。

懐古趣味を否定するわけではない。むしろそういうのは嫌いじゃない。
ここで言いたいのは、いわゆる宗旨替えにしてもその風呂敷もとい卓袱台返しに匹敵する掌返しが巻き起こすご都合主義丸出しの暴風が、風見鶏すら飛んでっちゃうんじゃないかと思えるほどの節操のなさ。

酷評したんだったら、酷評したなりに「アイツは史上最悪の唐変木だったけど、よくぞまあここまで長持ちしたもんだ。まさに憎まれっ子世にナントカってやつだな。これで消滅か。せいせいするわ。まあ毒吐く相手がいなくなって少しぐらい淋しくなるかもしれんがな」ぐらいの捨て台詞さながらの”餞”ぐらい出してみたらどうだってんだ。

その意味では、実際にそれを手がけた人や最前線で関わった人の評というのは、それなりに受け入れられるものもありますし、響くものも多いですな。よりいいものに出あえるよう、利きをもっと鍛えていきたい。玉や石があるから、玉を選べるようになる。石に触れずして、よい玉の選別は難しいのですわ。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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