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交換日記その後:親は子どもの悩みを解決しようとしないほうがいい

娘と交換日記をしています。その名も「やっちゃん、あのね」(なんども言うけど、やっちゃんは私。ある時から娘は私のことをやっちゃんと呼んでいます。これはまたいつか)

小学校1年生の娘が、学校に行きたがらないので、交換日記を始めてみた、というこの話の続きです。

あれから1ヶ月。娘は時折ノートを開いては、
「がっこうでなにがいやか」「いやなこと😂」
など、とにかく学校で起きた嫌なことを書き続けていました。それが先日、
しばらくぶりに、「あのねノートかいたよ」と娘がいうので、
開いてみると、ジャジャーン。

「たのしかったこと」が「いやだったこと」に勝った!

でかでかと「がっこうでたのしかったこと」が❤️🌟マークいっぱいに書いてあるではあるじゃあありませんか。「いやなこと」ちっちゃ! 
いやあよかったよかった。しかし、「たのしかったこと」を見てみると……

・ゆずっこタイム(異学年で遊ぶ中休み)で王さまどっち(ドッチボール)をやったこと
・4じかんめで1くみのきょうしつでがくげいかいのれんしゅうをしたのがたのしかった

ふんふん、よかったね……って、え〜、これってどっちも前はきらいなことだったやん!
「高学年のお兄ちゃんたちは怖いから遊びたくない〜」
「学芸会の練習がとにかくいやすぎる〜」と泣いていたはず。
180度変わっとるがな。
しかも「学校だ〜いすき。ぜったい転校したくなーい」
とか言っています。なにこの変わりよう。

まさかの「生きるのがつらい」発言を覆したものとは?

実は・・・娘はノートに「(学校に行くのがいやで)いきるのがつらい。」とまで書いた時もあったのです。

えー! そんなに!!(◎_◎;)

とさすがにちょろっと焦りましたが、よくよく観察してみると、
「普段は生きるのがつらそうには全然見えない(むしろ楽しそう)」
「「いやなこと」を書いて、余計につらい気持ちになったらしい」
「表現が豊かになってきた分、大人びた発言をしたかった」
「「いや」な理由と状態がまだ深刻なものには至ってない」
ということで、まあ、まあ、大げさにしないようにしよう、と様子をみていました。「そっかー、生きるのが楽しくなるようにお手伝いするよー」くらいのテンションで普通に接していました。

それがある日蓋を開けてみたら(ノートを開いてみたら)
まったく変わった。なんだったのか、というくらい。

それはなんだったのでしょうか、というと・・・。

自己肯定感を育むのは親じゃないんじゃないか

最近娘の中での小さな事件を思い起こしてみると、次の3つ。


1 苦手だった元気いっぱいの男の子が、実は娘をかわいいと思っている、
ということを人づてに聞いた!

2 学童で仲良しだったお友だちがその子なりの悩みを抱えていて、
助けを必要としていた。

3 ピアノを始めたら、先生がめちゃくちゃ優しい人で楽しくなった。

「元気な男子、ナイス!👍」

いや、書いてみたらどれもめっちゃありがちな、普通のことです。

つまり、こういうこと。

<Before⇄After>
・娘は自分が女子として可愛くないと思い続けていた⇄なに、このままでいいと思う人がいる(両親以外に)と気づく
・自分だけが寂しい、あまり必要とされないと思っていた⇄お友だちのために何か自分にできることがあると気がついた
・いつもの場所(学校)以外に自分が楽しめることができて自信がついた

これって、しかし、自己肯定感が生まれる種としては基本中の基本だな、
と思います。

自分のままでもOKだと気づく
身近な人にできることがある
複数の場所で生きる自分を知る

ずっと娘にはもっと自己肯定感を持ってほしいなと思っていたけど、
「いきるのがつらい」なんて書くなんて、よほど母としての私の接し方が悪いのか、と一瞬焦ったけれど、実は、親の接し方って全然関係なかった。

結局は、子どもはやっぱり子どもが自分の世界の中で、
悩みを超える瞬間を見守るしかないんだなーと実感し、
そして気づきました。むしろ、

親が子どもの悩みを自分の悩みとして解決しようとしない

ってことが一番大事なことなんじゃないかと。

もちろん今回の件は、結局、娘の悩みなんて大したことはなかった
と言えるかもしれません。
もっと大きな問題ができた時、同じような対応で自然解消できるかはわかりません。

でも、
そっかー、悩みがあって上等じゃないか。
そしてもちろん、いつだって聞くよ。

という姿勢だけ伝え続けていけるようにしよう、と心に決めました。

ということで、これからも交換日記は多分続けられますが、
それよりも娘は元気になってすごく自由度が面白くなってきました。
その話はまた次回・・・。


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