対話イメージ

魔法の言葉は『そうだね』☆ ~多様性を認める社会を考える~

訪問をありがとうございます。

前回は私自身のことを書かせていただきましたが、今回は、最近気になっていることを書かせていただきます。

『多様性』についてです。


ここ数年、多様性を認めることに対するサイト発信が増えています。

それだけ社会が豊かになっているんだなぁ~と嬉しく思う一方で、どうもそれらの記事を読んでいると『多様性という言葉の自己主張』という感じがしてしまい、『うーむ、これは分断を生むだけになってしまうのではなかろうか?』と私は感じてしまいます。

で、『なんでこんなに声高に自己主張しないといけない状態になってしまったのか?』ということから考えてみました。

つらつらと考えながら書いているので、お読みになった方はコメントにて新たな気づきを与えていただけると嬉しいです☆


【自由は認めているが多様性を認めていない社会】

インターネットの普及で世の中は便利で快適になりました。

とはいえ、どんなものも利点があれば弊害もある。

インターネットの場合は、わからないことを調べる辞典のようなものとして活用するには最高ですし、遠くにいる人とのコミュニケーションの場としても活用することができ、多様な価値観を知ることができます。また、仕事上でもクラウド上で様々なことができるようになり、効率化を図ることができています。

これは利点ですよね。

一方で、弊害としては使う側の使い方に出てきていると感じています。

『自分の見たい景色だけをみてしまう』ということと、『自分にとって都合の良い情報だけを集めることができてしまうので、自分の意見を絶対化しやすい』ということと、『匿名で自分の意見を言えるため、発言が無責任になりやすい』ということがあります。


で、なんでこんな状況になってしまったのかを考えたのですが、恐らく『自由で便利で快適になりすぎた結果の弊害なのかもしれない』と私は結論付けました。

つまり、便利が進み過ぎた結果、他者との本当の意味での交流が減り、『社会の中の個人』が見えなくなってしまっているのではないかなぁ~、と感じているのです。

AさんはAさんの考えていることと同じ考えの人たちのサイトに入り、その中で「あ、やっぱり私の考えは支持されているし正しいのだ」と思うし、BさんはBさんの考えていることと同じ考えの人たちのサイトに入り、その中で「あ、やっぱり私の考えは支持されているし正しいのだ」と思う。

みんなが同じ思考の集う場で意気投合することで、『自分達は正義であり、その他はバカである』みたいな分断を生み出しているような気がしてならないのです。

強すぎる正義は凶器になります。

そして、インターネットは間接的コミュニケーションなため、いくらでも過激になることができ、凶暴性・過激性を助長することができます。

こういう偏った思考を持つ人が増えると、分断はどんどん進むし、その中でみんなが自分の正義を伝えようとすると、どんどん言葉は過激になり、それが更なる対立を生み、殺伐とします。

これ、誰が幸せになるのでしょう?


【人との関係性を考え直す~対話のススメ~】

せっかく便利なものができたのに、使い方の課題で人が対立してしまうことは、非常にもったいないことであり、悩ましき課題です。

特に、ネットは間接的に人との交流を図るため、相手を慮(おもんぱか)る気持ちがないと、どんどん攻撃性を増してしまいます。

これを何とかした方がよいと考えていたのですが、無い知恵を絞って出た結論は、『たくさんの人とリアルな場で対話を重ねること』です。

つまり、対話を通じて様々な価値観を知り、その中で自分の視野を広げることが多様性を認め合える社会の第一歩だと考えたわけです。

それも、わざわざ交流の場に出ていって行うのではなく、日頃自分が接している相手・・・自分と価値観の合わない人・世代の違う人との対話を重視することが大切だと私は考えています。

職場でいえば上司や部下、生活圏域でいえば両親や近所に住んでいる人たち。

自分に気の合う仲間だけではなく、特別な場所に出向いてテンションを上げながら頑張って対話をするのではなく、普段の日常生活で接している様々な人たちとの対話をすることで、『同じ事象でも違う受け取り方をする人がいる』ということを知ることが、多様性を認めるための第一歩になるのではないかと考えるのです。


昔の不便な時代は、それが当たり前にできていたのですよね。

私は仕事柄年配者の方々と接することが多いのですが、SNSを活用していない年配者ほど多様性は高いです。

なぜなら、昔は『地域で助け合わなければ生きていけず、だからこそ自己主張ばかりしていては集団の秩序が保てない』ことを知っていたからです。

好き嫌いや、自分と考えが合う合わないで付き合いを選択することができなかったんです。

だから、自分の軸は持ちつつも関わる相手の考えも聞き、そこから折り合いをつけていたんですよね。

生きていく上で強制的に他者と関わらざるを得なく、だからこそ『人は多様な価値観を持っている』ということを理解しているのです(一部、例外の方もいたでしょうが)。


だからと言って、私は『昔の方が良かった』的なノスタルジーはありません。

インターネットが便利なものであり、これからも楽しく使いたいからこそ、自分の価値観を絶対視する危険があるのなら、それと同じ量だけ多様性を理解するための対話を重ねることで、バランスを取りませんか?ということを提案したいと考えているのです。

ちなみに、ビジネスでの対人や多数でのワイワイガヤガヤのコミュニケーションは、相手を知る深い話にはならないので対話ではありません。ご注意を☆


【対話をする際のポイント】

この部分は、対人援助をしている私は得意分野です。

対話の時にまず行うことは、『自分の意見はいったん脇に置く』です。

自分の意見を基に相手の話を聴くと、どうしても相手をジャッジしてしまうのです。

これではせっかくの対話機会も議論(debate)になってしまいます。

そうではなくて、話すテーマを決めたら、まずは自分の価値観や意見を脇に置き、相手の話を100%聴くのです。

相手の立場に立って話に想いを馳せ、状況を想像しながら聴く。

そうすることで、『なぜ相手がそのような考えを持つようになったか?』が少しはわかるようになるのです。

それを『善し悪しは別として』いったん受け入れる。

その上で、『テーマを解決するためにどうしたら良いか?』を改めて、自分の価値観も入れながら、相手と会話を重ねていくのです。


とは言っても、言うは易し行うは難しです。

私自身、20年以上対人援助の仕事に就きながら、意識していなければ自分の価値観で相手の話を聴いてしまうことがあります。

で、ですね、さんざん試行錯誤した上で、一つ、手っ取り早く対話をスムーズに進めるための技術を持ちました☆

それが、タイトルに書いた『そうだね』という言葉です。


人は何かを発する時、たいがいは『自分のことを認めてほしい(わかってほしい)』という気持ちを抱いています。

それをそのまま受け入れる魔法の言葉が『そうだね』なんです。

自分の価値観を脇に置くことを意識しつつ、相手が話しやすい環境をつくるために『そうだね』という相槌の言葉を使う。

もし何かのきっかけがありましたら、ぜひお試しください☆


【地道な活動が多様性を認め合える社会をつくる】

ふと気づいたことを書こうと思ったら、想像以上に収拾がつかず長文になってしまいました。

長々と書いてしまいましたが、結論としては『多様性というのは結果なる事象であって、日々の意識から変えていくことが大切』ということで、わざわざメディアやサイトで過激に声高に叫ぶことではないのかもしれないということです。


多様性というと特別なことをするように捉えがちですが、要は『目の前の相手を受け入れる』ということですからね。

自分が意見を持っているように、相手も相手なりの意見を持っている。

自分が意見を頭ごなしに否定されることが嫌なように、相手も頭ごなしに意見を否定されるのは嫌だろう。

だから、まずはそのことに気づいた自分から相手を受け入れていこう☆

この積み重ねが、社会に多様性を認め合える状況を創っていくのではないかな?と思いました。


物事って円錐(えんすい)のようなもので、上から見たら丸だけど、横から見たら三角で、上から見た景色の人と横から見た景色の人の主張は、どちらもお互いにとっては『正解(正義)』ですが、それを戦わせても正しい答えは出ないですよね。

そうではなく、上から見た人と横から見た人が対話することで、実は『なぁんだ、これは円錐だったんだね』と気づくことはあると思っています。

そして、そういう対話の積み重ねが、自分自身の視野を広げ物事をより正しく捉えることができ、多様性も受け入れることにつながるのではないかなぁ~、と私は感じています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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