見ない

それがいいことなのか
私を広げる妨げとなるかどうか
わからない。
そんなこともわからないくらいだから
良くないことなのかもしれない。

私は器が小さい。
ということに最近気がついた。
人として。
それもあるだろう。
許せないと思ってしまうことも多い。
ただ、それ以上に
好きなものや楽しみでさえ
入れておける器が小さいのだ。
器からこぼれるほどのものを楽しんだり
好きのカテゴリに入れておくことが出来ない。

小さな小さなコップに入れた水を
ただただ何度も見つめる。
横から、上から、斜めから。
たまに少し飲み込む。
そんな楽しみ方。
(そう言えば聞こえは良い)

Twitterをやっていると
みんな楽しむための器や
好きを入れておく器が大きいように感じる。
感じるだけかもしれない。
いや、大きいと思う。

好きになったものをどんどん掘っていく。
好きなものから派生した
また違う好きなものを見るために
横に根を張っていく。
うらやましい。それが出来ない。
勉強が苦手
(という名の逃げ。やってこなかった。)
だからかもしれない。
性格上のものかもしれない。
とにかく少しずつ、
気が向いた時に本当に少しずつ。
コップの水をほんの少し飲み込んだタイミングで少しずつ。
また注ぐ。ほんの少し注ぐ。
本当に少しだけ。それだけですぐ一杯になる。
いっぱいいっぱいになるのだ。
コップに入った水を何度も見る。
何度も何度も。
それだけで心が一杯になる。
知った気になる。満足する。
いいことのようにも聞こえる。
でもねぇ、どうなんでしょう、奥さん。
いやぁ、そうねぇ。どうかねぇ。(何)

Twitterには唸るような呟きをする
いわゆる天才と簡単に口に出したくなる人がたくさんいる。

私は影響を受けやすい。
というか、その天才達が見た世界を見過ぎると
まるでそれを自分の考えのように脳みそが勘違いする。
その内、どこかで見た感想や感じ方を
まるで自分が感じた感性のように語り出すかもしれない。
自分の目で見て自分で感じたことは
どんなに痩せ細っていても自分のもので。
自分の目で見て自分で感じたこと以上のことは
本当は自分では見ることのできない景色だ。
天才達が見た豊かな風景は天才達のものなのに
無意識に心がそれを盗むんじゃないか。
それが怖い。とても怖い。
それを"自分の世界が広がる"ことにしていいのかわからない。
なんだかすごく"ばか"みたいな考えだけど
そう思って見ない私がいる。


だって、ただでさえ小さなコップに
自分以外の水が注がれたら。

それはもう自分ではないのに。
そんなものを自分だと勘違いしてその水を飲んだら
自分なんてものは(もともと無いものが)
もっともっと無くなるだろう。
きっとそれに気付かないうちに。
水はそっくり入れ替わって
それに満足しながらおいしいなぁと飲み込んでしまうだろう。

自分の水がそんなにいいものだと思ってるわけじゃないんだ。
それでも自分のコップだから
どんなに対した水じゃなくても。
自分で入れた水を飲んで正気でいたい。
もっともっと美味しいものを
そう思いながら人の水で一杯になったコップを
満足げに見つめるのは怖い。


なんか、そういうことです。
だからTwitter上で
すごく良いなぁ天才だなぁって思う人がいても
見ないようにすることがある。
本当に器がちいせぇ。ちっぽけだ。
きっと嫉妬だって含んだ感情だ。
でもそれが私なんだから仕方ない。
これからもよろしく、小さい器。

そんな話。
今年はこんな、どうでもよくて恥ずかしくて情けない話をnoteでしてみよう。
流れ出るままの文章。
そう決めた。

ところでこれを書いた後にミジンコちゃん(歳下の友達)のnoteを読んだ。
天才だった。
もっと思考を深く掘り下げていて、正直で瑞々しいんだ。やっぱり天才には叶わない。
ミジンコちゃんの下位互換のような文章だなと思った。恥ずかしいな。
恥ずかしいnoteを書くことに成功した。
あはは。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?