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「鬼滅の刃」の謎 あるいは超越論的炭治郎

※ 本論は12月9日に開催されたゲンロンカフェのトークイベント「伊藤剛×斎藤環×さやわか 『鬼滅の刃』と少年マンガの新情勢」で述べたいくつかの論点の備忘録として書かれた。ネタバレについては一切配慮をしていないので、原作未読・アニメ未見の方には注意を促しておく。


「鬼滅の刃」のわかりやすさ

 「鬼滅の刃」(以下「鬼滅」)が空前のブームを巻き起こしている。アニメ「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は公開三日目にして興行収入48億円という空前の記録を樹立し、12月12日までの興行収入が299億2千万円、観客動員数が2152万人に達した。国内興収記録歴代1位の「千と千尋の神隠し」を抜くのももはや時間の問題であろう。原作漫画はさきごろ最終巻となる23巻が発売されて全巻の売り上げが1億2000万部を越え、11月30日発表の「オリコン年間コミックランキング 2020 単巻別」では、史上初の「1位~22位独占」を記録した。また「年間BOOKランキング 2020」でもノベライズ短編集『鬼滅の刃 しあわせの花』と『鬼滅の刃 片羽の蝶』がそれぞれ100万部近い売り上げで1位2位となり、もはや何が起きているのかわからない社会現象となっている。

 もちろんファン層が小学生から中高年までと分厚いことも一因だろう。大衆性と作家性が奇跡的なバランスで両立しており、映画版は子どもの付き添いのつもりの大人までが本気で楽しめる作品である。コロナ禍で映画の新作公開のペースが落ちていた飢餓感も考慮するなら、これは当然の帰結なのかもしれない。むろん筆者もさきごろ鑑賞して煉獄先輩の凄絶な最期に目の幅の涙を流してきたばかりだが、そうしたわかりやすい感動の一方で、本作の人気にはいろいろ不可解な面もあることは否定できない。

 本作についての批評・評論もいくつか読んでみたが、どうも今ひとつ歯切れが悪く、なぜこれほどのヒットに至ったのか十分に分析しきれていない印象がある。とはいえ、この小論でその分析をやろうというわけではない。これは単なる初老鬼滅ファンの覚え書きであって、筆者が本作のどこに魅了されたのか、その自己分析が主たる目的である。ちなみに筆者は誰がなんと言おうと本作の主人公はゆしろうであると主張して憚らない愈史郎推しであり、柱では最もJOJOっぽいという理由だけで宇随天元が一番好き、そういう人間であることを予めお断りしておく。

 鬼滅はダークファンタジーだ。エロはそうでもないがグロの度合いは半端ではない。近年ヒットした漫画、アニメでこれほど人体が破壊され血が流される作品は珍しいし(おそらく『進撃の巨人』『東京喰種』以上)、血の色もリアルに赤黒い。映画版もPG12指定となったことからわかる通り、必ずしも子供向けではない。ところで、いま「エロはない」といったがあれは嘘だ。テレビシリーズには口枷をかまされた少女が緊縛され血を流して宙吊りにされるシーンがあった。京大の緊縛シンポが謝罪に追い込まれるいっぽうで、このようなシーンを含むアニメを小中学生が楽しく視聴できる日本の緩やかな表現空間を筆者は心から歓迎する。そういうわけで鬼滅には、ディズニーやジブリのアニメのような、万人受けする健全さ(いやまあジブリには色々あるが)はない。だがそれがいい、という逆説だけでは、これほどのヒットは考えにくい。

 漫画原作はその独特の絵柄ゆえか、流血シーンが多い割には、グロの印象は乏しい。このジャンルの漫画にしてはギャグモード(二頭身やダバ絵的なデフォルメ)の絵柄が多用されることも一因だろう。連載中に作者が女性であることが公にされたが、本作で最も女性らしさを意識するのは、残虐シーンへのフェティシズムが比較的乏しいことだ。「JOJO」と同様、「地の絵」に比して出血は記号的に処理されることが多いため、残虐さの享楽はそれほど多くない。

 作画は決して技巧的ではなく今風の写実的な美麗さ——“小畑健”的な——には乏しい。これはアニメ19話のエピソードを原作と比較してみればよく分かる。人物のセリフから画面の構図まで、きわめて忠実なアニメ化ながら、受ける印象がかなり異なる。漫画は淡々と読めてしまうが、アニメは神回と評価されたのも当然の凄まじい演出で、原作者自身が感涙にむせんで20回視聴するほどの傑作だった。本作の人気がアニメ化で一気にブーストがかかったというのはうなずける。その意味で、漫画とアニメは互いに注釈し合うような理想的な相互補完関係にあった。多くのファンはおそらくそのようにして、アニメ←→原作を往還しながら楽しんでいると推定される。

 …とまあ、以上のような表層的な解釈はいくらでも可能なところが、「鬼滅」の強味だ。マッチョな価値規範(「男なら」「長男だから」etc)に基づく王道バトル漫画のようでもあり、それでいて泣ける要素、笑いの要素が絶妙なバランスで含まれていて、竈門炭治郎という、こちらも少年漫画の王道キャラが作品の道徳性や倫理性を担保する安心感もある。一方で禰豆子という、竹の口枷をかまされたピグマリオン系戦闘美少女との兄妹愛とかいう最高すぎる設定、さらに鬼殺隊の「柱」という、それぞれが異常にキャラの立ちまくった剣士が集結し、ラスボスを目指して敵を一人一人倒していくという物語性、しかも敵が「強さのハイパーインフレーション」に陥る前に、わずか23巻でいさぎよく完結するというまとまりの良さ。もちろんすべてが結果論だが、こうしてみると人気要素の詰まった作品であることは疑いを容れない。そう、鬼滅はわかりやすい。「ヱヴァ」のように謎で引っ張る作品の対極だ。にもかかわらず、漫画評論家の伊藤剛がいみじくも指摘したように、“わかりやすいがゆえのわかりにくさ”があるのだ。

 唐突ながら、ここで名作の条件をひとつ挙げておこう。登場人物の「名前」である。ドストエフスキーが典型だ。『罪と罰』は読んだことがなくとも「ラスコリニコフ」なら誰でも知っている。ドストエフスキーのポリフォニー性は、忘れがたい固有名をいくつも創案したことに極まっている。ポルフィーリー、スタヴローギン、ムイシュキン、カラマーゾフ、スメルジャコフ等々の命名そのものが、一度読んだら生涯忘れえないほどの「傑作」なのだ。鬼滅の登場人物の名前もまた、ドストエフスキーと同等の「強度」を持っていると言えば褒めすぎだろうか。しかし、子どもたちが難読漢字を懸命に覚えて彼らの名前を書こうとするのもこの強度ゆえでなくて何だろうか。竈門炭治郎、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助、煉獄杏寿郎、宇髄天元、などなど。作者はまだ三〇代の女性とのことだが、たとえ編集者の協力があったにせよ、この名詞生成能力においてすでに、天才性の片鱗がうかがえる。


「弱さ」の尊重

 まずもって、本作を特徴づけているのは「人の弱さ」の尊重である。

 我妻善逸のような気の弱い——眠れば強い——泣き虫キャラを筆頭に、全員が何らかの弱さを抱えているという点も見逃せない。子どもは完璧超人よりも弱いキャラの活躍を好むものだ。加えて本作では、鬼との戦闘後に疲弊しきった炭治郎や伊之助らが蝶屋敷で点滴などの治療をうけつつ養生する場面が何度も繰り返される。回復力が尋常ではないとはいえ、彼らは不死身のヒーローなどではなく、毀損されやすい身体を持つ「子ども」達なのだ。バトル漫画の主人公の多くは思春期の少年少女だが、そのことはしばしば忘れられる。産屋敷耀哉が「私の剣士(こども)たち」と繰り返すたびに、年端も行かない子どもが生命を賭して戦わされている異常さが強調されるかのようだ。

 柱の一人、炎柱の煉獄杏寿郎は、猗窩座との戦いでその戦闘能力を絶賛され「鬼になれ」と勧誘される。鬼は傷を受けても瞬時に修復できるが、人間が受けた傷は簡単に治らない。回復力が圧倒的に違うため、同程度の戦闘能力では、人間は鬼に勝てないのだ。しかし杏寿郎はその誘いに動じない。人間は弱いが、その弱さこそが愛おしいと断言し、正面から猗窩座に挑んで落命する。

 ここで宣言されているのは「弱さも含めて人間」といった消極的認識ではない。むしろ「弱さこそ、脆弱性こそが、人間の条件」であるという、積極的な認識である。これが「鬼滅」の通奏低音となっている。マッチョな見かけは表層に過ぎない。後述するように、不死のはずの鬼が斬首され消滅する寸前に走馬灯を見る。これは可死性という脆弱性の回復とともに、「鬼が人間化する瞬間」と解釈することが十分に可能だ。


トラウマと責任

 それでは、なぜ鬼は人間として死ぬのだろうか。これは本作の深層にあるテーマ、「トラウマと責任」に関わってくる問題だ。結論を先取りして言えば、鬼とは「トラウマゆえにモンスター化した人間」の隠喩である。われながら、いかにも精神科医らしいベタな解釈だとは思う。ただ、これほど自明な隠喩についての言及すら、寡聞にしてほとんど見かけない。よって以下、この視点から見えてくるものについて詳しく検討する。

 鬼滅は王道バトルものと述べたが、実はそうとも言い切れない。炭治郎が自分が倒して死んでいく手鬼の手をにぎるシーンがある。このシーンは作者が「少年漫画らしくないからカットしようか」と迷っていたのを、担当編集者が「ここだけは絶対に入れてください。こんな主人公見たことないです。これが炭治郎ですよ!」と力説して残したという。まさに英断というほかはない。(https://animanch.com/archives/20230748.html)。

 敵に同情するから素晴らしい、というのとは少し違う。悪はきっちりと裁き、罰を与え、その上で存在は肯定する。狛治(猗窩座)の師匠・慶蔵が「罪人のお前は先刻ボコボコにしてやっつけたから大丈夫だ!」と言うあれだ。炭治郎が存在ごと全否定する対象は、ラスボスの鬼舞辻無惨のみである(「お前は存在してはいけない生き物だ」)。

  「鬼滅」の世界において「悪」はその属人性から解放されている。それは、正義も属人的なものではなく、人から人へ継承される想いとして描かれるのと同じことである。それは「罪を憎んで人を憎まず」とは少し異なる。結論から先に言えば「人を慈しみつつ罪は裁く」ということだ。筆者の考えでは、これは近年の当事者研究の動向とも接続可能な、新しい倫理観である。

 「悪」にも「敵」にも事情がある。それを丁寧に描くのも、「鬼滅」の特徴だ。ここには作者が影響を受けた漫画の筆頭に上げている荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」の影響もあるだろう。「ジョジョ」は、これほど同情的ではないにせよ、「悪にも人生がある」ことをきわめて説得的に描いていた。余談ながら本作は、「ジョジョ」の初期設定を多く継承している。日光に弱い吸血鬼、呼吸法、訓練の必要性、などなど。無惨の造形もディオを思わせるが、本作との影響関係を言い出せばそれこそ『ポーの一族』から『ブリーチ』『AKIRA』に至るまで無数の作品が挙がるであろうから、類似性の詮索はこのくらいにしておこう。

 暴力の被害者は、時として加害者(=鬼)になることがある。対人援助の仕事に関わったものならば覚えがあるだろう。決して多くはないが、虐待やDVの被害者の中には、支援のために差し伸べた手を、肘から食いちぎりにくるものがいる。虐待や暴力によるトラウマは、まれに恐るべき加害者を作り出すことがあるのだ。この言い方が誤解を招くというのなら、逆の言い方をしてみよう。極悪非道に見える犯罪加害者の多くは、しばしば過酷な生育環境、あるいは凄惨な暴力被害の犠牲者である、ということ。

 それゆえ他者のトラウマに深く関わろうとするものには、一定の「覚悟」が要求される。何度裏切られてもすべて受け入れる、という覚悟ではない。それでは単なる自暴自棄と区別がつかない。覚悟とは「もしこの一線を越えてしまったら、たとえ被害者であろうと裁く」という覚悟のことだ。ある種の罪は、許されてしまうことが地獄につながる。許さないこと、毅然として裁くことが時に救済となる可能性を、「鬼滅」はきわめて説得的に描く。

 ここで重要なことは、鬼殺隊の「柱」もまた、ほとんど全員が――甘露寺蜜璃を除き――鬼による犯罪被害者であるということだ(煉獄杏寿郎と宇髄天元は鬼の被害は受けていないが親からの虐待サバイバーである)。その意味で「鬼滅」とは、「正義の被害者(柱)」が「闇落ちした被害者(鬼)」と戦う物語、でもある。ここで注意すべきは、「正義」がしばしばトラウマ的な出自を持つ、ということだ。鬼殺隊の人々が正義の刃を振るうのは、もちろん社会の治安と安全のためではあるのだが、その動機はしばしば怨恨であり、その向かう矛先は鬼であり鬼舞辻無惨だ。その正義は鬼退治の正義であって、その限りにおいて普遍性はない。

 「正義」はしばしばトラウマ的な出自を持つがゆえに、しばしば暴走し、狂気をはらむ。「柱」の剣士たちは、そうした覚悟を固めすぎた結果、みんなサイコパスになってしまった、かに見える(無惨いわく「鬼狩りは異常者の集団」)。炭治郎と禰豆子の処遇を決める柱合会議の場面を見ればそれがわかる。柱メンバー全員、目が逝っている。あの煉獄杏寿郎ですら、会議に諮るまでもなく斬首が当然であると大声で断ずる。宇髄天元に至っては、俺が派手に血飛沫を見せてやるとか正気の沙汰ではない(そこがいい)。もっとも、比較的まともにみえる(眼は死んでいる)胡蝶しのぶの言動すらもほんのりと狂気をはらんでいるのだから、柱の狂気は推して知るべしというものだ。鬼の悪に対峙するには、柱の狂気じみた正義感が必要であった、ということ。毒をもって毒を制す、ならぬ、サイコパスをもってサイコパスを制す、というわけだ。

 柱メンバーは悪としての加害には決して手を染めないが、「正義の刃」ならば、いつでもどこでも嬉々として振るうだろう。そこにいささかのためらいもない。彼らの多くが被害者であり、「傷ついた癒し手」(ユング)ならぬ「傷ついた裁き手」ではあるのだから。そこに炭治郎という「異物」が加わることで、彼らもまた「傷ついた癒し手」に変わっていく。

 「鬼滅」が提示するもう一つの問題、それは過酷な背景事情を抱え、自身も暴力の被害者である大量殺人者、すなわち「鬼」をどう処遇すべきかという難問である。これは心神喪失者の罪は免責するという刑法39条の存在意義にも通ずる、すぐれて現代的な問いでもある。

 鬼殺隊の中で、ほぼ炭治郎だけが、鬼の虚しさ、悲しさを理解している。彼が鬼退治に勤しむ理由の第一は「禰豆子を人間に戻すため」であり、家族の敵討ちは主要な動機ではなくなっている。厭夢に家族を侮辱された際には激怒しているが、それは敵討ちとは異なる怒りである。彼は鬼舞辻に連なる鬼を決して許すことはないが、戦いに敗れて死にゆく鬼を侮辱することもしない(「侮辱」は本作の頻出ワードの一つだ)。鬼の所業を裁くと同時に、鬼の尊厳をも守ろうとするのだ。

「殺された人たちの無念を晴らすため これ以上被害者を出さないため… 勿論俺は容赦なく鬼の頸に刃を振るいます だけど鬼であることに苦しみ 自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない 鬼は人間だったんだから 俺と同じ人間だったんだから」(第五巻)

 斃される鬼には共通点がある。鬼はみな、死の直前に走馬燈を見る。そのほとんどは被害の記憶だ。彼らは走馬灯のように忘れていた記憶を取り戻し、消滅の寸前に「人間」に戻る。つまり、ナラティブの想起によって被害のトラウマは癒やされる。彼らは鬼殺隊の刃によって救済され、人間となり、その瞬間に消滅する。

 加害者に転じた被害者をいかに処遇すべきか。この問いに対して、「鬼滅」はぎりぎりの、しかしこのうえなく優しい解答を試みている。炭治郎は鬼の責任を追求することはしない。彼は知っているかのようだ。鬼は人間に戻った瞬間に、責任を自覚する。そして尊厳と責任の主体として死んでいく。それはあたかも「免責されることで引責可能な主体となる」(國分功一郎)過程にも似てみえる

 先に刑法39条の問題についてふれておいた。かつて触法精神障害者は、精神鑑定を受けて心神喪失状態と判断されれば、刑罰は免れる代わりに措置入院、もしくは医療観察法病棟での入院治療を強制される。このためかつては、殺人を犯しても数ヶ月の入院期間で退院となる患者が少なくなかった。これは理論上は間違いではない。患者本人の意思ではなく、病気が犯罪の原因ならば、病気が治れば退院できるのは当然だ。しかしそれは本当に患者の利益になっているのか。服役する代わりに自由と尊厳を奪われ、免責される代わりに精神障害のスティグマを負い、自分の行為に責任が取れない主体として生かされることは果たして患者の幸福に寄与しているのか。

 筆者はこうした場合、まず迅速な治療的対応によって責任能力を回復し、然る後に相応の処罰を与えるという手順を踏むほうが、加害者、被害者双方の尊厳が守られると考える。司法精神医学的には異端あるいは誤謬でしかない考えだろうが、「鬼滅」における鬼の処遇はまさにそのようであり、この視点は「被害者としての加害者」について考える上で、重要な補助線になりうるはずだ。だから「治療か処罰か」ではなく、「治療し、しかる後に処罰を」という発想は、それほど荒唐無稽なものとは思わない。


 炭治郎の狂気

 以上みてきたように、炭治郎のキャラクター造形は、王道キャラのようで異質な成分をはらんでいる。鬼への優しさはその一例だが、そればかりではない。まっすぐ育ったかに見える炭治郎は、その実、別の「狂気」を秘めている。彼は嘘がつけない(つこうとすると半端ない変顔になる)。絵が描けない。猫や鯉のぼりを描くと異様なモンスターができあがり、歌唱能力はジャイアン並みの音痴。つまり炭治郎は、想像力に問題を抱えている。しかもそのことに自覚(病識)がない。

 彼にはリアルで哀切きわまりない家族の思い出はあるが、現実に存在しないこと、ありえない仮想を思い描く能力がきれいさっぱり欠けている。そのことは映画「無限列車編」で描かれた彼の「無意識領域」を一瞥すればよくわかる。炭治郎の無意識領域には何もない。ウユニ湖のような美しくも空虚な水面が広がる世界に、光り輝く「精神の核」が浮かんでいる。彼の純粋さの表現ともとれるが、この景色を見て筆者は確信した。炭治郎には「想像界」が欠けている。だから「優しさ」はあるが「共感力」には乏しい。そうでなければ(自分のせいで)傷心の冨岡義勇を、蕎麦の早食い競争に誘ったりはしない。

 彼が頑固なのは、正しいことへのこだわりではなく、「正しいこと」以外の可能性が想像できないからだ。彼の「正しさ」は、正義への信念ではない。その内界に棲む「光の小人」が、彼の優しさの象徴だ。光の小人は生得的なホムンクルスであり、おそらくは遺伝子レベルで継承された資質の擬人化であろう。サイコパスの「柱」たちが後天的に獲得したトラウマ的な正義とはまったく異質の、「優しさという生得的狂気」が炭治郎の武器なのだ。それをあえて「狂気」と呼ぶのは、理性によるコントロールの外側にある、というほどの意味である。炭治郎の正義は、理性の産物などではない。だから彼は自身の正義については微塵の躊躇もない。

 炭治郎の欠けた想像力を補うのが、その発達した嗅覚だ。視覚とは異なり、嗅覚には「嘘」や「虚構」がない。嗅覚は常に真理(「隙の糸」など)である。彼の判断が勘所を外さないのは、想像力や共感力のためではなく、ひとえに嗅覚の導きによる。彼が鬼に同情的なのは、鬼の境遇をリアルに想像できるからではない。ただ彼の嗅覚が、鬼の虚しさ、鬼の悲しさを彼に告げるからだ。もし彼が鬼に寄り添い、その境遇を共感的に理解するような人間だったら、とっくに共感性疲労と二次外傷で心が挫滅してしまっていただろう。嗅覚をよすがにしたからこそ彼は疲弊せず、また「鬼の尊厳」を傷つけることもなく、鬼を裁くことができたのである。まさに「記憶なく、欲望なく、理解なく(W.ビオン)」の理想的実践である。

 炭治郎は戦いの最中に、しきりに「考えろ!」と自身を鼓舞するが、にもかかわらず、しばしば考えなしに勝ってしまう。対・猗窩座戦でも「闘気をなくす」ところまでは思い至るが、その後透明な世界に入って闘気が消え猗窩座の頸を落とすまでの過程は、思考とは別のプロセスで、なんとなく成功してしまう。「鬼滅」には、驚くほど多くの炭治郎のモノローグが記されているが、にもかかわらず彼の心理は把握できない。決定的なイベントが起こる瞬間、炭治郎の心理はブラックボックスになってしまうからだ。それは黙説法(語らないことで語ること)ではない。むしろ語りすぎることが核心を隠蔽するのである

 そのように考えるなら、炭治郎はきわめて空虚な存在である。動物的な存在(「鈴蘭のような柴犬」?)とすら言えるかもしれない。その意味で炭治郎は、鬼舞辻無惨ときわめて近縁の存在ですらあるだろう。そもそも二人とも「キャラとしての両義性」がきわめて乏しい。炭治郎はどこまでも優しく真っ直ぐな少年であり、彼のダークサイドは、無惨の力で鬼化した場面でのみ発揮される。ただしそれは、彼の「心の闇」などではなく、資質として、生物としてのダークサイドだ。

 鬼舞辻無惨もまた、単にその「生き汚さ」による強さが突出しているばかりで、悪の両義的な魅力には欠ける。彼にはディオのような強烈な支配欲も「悪の哲学」もなく、プライドも美学も欠けている。ラスボスの割に人気投票順位が低いというのは、そのためもあるだろう。そもそも自分を殺しに来た鬼殺隊に挑発的な決め台詞を言うでもなく、「しつこい」「飽き飽きした」「天変地異と思え」とか言って追い返そうとする役人かのような凡庸ぶり。もっとも「脳が5つ、心臓が7つ」あるということだから、個人というよりは寄生獣のようなシステム論的存在なのかもしれない。だから無惨が「悪人」ではなく、「永遠の生命をプログラミングされたAI」のようなものと考えるなら、その思想のなさも魅力の欠如も、すぐれて現代的な「悪の凡庸さ」の象徴として納得がいく。

 ここで最終巻での愈史郎(本作の真の主人公である)の驚くべき科白を思い起こそう。炭治郎は、禰豆子よりも無惨よりも鬼の素質があったのだと。つまり炭治郎は、剣技で無惨を圧倒した継国縁壱の技を継承したうえに、鬼の始祖よりも鬼の資質があるということになる。そんなとんでもない人間に、まともな「心理」などあるはずもない。以上の完璧な論証からも明らかであるように、炭治郎こそは本作における最も謎めいた「空虚な中心」であり、彼の存在がこの群像劇に遠近法をもたらす消失点にほかならない。

 本作の「わかりにくいわかりやすさ」は、まさに炭治郎の存在意義にかかわってくるだろう。あえてややこしい言い方をすれば、無惨は「超越的な存在」だが、炭治郎は「超越論的な位置」にあって本作の構造を支える存在だ。その証拠に、無惨は「アイロニー」しか言わないが(例のパワハラ会議を想起せよ)、炭治郎はしばしば、巧まざる「ユーモア」で場面を脱臼させるではないか。※ここでは柄谷行人的な意味で「超越的/超越論的」の対比が「(人を不快にする)アイロニー/(人を解放する)ユーモア」に重ねられている。

 炭治郎をどうとらえるかで「鬼滅」の意義はがらりと変貌する。あくまで少年漫画の王道キャラととらえれば、笑って泣ける王道バトル漫画ともなるだろう。しかし「優しさという生得的狂気」に憑かれた少年、と理解するなら、「鬼滅」は「トラウマ的な責任と倫理」の問題を生成し続ける異様な物語、に変貌するだろう。そのとき「優しさ」や「家族愛」が本当は何を意味しているのかが繰り返し問われ、あるいは再定義されることになるだろう。

 さて、あなたならこの「わかりやすいアポリア(謎)」に、どのように答えるのだろうか。




 

 

 

 

 


 



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