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インプットとアウトプット

じぶんの専門のことについて、他分野のひとにお話をする機会を得た。そんなに長くない発表時間なんだけれど、必死になって、時間をかけて、準備している。なぜなら、わたしはじぶんのよく知っている人や同業者、後輩に対して発表する経験はよくあるが、他分野のひとにお話、というのがはじめてだからだ。(ホームではなく、アウェイのゲーム、というかんじ)だから、気が抜けない。責任をもって、じぶんの分野の話をせねば、とおもっている。

じぶんのこれまでの仕事経験も含めて話すことを依頼されたのだが、経験の背景にある前提知識を丁寧に説明する必要があるので、今必死に下調べしている。いちおう10年ほど経験があるんだけれど、正しく情報を文字化しようとすると、きちんと元のソースにあたる必要がある。

準備はたいへんだ。でも、アウトプットのためにインプットするというのは、情報や知識を定着させるのに非常に有効だなあと感じている。つまり、今回の準備で下調べしたことが、じぶんの血となり肉となっているようなきがするのだ。

インプットとアウトプット、どちらかというとインプットのほうが得意だ。中高生のころは、けっこう勉強がすきで、とくに好きな科目の授業では絶対に寝ず、板書に加えて、先生の説明内容をほとんどこぼさずにノートに書くことができていた。ノートづくりが好きで、試験前はノートをきれいに作り、暗記して、好きな科目のテストは悪いことがなかった。(好きでない科目は赤点ぎりぎり、ということがあったが)

アウトプットが苦手だと気づいたのは20代なかばのころだろうか。

もともと友だちとおしゃべりするときも、話を聞くほうに回ることが多かった。それから、社会人になってから、わかりやすく豊富な語彙で話をする知人友人と出会い、「わたしはまだまだだな…話す資格ないな…」とおもって、話すことが恥ずかしくなり、ますます聞く側に回った。

以前見てもらった算命学の占い師さんにも、「あなたじぶんから話したり発信するの、苦手ね」と言われたこともあるので、アウトプット苦手族であることはまちがいない。

でも、仕事をしていると、苦手だとも言っていられず、とりあえず、アウトプットするときは、入念にインプットし、準備して、じぶんに自信を持たせてからアウトプットしに行くように努めている。ここ数年で、仕事上のアウトプットには、慣れてきたようにおもう。(プライベートではのんびりしたいので、とくに何も努力していない。話す相手に任せっきり)

今度する発表は、上でも書いたように、そんなに長くない持ち時間だ。けれど、思っていたよりも話したいことが出てきてしまって、時間をオーバーしそう。これはうれしい悲鳴だ。アウトプット苦手族にもかかわらず、話したいことがたくさんあるのは、「うれしい」。けれど、時間オーバーしそうなのは困るので「悲鳴」だ。

これには理由があるんじゃないかとおもう。インプットの質が変わってきたからなんじゃないかな。10代20代のころは、専門分野に関してはとにかく知らないことだらけで、ゼロから頭に入れていた。けれど、キャリアをすこし積んで、若いときに吸収したものがかたまりになり、その、ある程度できあがった知識のかたまりに、薄い層が重なっていく、というプロセスを踏むようになったんだとおもう。以前はインプットだけで体力を使っていて、「へええ、そうなんだー!」で終わってたんだけど、最近はインプットにすこし余裕が出てきて、「それはそうなんだろうけど、こういう場合はどうなの?」とつっこみを入れることが可能になってきた。(このつっこみが、アウトプットにつながるのだろうか)(同時に、インプットに対して力を抜かないようにせねば、ともおもう)

人間のインプットとアウトプットの営みについては、きっと研究があるんだろうなとおもうけど、くわしくないので、とりあえず経験から得た感覚を述べるだけにとどめて、この記事を終えようとおもう。(研究、しらべてみよう)

これからもっと、アウトプットが上手になったらいいな。

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