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「その人らしさ」はどこに?

先日、久しぶりに父に会った。

認知症が急激に進み、
医師やケアマネジャーと相談した結果、緊急入院したのは2月24日。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まった日だった。

今年に入ってすぐ足腰が急速に弱くなり、妄想、幻覚、徘徊の症状が出て、転んで保護されたり、家で誰か(大抵は暴力団と、グルになっている警察)と戦ったり、10日間父も家族も不眠不休、かと思えば処方された薬が効きすぎたのか、こんこんと眠り続けて体の痛みで起き上がれず、訪問介護の方に助けてもらったり、元気な時も車椅子で病院に通うくらいしかできなくなった。

父がまだ家にいた頃、母が不在の時は特に、できるだけ父の家に行くようにし、二人で過ごす時間もあった。
ある朝、父は器(父は趣味で30年以上陶芸をしていて、時々展覧会をしたり小さな賞をいただいたりしていた)をあれこれ取り出しては、

「やすこ、展覧会行こかー」としきりに言った。

「でもお父さん、今日は寒いし、車もないで」というと、車ならある。いつものところに停めてある。俺の車で行ったらええ、と返す。よろよろと立ち上がって今にも出かけそうだ。

お父さん、あなたの車は東京に引っ越してもらう時に廃車にして、免許も返納しているのよ。とは言えず、私は困った。と思うと、

「ほら、あの人は馬に乗って上手に坂を降りていきよるなぁ」
「祭りやっとるな。祭りに行かな。呼ばれてるから」

父はベランダ越しに私には見えない世界がくっきりと見えている。
昔、住んでいたマンションはほとんどが子育て世帯で
コの字型の建物の内側に小さな公園とテニスコートがあって、
子どもたちはいつも公園に集まり、大人たちは時々テニスをして、
子ども会のお祭りがしょっちゅう行われていた。
父は会長をやっていた時期があって、
いつも子どもらと一緒になって遊んでいた。 

「あ、やすこ、展覧会行くか?」と、父はまた言った。

つきっぱなしのテレビには、全国の大雪の様子が映し出されている。

「今日は寒いで。あ、ほら、すごい雪。これは無理やろ」

父に言うと、父はびっくりしたような、困ったような、私を憐れむような顔をして言った。

「これ、東北の方やろ。大丈夫か、お前」

あ、バレたか。。失礼しました。

入院直前まで、私は待合室で父と話していた。手はいつものように冷たくて、ポケットの中の何かを探している。作ってきたおにぎりやお茶を渡すと少しずつ食べた。

「これこれこういう理由で、入院したほうがいいと思います。急ですが今日からでと考えています」という医師の説明(認知機能や体の状態の悪化について医師はかなりわかりやすいように説明してくれた)に、
父は「今日?」と驚きながらも、
「分かりました。そうやな。しんどいから。元気になりたいわ」と言った。

世はどこもかしこもコロナ対策で、一旦入院してしまったら患者に家族が会うこともなかなか叶わない。弱った高齢者が集団で暮らしている病院ではなおさらで、それは仕方がないことだ。

父が不在になった後の世界は、どこかポカンとしていた。

張り詰めていた緊張感が、急に居場所を失ったかのように、うろうろと所在無げにしている。

何か父を騙したような後ろめたさと、罪悪感と無力感が、むくむくと湧き上がる。

生まれて初めて一人で暮らすという体験をするという(それもすごい話だ)母がメンタルダウンしないか心配で、相変わらず私は親の家に通った。

ほったらかしにしていた締切が痺れを切らしているからなんとか宥めて、
うちにいる、イキがいいけど、困りごとと問題をあちこちで勃発させる子どもたちの世話をして、さらには本を出版したりしたものだから、そのPRで人前に出て喋ったり笑ったりした。

つまり忙しかった。忙しくてありがたかった。
それでも、ポカンとしていた。

入院後、多少予想はしていたが、父は体調を崩し、高熱を出したり、色々な体の箇所が不調を訴え、その治療の度にまた体力を失っていった。
オンラインでの面会が1、2週間に一度30分程度許可されていたが、画面越しに、父が私や母を認識できて、なんとか会話が成立したのは最初の2回くらい。と言っても、画面で見るたびに父は痩せていって、会話が繋がらなくなって声も聞き取れなくなっていった。私や母や、子供たち(孫)のこともわかっているのかどうか、わからなくなっていった。

認知能力というのは記憶だけの話ではなくて、体のいろんな機能が働かなくなることでもあるという事実を、私はこの数ヶ月で何度も何度も叩き込まれた。

もはや自分の意志(ウィル、と言うのか?)で治療を受けるかどうかの希望を決められない父に代わって、家族に選択が任される。
母は毎回、わからない、というので、私はこれまで出会ってきた人たちの言葉や調べた情報を元にしながら、私だってわからない、と思いながらも、
押し付けにならないように気をつけながら自分の意見を伝えた。
遠くで暮らす兄を置いてきぼりにしないように、兄にも意見を聞いて、
それをまたまとめて医師と相談した。
もはや仕事だ。編集者だ。

痛いのが嫌いな父が元気な頃に話していたことが、今の彼の希望かどうかはわからない。
でも時々、処置や食事や投薬をガンとして拒否してふて寝する夜があると聞くと、ああ、お父さんらしいな、とも思った。

何度か「どうにか窓越しとかなんでもいいので、チラッと会えたりしませんかねぇ」と病院にお願いしていたら、他でもそういう声が多かったのだろう。行政とも相談してくれて、先週に入って急に、「ガラス越しの面会なら」と言われた。

というわけで、だから、2ヶ月と1週間ぶりに、父に会った。

母と病院に向かったら、ガラス越しではなく直接病室に入っていいよということになり、個室に通された。

ああ、そこには、リアルに痩せほそった父が酸素マスクをつけて横たわっていた。分かってはいたけど、リアルだった。
リアルすぎて、ぐっと喉が詰まる。

感情の波に飲み込まれてしまわないように、
昔、父といった海岸で、波に飲まれて砂浜を3回くらいでんぐり返りして大泣きした時のことを思い出して、(父は苦しんでる私の横で大笑いしていた)とにかく波に飲み込まれてしまわないように、息を吐いた。

「おとうさーん。きたよー。やすこやで」とカラ元気で言うと、父はもぐもぐと何かを言おうとしてこっちを向いた。

「わかる〜?」と母が聞くとまたもぐもぐ言う。さらに眉間に皺が寄る。
母が発言するとすぐ喧嘩腰で、こういう顔をするのだ。
わかっては、いるらしい。おでこに手を当てると昨日まで39度あったという熱は下がったらしく、むしろひんやりしている。

布団の中に手を入れると、ちゃんとあったかくしてもらっているので手はぬくぬくとしていた。

しかしまぁ、すごく痩せた父の手におそろるおそる触れた。
握ってみると、思いのほか強い力で握り返してくる。
うぉお。どこかに引っ張られるような力だ。
待って待って、ちょっと待って。

「結構元気やん?」というと、うぐうぐとまた唸る。

母と二人でしばらく、この辺は痛くないの?とか、寒くない? とか
ちゃんと食べれるものは食べなあかんでとか(ほとんど食べられないのだが)なるべく明るく話すが、父はうるさそうにして、ウトウトと寝てしまう。

目が覚めたと思ったら酸素マスクが苦しいようで取ろうとする。

「血中酸素濃度はそんなに悪くないんです。苦しいでしょうからマスクを取ってもいいんですけど念の為につけています……」と主治医が言うので、さっさと取ってみる。

眉間の皺がなくなり、ふーと父もため息をつく。

「こんなずっと寝ててマスクもつけてたら、しんどいよなぁ」というと父は途端に、めっちゃはっきりと「そらそやで!」と抗議した。

思わず医師も私も母も笑ってしまう。

「Mさんって、元気な時はすごくお元気で。今朝も『奥さんと娘さんが来てくれますよ』と言ったら『えぇぇ?!なんでや!』と大きな声で言うから笑っちゃいました。『えー心配してきてくれるんじゃないですか(笑)』と言ったんです。『そうかぁ』なんておっしゃってたんですよ」

朝方の元気な時は結構喋るらしく、ホッとした。し、なんだかこの会話は、すごく父っぽいなあと思った。照れ屋で、いつも喋りが、雑。

好き嫌いが激しく、美味しくないと感じるものには一切手をつけない。
痛いことや苦しいことが苦手すぎて、周囲に当たり散らしてはすぐ怒り出す。
他人との間に分厚い壁を作っているが、気が向いたら壁を乗り越えて遊びにいくし、壁にはいろんな絵を描いて遊んでいる。

子どものまま、わがままを通そうとしながら、
たくさん持っている愛情や優しさを、気分の赴くままに、我が子や、周りにいる子どもたちにばら撒いた。

そのくせ、お酒に逃げて問題から向き合うのが苦手な人だった。

どもしゃあない。どもしゃあない人なのだ。

いや、考えると、父は認知症になっても、体がどんどん弱っても、
今こうして限界に近づこうとしている時でも、
どこまでも父らしいのだ。
その人らしさは、病気になったり弱ったりしても消えない。
立派なものでもないかもしれないけれど、それは確かに彼らしさだった。

また眠そうにしている父を眺めていると、制限時間が迫ってきた。
また会いにくるね、と伝えて私たちは、病室を後にした。



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