見出し画像

浦島物語の子達(創作大賞2022応募)

Who am I ? 俺は誰だ。

I am You ? 俺は君か ? 俺はオヤジか ?

冬の寒さに惑わされてはいけない。冬の晴れた日って空気が澄み切っていて絵画のようなのだ。壮大な風景画。その中に突如おもちゃの世界が広がる。定番のデートコースとなったチェーン店のファミレス。今日も彼女である佐保と他愛もない話で盛り上がる。佐保のことを彼女と言える、今、この瞬間が夢のようだ。何度も頬を抓ったが頬は痛みを増すばかりだから、どうやら現実世界ではあるみたいだ。

佐保の最近のお気に入りは俺の過去の話。今日も運ばれてきたパンケーキを食べ終わるとほぼ同時に、

「今日も勘九郎の昔話聞かせてよ」

と無邪気な笑顔で要望してきた。

「前は産まれた時の話をしてくれたから、今日はその続きね」

「いいけど、俺の昔話ばっかり聞いて楽しいの?」

「もちろん楽しいよ。勘九郎の話だったらここが閉店するまででも聞いていられる」

大好きな人にそう言われて舞い上がった。やはりここは夢の世界だと思う。


佐保に色々と話をしたせいか、布団に入っても過去のことが蘇ってきた。

過去を追懐するとどうも俺のオヤジ、島八郎のことが付随して浮かんでくる。

オヤジは柔道でオリンピックに出場し金メダルを四大会連続で獲得した柔道界のレジェンドだ。今は現役を退き、ここ富門土とみもんど町の島道場で師範として若手の育成に精を出している。

そんなオヤジの元に産まれた俺は必然的に幼少期から、柔道と関わっていた。俺にとって柔道は一番身近にある遊び道具だった。他の子がゲームやカラオケを楽しむように、柔道を楽しんだ。

楽しんで取り組んでいただけだったが、小学六年の時に初めて大会に出場してから中学を卒業するまで一度も同世代の奴らには負けなかった。年々棚にはトロフィーやメダルが増えていった。

身体も一年を過ごすごとにオヤジのように大きく成長していった。

周囲の期待は増すばかりに思えた。正月に家に集まってくる親戚連中は口を揃えて、将来が楽しみだ、オヤジを越すのは息子の勘九郎に違いない、と言ってきた。俺もその言葉を受けて満更でも無い気持ちだった。

だが、高校一年の全国大会の決勝で初めて負けてから何かが狂い出した。その時は周囲も俺も、たまたま運悪く負けてしまった、早く気持ちを切り替えて次、勝てば良い。くらいの軽い気持ちだった。

ところが、その後も一向に調子は上がらなかった。結果も出ない。高校最後の大会では県予選で無名の二年に負けた。しかも圧倒的な実力差を見せつけられて負けた。

負けが続いたから周囲の俺を見る目も変わっていった。直接言ってくる奴はいなかったが、陰では、

「勘九郎ってあの四大会連続金メダルの島八郎の息子らしいよ。そんな遺伝子を受け継ぎながら、勝てないなんて、絶対適当に練習してるのよ」

なんて言われているのを聞いてしまったことがある。

そんな噂は事実無根だ。勝てなくなり出してからは、練習量をそれまでの倍にして取り組んだ。オヤジの弟子たちによるキツイしごきにも耐えた。

オヤジもどうにか俺がこのスランプを乗り越えられるように様々な練習メニューを取り入れてくれた。

オヤジは家ではほとんど話をしない寡黙な人だが、こうやって柔道を通じてオヤジなりの愛情を注いでくれた。

だからオヤジの想いにも応えたかったのに、全然勝てなかった。

そんな高校三年間は俺にとって苦しい三年間だった。

こんな毎日においての救いは、愛犬のタロウと親友の亀田豊の存在だった。そしてもちろん彼女の佐保の存在も大きかった。

小六の頃、駅前に捨てられていた芝犬のタロウを拾ってきて以来、タロウは俺の相棒だ。

家の近くの海辺をタロウと散歩している時だけは上手くいかない苛立ちも和らいだ。

親友の亀田とは中学の時からの親友だ。

中学、高校と柔道に打ち込んでいたが、勉強も疎かにはできなかった。何しろ道場にも『文武両道』と掲げているくらい、我が家では勉強することも大切なことだと叩き込まれてきたからだ。

勉強は俺にとって運動よりもハードであった。柔道の難しい技ならすぐ覚えられるのに、紙に羅列された数式は何かの呪文のように思えた。

だから俺はいつも亀田を頼った。奴は俺とは正反対で運動はできないが、頭脳明晰で中学の時から全クラスで常にトップだった。しかし見た目が奇妙すぎて俺以外の奴は近づこうとしなかった。

確かに客観的に見ると変な見た目だ。カッパみたいにひょろひょろだし、肌もガサガサ、髪の毛も中学の頃から既に中年みたいに禿げ散らかっていた。おまけに水泳の授業はいつも見学するし、休み時間はよくわからない分厚い研究書をぶつぶつ読んでいて気味が悪い。

だが、話しかけてみると、意外にも親切で面白い奴だということを俺は中学の時から知っていた。特に数学のこととなると、皆が熱中しているゲームの話をする時と同じくらいのテンションで熱く語ってきた。

「勘九郎、数学は謎解きゲームなんだよ。一つ手がかりを見つけたら全てが解明する。こんな清々しい科目は無いんだ。それに、数学は社会でもあらゆるところに応用されててね、あの橋だって数学から導き出されて…」

「はい、はい。お前が数学を愛してるのは充分わかってるって。テスト終わったら、その話の続き聞くから、今はここの問題の解き方教えてくれよ」

「約束だよ。それに話を聞くだけじゃないくて、いつものあれも頼むよ」

「はいはい、わかったって。で、ここの二次方程式の問題なんだが…」

そうやって、わからない所はすぐに亀田に教えてもらったから、数学の点数はみるみる向上した。亀田といることで、勉強の楽しみも知れた。おかげで他の教科も総じて高得点を取ることができるようにもなっていた。


そんな亀田との距離がぐっと縮まったのはあの事件があった日だ。雪に変わりそうな小雨が降っていたあの日だ。俺たちは高校ニ年になっていた。

その日も中学の時から日課にしている海辺のランニングをしていた。愛犬のタロウと一緒に。

この辺りは暑い季節には、様々な形で海を楽しむ人たちで賑わうが、この季節は寒さを避ける為に家に引きこもる人ばかりで、閑散としていた。あの凶暴な熊でさえ眠ってしまう季節なのだから仕方ない。

そんな雰囲気の中だったので堤防に集まっている人だかりに自然と目が及んだ。こんな寒い時期に大勢で何してんだ。と思いながら、何か得体の知れない不穏な雰囲気を察知した。

そこで、タロウのリードを海辺に設置されたベンチに結び付け、警戒しながら堤防に近づいた。こういう時の嫌な予感ってのはどうも当たってしまうようだ。

集団のほとんどは海の方向を向いていて誰が誰なのか判断できなかったが、一人だけ海を背にして堤防の先端に立っている男がいた。

亀田だ。

顔面を殴られた形跡があり、意識も朦朧としている様子だった。

俺が、おい!と大声を発した事により、その集団は一斉に振り向いた。

その時、こいつらが誰なのか判明した。同じ学校の奴らだった。クラスメイトの奴も混ざっている。いつも誰かを標的にして苛めている奴らだ。苛めの対象が、この前まで新任の先生だったが、その新任の先生が表向きは家庭の事情で他校に移動したから、次は亀田を標的にしだしたってわけか。

「おー島じゃあねえか。お前こそこんな雨の中なあにやってんだよ」

奴らの中でボス的存在の鮫岡が話しかけてきた。鮫岡の一族は日本人なら誰もが知る大手企業の経営者である。生まれた時から金と権力を所有した鮫岡は、それら-金や権力-をチラつかせて人を従え、悪行を楽しんでいる野郎だ。ネチネチとした話し方が人を余計に苛立させる。

俺は溢れ出しそうな怒りを堪えながら、

「亀田に何してんだ」

と問いただした。

鮫岡は人を小馬鹿にするような態度で話し始めた。

「なあにムキになってんだよ。俺らはさあ、今、人類の危機を救おうとしてんのよお。ほら、島も近くに来て見てみろ」

「こいつカッパみたいな見た目してるからさあ、興味が湧いてさあ、この前、体育館の倉庫に呼び出して全裸にしてみたのよお。そしたらさあ、驚いたぜ。背中に甲羅みたいなこぶがあんの。こりゃマジのカッパ野郎だってことで、今から海に落として遊んでやろうとしてたんだよ。こんな得体の知れない奴と同じ学校で過ごしてただなんて気味悪くて仕方ねぇだろ」

そう言いながら鮫岡は亀田の肩を小突いた。

「ほおら、カッパ野郎。早く飛び込め。お前がカッパならこんな荒れた海でも泳ぎきって死なないだろう。その泳ぎ早く見せてくれよ」

「……」

亀田は俯いたまま何も言わず震えていた。

「お前ら、人をイジメすぎてついに頭狂ったのか。亀田がカッパなわけないだろうが。そんな言いがかりつけて、人を苛めるのも大概にしろよ」

と俺が啖呵を切ると、鮫岡は両手をポケットに入れた状態で闊歩し、俺の目の前まで来た。

「島よう。正義ズラするのはいいが、言動に気をつけろ。お前が何かしようとしたら問答無用であいつを海に蹴り落としちゃうよお」

「俺はさあ、島。お前みたいな奴が大嫌いなんだよ。図体がデケえからって調子に乗りやがって。おまけに弱い者の味方かあ。反吐がでるぜ」

そして鮫岡は目線を周囲に目くばせした。周囲の奴らが一斉に俺に向かって傘を振り下ろしてきた。

傘は俺の頭部に直撃した。

傘ごときで殴られた痛みには耐えたが、打たれた頭部の表皮からは赤黒い液体が滲み出てきていた。

「無様だねえ。耐え続けるだけの能無し。そりゃそうか。テメェは負け犬だもんな。柔道界のレジェンドの血を受け継ぎながらも負けてばかりのへなちょこ君。図体だけでかくなった見せかけだけのミジンコメンタル野郎。そんな奴が誰かを助けられるわけないだろおが」

俺は頭部から流れてくるもの以上に顔を赤らめ、憤怒した。しかし一歩でも動けば亀田が海に落とされてしまう。

どうしたものか。と考えていた瞬間、背後から何かが猛進してきた。

タロウだ。

リードの結びが緩かったのだろうか。タロウは鮫岡に突進すると狼をも凌駕する程けたたましく吠え続けた。

鮫岡に一瞬の隙ができた。

と同時に俺は奴の襟元を掴みあげ、そのまま間髪入れず相手の両足を掬い上げコンクリートに叩きつけた。

オヤジの宝刀、大外刈りだ。

「ごちゃごちゃうっせえ。虫とでも犬とでもなんとでも言え。だが、次、亀田にちょっかいだしてみろ、今度は海の底まで叩き落すぞ」

そう叫びながら、倒れた鮫岡の襟元を再度掴み、仲間のほうに投げ捨てた。

鮫岡は仲間に支えられながらその場を去っていった。

俺はすぐさま亀田の元に駆け寄った。

「おい、亀田。大丈夫か」

と言う俺に亀田は痛みを堪えつつ、やっと口を開いた。

「大したことない、よ。それより勘九郎、君の方こそ大丈夫じゃなさそうだ。すぐに病院に行こう」

亀田は自分のことより俺のことを心配してくれた。

「何言ってんだ。こんな傷、ここでちょっと横になってりゃ治るって。それより無事で何よりだ」

「君は超人か。恩にきるよ」

その言葉を聞きながら、俺は濡れた堤防に横たわった。

主が死んだと思ったのかタロウが血相を変えて近づいてきて、俺の頭部を舐め回し始めた。

「タロウ、違う、死んでない。ちょっと休憩してんだ。おい、やめろ、いたたたた」

「ははははは。タロウと勘九郎は本当に相棒のようだね。そうそう、タロウにも感謝だ。ありがとう」

濡れた堤防は冷たかったが、大切な友達を救えたことが誇らしかった。

吐く息が煙のように俺たちを包み込む。

安堵の空気が漂っていた。

あの堤防での一件から数日が経過し、俺と亀田はとある場所を訪れていた。

亀田が、お礼をしたいと言ってきたからだ。お礼など必要なかったが、礼をしたいと申してきたのだから俺の好物の焼肉を奢ってくれるものだと期待して亀田について来たのに。

なんだここは。

白を基調とした家具で統一された空間に、お洒落な雑貨屋で購入してきたような小物が散りばめられている。運ばれてきた紅茶とパンケーキは淡いブルーの食器に載せられていて、写真映りが良さそうだ。

「おい、亀田。これお前が好きなパンケーキ屋じゃねえか。今日は俺へのお礼じゃないのかよ」

「そうだよ。お礼に勘九郎の知らない世界を紹介してあげようと思ってさ。それに勉強を教えてあげた恩もこれでチャラにできるしょ」

そう言われると、それ以上は言い返せなかった。

「それにしても亀田ってパンケーキ好きだよな。確かにここのパンケーキはどれも美味しそうだから、亀田にとってここはパラダイスみたいなもんか」

「パラダイス。そうさ、ここは僕にとって陸のパラダイスさ。まあ、そんなことより早く食べよう」

それから男二人でパンケーキに食らいついた。いや、食らいついたのは俺だけで、亀田はフォークとナイフを使って上品に一口ひとくちを堪能していた。一口頬張るごとに目を閉じ、鼻で息を吸い、口の中だけではなく喉元、胃、脳みその全てをフル稼働しているようであった。亀田は本当にパンケーキが好きなのだ。

30分ほどじっくりと時間をかけて全てのパンケーキを平らげ終わった後、亀田が珍しく家に寄ってかないかと提案してきた。

亀田の家は、海辺から東にほんのわずか進んだ場所にある。隣は古民家をリノベーションした民宿、反対側には老舗のお好み焼き屋が並んでいる。俺の家からは歩いて二十分くらいの場所だ。毎年、夏に開催される富門土花火大会の花火が窓越しに綺麗に見えるので、夏には毎度亀田家にお世話になっている。

それ以来の訪問なので、遊びに来たのは約半年ぶりくらいだ。亀田の部屋は、壁中にホワイトボードが設置されていて、そこに数式がびっしりと羅列してある。床からは参考書や研究雑誌が生えているかのごとく積み上げられていて、数学好きな亀田らしい部屋だ。

俺は本を隅に寄せて、久しぶりに日の目を見たであろう絨毯の上に座った。

亀田はというと、どこか落ち着かない様子で勉強机の椅子に座り、こちらに背を向けたままの状態で語り始めた。

「勘九郎、この前は本当に助かったよ。君は僕の命の恩人であり、親友だ。そんな君だからこそ聞いてほしい話がある」

俺は亀田の背中に向けて、それはどんな話なんだ、と投げかけた。

亀田はしばらく沈黙した後、意を決した様子で

「僕は、浦島太郎と亀の子孫なんだ」

と口に出した。

浦島太郎と亀の子孫。冗談なのかとも疑ったが、亀田の口調から判断して嘘をついているようには思えなかった。

亀田は続けた。

「そしてカッパも僕のご先祖様なんだ。世代を重ねるごとに人間に近づいてはきたんだけど、君もあの時聞いたように、今だに僕の背中には甲羅の形跡がある。だから鮫岡が言ってたカッパ野郎ってのも間違いじゃないんだ」

そして椅子を回転させ、ようやく俺のほうを見ると、明らかな作り笑いを浮かべ

「嘘みたいな話だろ。信じてくれなくても良いんだ。だけど僕が何者かを勘九郎にだけは伝えておきたかったんだ」

と言った。

亀田は小刻みに震えていた。憶測だが大切な人にこの秘密を話したせいで、疎遠になってしまったような苦い思い出があるのだろう。

「ふーん。そうなんだ」

俺はあっけらかんとした口調で返した。

亀田は目を丸くして数十秒、停止した。

「ふーん。そうなんだ。じゃないんだよ。何を僕はパンケーキだけじゃなくてマカロンも好きなんだ。ってのを打ち明けた時くらい、あっさり受け入れてくれてんの」

「だって亀田が言うことに間違いがあったことなんて、これまで無かったし。それに亀田が誰の子孫だろうと、亀田は亀田だろ」

亀田は今にも泣きそうな顔つきになった。

「あっ、でも亀を助けたことになるから、竜宮城に行って宝を沢山頂戴してやってもいいんだぜ」

「馬鹿言え。竜宮城があるなら僕だって行ってみたいし、玉手箱だって開けてみたいさ」

「はは、そうだよな、行ってみたいな竜宮城。開けてみたいな玉手箱。てかお前がマカロン好きなのは初耳なんだが」

そりゃそうさ、初めて言ったんだからと、亀田は何食わぬ顔で述べてきた。掴みどころが時たま消失する奴だ。そうか亀だから甲羅の中に隠してるんだな。なんて思いながら、ついフェルマーの最終定理の本を無意識に掴んでしまったもんだから、そこから亀田の熱弁を七時間も聞く羽目になってしまった。

「...でね、数学者という生き物は、答えが無い問題ですら、答えが無い事を証明してみせようとするんだ。そんな彼らにかかればさ、僕みたいなお伽話にしか出てこないだろう奴ですら、意図も容易く『存在している』と証明してくれそうだろ。だから僕は数学が好きなんだ」

そう語る時の亀田から発せらた笑顔の煌きは、深海の竜宮城をも輝かせただろう。

それにしても、世の中は不思議な事ばかりだ。

あの亀田が浦島太郎と亀の子孫とは。亀田がそうなら、俺を含めてこの町の人達は皆、浦島物語の子達なのかもな。

そんなことを考えながら、いつもの海辺をタロウと散歩していたら、前方から小柄な少女がポメラニアンを引き連れて近づいてきていた。それが後に彼女となる、佐保との初めての出会いだった。

佐保は今時の子らしく、動画も撮れる小型カメラで足元を映しながら歩いていた。おそらくこの後、どこかのSNSに投稿するのだろう。

耳元にはワイヤレス型の白いイヤホンが装着されていて、音楽に合わせて時折スキップするような仕草を見せていた。

その仕草が可愛らしいなと、うつつを抜かしていたら、佐保のポメラニアンと愛犬のタロウの鼻先が触れ合うくらいの距離にまで近づいていた。

その時突然、佐保がタロウに向かって、

「あっ!あの時の柴犬ちゃんだ」

と声を上げ、タロウの前にしゃがんで撫で回し始めた。

一頻りひとしきタロウを撫で終わると、俺に視線を移して、質問してきた。

「可愛いワンちゃんですね。名前はなんて言うんですか」

その瞬間、俺は極度の人見知りのように目をキョロキョロさせてしまった。

なぜなら佐保は俺の最推しのアイドル、ちょこっとみんとの東条春香に激似だったからだ。東条春香こと、はるるんは、ちょこっとみんとの絶対的エースだ。佐保は背丈や雰囲気も見れば見るほど、はるるんとよく似ていた。

しかし、そんな偶然は無いよな。でも本物だったらどうしよう。握手だけでもしてもらおうかな。なんてことを長々と考えていたせいで、佐保の質問に対して的外れな事を口走ってしまった。

「えっと、俺の名前は島勘九郎。好きな食べ物は焼肉です!」

やっちまったよ。何言ってんだ俺は。十中八九、話の流れから、タロウの名前を尋ねてきたのに決まっているじゃないか。

案の定、佐保はへへへと笑いながら、そっか。じゃあこの子はなんて名前なの?と俺のミスを誤魔化しながら再度タロウの名前を聞いてきた。焼肉のことなんて完全スルーだ。

恥ずかしさという色の絵の具によって一気に顔を赤に塗られた。

「す、すいません。タロウの事でしたよね。こ、こいつはタロウって言います」

「そっか、タロウって名前なんだね」

佐保はまだクスクスと笑っていた。

俺は大きく息を吸い、気を取り直してさっきから疑問に思っていたことを尋ね返した。

「タロウのこと知ってるみたいですけど、前もどこかでお会いしたことありましたっけ?」

佐保は相変わらず下から俺を見上げていた。

「うん、タロウにはこの前会ったの。ベンチに結んであったリードを解いたら一目散にあなたの方に突進していって。私も慌てて後を追ったんだけど、あの状況だったからさ、それ以上は近づけなかったの。何も言わずに去ってしまってごめんなさい」

そう言うと佐保は立ち上がって律儀に帽子も取り頭を下げてくれた。

「そうだったんですね。あの時タロウが来てくれたおかげで、親友を助けることができたんです。ありがとうございました」

俺も佐保に負けじと深々と頭を下げた。

そこから頭下げ合戦が開始され、しばらくお互いペコリペコリと頭を下げ合い、じゃあそろそろ行くね、と言って佐保は散歩に戻っていった。

俺は佐保の背中にもう一度、長く深いお辞儀をした。

視界には舗装されたアスファルトだけだったが、脳裏には佐保の笑顔が色濃く浮かび上がっていた。

しばらくして顔を上げると目の前に佐保の笑顔があった。散歩を再開したはずだったが、また俺の近くまで戻ってきていたのだ。

「私さ、毎週この時間に、この辺り散歩に来てるの。島くんが良ければ毎週話相手になってよ」

満面の笑みでお願いしてきた。心臓が張り裂けてしまいそうだった。

「も、もちろん、いつでも話相手になります。あっ、そうだ、あなたの名前はなんて言うんですか?」

「私は佐保って名前だよ。島くん、そしたらまた来週ね」

この時ようやく佐保の名前を聞くことができた。

その後、佐保は今度こそ散歩に戻っていった。

それが俺と佐保との初めての出逢いだった。


それから俺と佐保は毎週、海辺で再開し、海が青から黒に変わるまで、ベンチに座って色んな話をした。タロウを繋いだあのベンチで、タロウが繋いでくれた二人で。

お互いの血液型とか趣味とか様々なことを知っていった。

特に驚いたのが、佐保はやっぱり、はるるんと深い関係にあったことだ。

佐保は、はるるんの年子の姉なのだ。

はるるんの姉だなんて羨ましかったが、佐保は、その事も大きな悩みなんだと打ち明けてくれた。あまりにも、はるるんと似ているために、いつも本人と勘違いされてしまう。だから佐保自身はまだ有名なアイドルでは無いのに、芸能人のようにいつも帽子やマスクをしなければならないのがもどかしいらしい。

それに佐保自身もいつかはアイドルとして有名になりたいと夢みているのに、アイドル関係者の間では、『はるるんの姉』としてしか取り扱ってくれないので、悔しさが募るそうだ。

だけど佐保がこんな話をするのは極稀で、大半は未来のことについて熱く語ってくれた。

私はいつか絶対、東条佐保として認知される存在になるんだ。それでね、なんだかいつも悲しそうにしている同世代の子達を笑顔にするんだ。と目を輝かせるのだ。

ジャンルこそ違えど境遇は俺とよく似ていて深く共感できた。

俺もどこかでオヤジの亡霊と闘っていたからだ。どこにいっても『島八郎の息子』としてしか見られない。俺は俺なのに。

こうやって佐保と毎週ベンチで語り合うだけで充分幸せだったのに、俺はもう一歩、佐保と深い関係になりたいと思うようになっていた。

そこで意を決し、亀田を利用、いや協力してもらって、パンケーキ屋に三人で行く約束をこじつけた。

事前に亀田に事情を説明すると、今は違う場所がお気に入りだからそこでもいいかな、と尋ねてきた。

亀田イチオシなら間違いないので、了承した。


すぐにパンケーキ屋に三人で訪れる日は来た。

道中にある服屋のマネキンが、タートルネックにダウンジャケットという出立ちで完璧な防寒対策を披露していた。

亀田に引き連れられてお店の前にまで来た俺は驚いた。亀田が案内したのは、どこにでもあるチェーン店のファミレスだったからだ。

チェーン店をバカにしているわけではないが、亀田ほどのパンケーキ通なら、前回二人で行ったような女子が喜ぶお店を選んでくれると思っていたのに。俺は亀田は亀田だということをすっかり忘れていた。

亀田に、なんでこの店なんだと聞いたら、亀田は何食わぬ顔で、安心して、ここの期間限定のパンケーキが今一番熱いんだから。と言うのだ。

ファミレスの前で待っていると、横断歩道の向こうから、佐保が手を振ってきた。

「おーい、今行くね!」

緑のフレアスカートに白のニットと白のコートを合わせた佐保はいつもより大人びていて、俺は心臓が強く動いているのを感じた。

「ごめーん、お待たせ。ミルクがなかなか離してくれなくてさ。あっ、亀田くんだよね。はじめまして。勘九郎からいつも話は聞いてます。今日は私のために素敵な場所を選んでくれてありがとね」

佐保はお勧めのパンケーキ屋がファミレスだったのにもかかわらず、誠心誠意の感謝を亀田に伝えていた。それを受け亀田も誇らしそうだった。

ファミレスの店内に入り、席に案内された俺たちはさっそく亀田イチオシ期間限定、冬のトリプルホワイトパンケーキを一人一つずつ注文した。

パンケーキを待っている間に後から入店し近くの席に座った同年代くらいの三人組が、飲み物を注文するや否や、ビクトリーだなんだと楽しそうに叫んでいた。

暫くして俺たち三人の前にトリプルホワイトパンケーキが運ばれてきた。ホワイトチョコレート、マシュマロ、生クリームがふんだんにデコレーションされており、亀田が勧めるだけあって、口の中で雪が溶ろけるような美味しさだった。

佐保もこんな美味しいパンケーキは食べたことない!亀田くん天才!と大絶賛大満足の様子だった。佐保の褒め言葉に気分を良くした亀田が饒舌に語りだした。

「トリプルと言えば、三角形だけど、僕が好きな定理があってね。二人も習ったと思うけどピタゴラスの定理っての」そう言うと、亀田はアンケート用に置いてある鉛筆を取り、紙ナプキンにピタゴラスの定理の数式を書き出した。その数式の下に続けて、こう記した。

直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい。

「この言葉は、僕にとってはどんな詩よりも趣深いもので大好きなんだ。ピタゴラスの定理は、全ての直角三角形に当てはまる絶対的真理でね。僕はね、常々この定理から人間の真理をも感じるんだ。僕も勘九郎も佐保くんも皆違う。だけど、父と母がいたからこそ、僕らは存在できた。例えそれがどんな両親であっても、この真理だけは絶対なんだ。そしてこれから勘九郎と佐保くんが結婚して、子供を授かる。これは勘九郎と佐保くんがこの世にしっかり実体として存在し続けたからこそ起こる奇跡なんだ。こんなロマンチックな学問、他には無いよ」

「ちょ、ちょ、亀田、定理の話は面白かったが、俺たちまだ付き合っても無いのに、けっ、結婚して子供を授かるだなんて」

どうやら亀田という絵の具も赤色らしい。亀田の言葉にまたしても顔が赤くなった。

佐保は大笑いしていた。が、ほんの一瞬だけ俺の真意を確かめるように視線を向けてきた。

俺はドギマギして、どうしようもなかったので、トイレに行くという口実でその話題を終わらせた。

勘九郎が急にトイレに行ってしまったから、ここからしばらくは僕、亀田豊視点で話をさせてもらおう。

勘九郎がトイレに行った間、佐保くんと二人きりになった。

僕は本人の前では言いにくい事を、初対面ではあるが佐保くんに話始めた。

「佐保くん、このパンケーキの味付け良いだろ。でもそれ以上に勘九郎は良い奴なんだ」

佐保くんは僕が唐突に話始めたので、一瞬驚いた様子だったが、すぐさま相槌を打って話を聞く体勢をとってくれたので、そのまま話を続けた。

「最近もさ、僕の大きな秘密を打ち明けたんだけど、勘九郎はその秘密をすぐ様受け入れてくれたんだ。その時、自分という存在を認められた気がしてさ。それ以来、自分を認めてもらう為ではなくて、好きだからという理由だけで数学に向き合えるようになったんだ。そしたら益々数学の虜になっちゃってさ。今、数学者になろうと、より強く思えているのも勘九郎のおかげなんだ」

佐保くんは目だけではなく、体全体で相槌を打って話を聞いてくれた。

「うんうん、すーごっくよくわかるよ、亀田くん。私もね毎週話を聞いてもらってるんだけどね、勘九郎は何一つ否定せずに、受け止めてくれるの。だからね、私も亀田くんと似てるんだけど、誰かを超えるためじゃなくて、誰かを幸せにするために頑張らなきゃって思えるようになってきたの。自分のことを認めてくれる存在がいるって本当に心強いよね」

「そうなんだよ。勘九郎本人はさ、そのことにあまり気づいてないみたいだけど、あの男は、身体の大きさの何倍もの心の温かさを持ち合わせているんだ。僕はそんな勘九郎と出逢えて幸せだし、その勘九郎にこんな素敵な奥さんができて、より幸せなんだ」

「亀田くん、だから、私たち、まだ付き合ってもないんだってば」

佐保くんもさっきの勘九郎と同じような赤色の肌になった。どうやら二人とも結婚を連想させるワードを聞くと肌が赤くなるようだ。

そこで勘九郎がトイレから戻ってきた。話に花が咲いている僕らを見て、なに話してたんだよ、と尋ねてきたが、佐保くんが上手く誤魔化してくれた。

「何って、亀田くん一推しのマカロンのお店について聞いてたんだよね。ねー亀田くん」

勘九郎は納得した様子で、席に座り、タロウや佐保くんの愛犬ミルクの話をし始めた。

さて、勘九郎に視点を戻してやろう。


ファミレスを後にし、亀田と途中で別れ佐保と二人きりでいつもの海辺を歩いた。道端には、スノードロップの白い花びらが舞い落ちた雪のように咲いていた。

「亀田くんって面白いね。それに預言者なのかもね。私たちが結婚だなんて。どうなんだろ。私たち結婚するのかな。ね、勘九郎」

手を後ろに回してウサギみたいに飛び跳ねながら無邪気に聞いてくる。

気づけばあのベンチの前まで来ていた。

佐保にベンチに座ってもらい、俺はベンチには座らず佐保を目の前にして頭を直角に下げた。

「東条佐保さん。俺はこの海辺だけじゃなくて、世界中の道をあなたと歩いていきたい。ずっと側にいたい...だから結婚を前提にお付き合いしてください」

「......」

永遠とも思われる時間が流れた。佐保は何も答えてくれない。待ちきれなくなった俺は顔を上げた。

その瞬間。

佐保の唇が俺の唇と合わさった。

「ねえ勘九郎。今のキスはYESの味がした?それともNO?」

「苺味がしたんだけど、これってNOってこと?」

「馬鹿。YESに決まってるでしょ。こちらこそよろしくお願いします」

真冬なはずなのに春のようだった。

そういえば前に佐保の名前の由来を教えてもらった。佐保姫という春の女神から取ったらしい。ピッタリな由来だ。佐保といるとどんなに乱層雲が重なっていたとしても太陽の光が降り注いでいるような気分になる。それはこの上なく幸せで心地良い。

俺はこの時誓った。死んでも佐保を幸せにすると。

ここまで布団の中で振り返っていたら、いつの間にか明け方になっていた。

カーテンの隙間から差し込む日差しがこの世の朝を告げに来た。

佐保と付き合い出したあの日から四年が経過したのか。

あれから俺は大学三年生の時に久しぶりに柔道の大会で優勝できた。光栄にも社会人になっても続けられそうだ。このまま順調に行けばオリンピックも見えてくる。

佐保は佐保で、地道に強みである歌声と愛嬌の良さを磨き、今では妹同様にテレビに引っ張りだこの売れっ子タレントになっていた。紹介のされ方も東条佐保と紹介されるようになった。

因みに亀田も現役大学生でありながら、斬新な数論を展開して、数学の亀田、ともてはやされており、教授への道が大きく開けていた。

この四年間、佐保と二人、時には亀田を交えて三人で励まし合ったからこそ成し遂げられた成果だ。


四年間でデートも数多くした。その中で特に印象深かったのが、付き合って二年経った頃に行った水族館デートだ。

その日は雑誌のデートプランに掲載されても不思議ではない程に楽しいデートだった。

佐保が行きたがっていた食パンが絶品のモーニングを食べ、動画を撮影するために最適なカメラを求めて、カメラならなんでも揃うと評判の町の電気屋を訪れた。その後は俺の大好きな焼き肉屋で特大ハンバーグを平らげ、塩味の後には甘味だよね、と水族館に行く道中にあるカフェでホットココアをテイクアウトした。

お昼休憩でオフィスから外に出てきたらしき女性が腕を前に組み、身を縮めて小走りでコンビニに入っていった。

水族館も普段は垣間見ることができない海の中の世界に迷い込んだかのような非日常感を堪能できた。特にここ那比水族館のアイドル、アオウミガメのナビちゃんが巨体であるにも関わらず悠々と泳ぐ姿は、俺たちはじめ多くの来場者の目を釘付けにした。この子も亀田の親族なのかな、と口に出してしまいそうだった。

しかし佐保はナビちゃんよりもその周囲を世話しなく泳ぐ魚たちを見て一言、

「美味しそう」

と口走った。

俺は当惑した。最近観た映画で人間に変身した猫が魚を見て同じセリフを言っていたからだ。

だから思わず、俺は

「佐保って実は猫じゃないよね?」

となんの脈絡もなく尋ねてしまった。

佐保は大笑いして、

「そんなわけないじゃん、私はただの食いしん坊よ」

と返してきた。

俺も笑って返したが、急に辺りが暗くなった。

すぐに俺の世界に照明が灯りなおしたが、どうやら俺は一瞬意識を失って倒れてしまっていたみたいだ。

佐保がこれまで見せたこともない心配そうな表情でこちらを見てくる。

「勘九郎、大丈夫。体調悪かったならデート中止にしたのに」

「ごめんな。だけど久しぶりのデートだったから中止にはしたくなかったんだ」

「馬鹿九朗。お家に帰るよ」

佐保はそう言ってデートを切り上げる提案をしてきてくれた。俺は悔しくて情けない気持ちでいっぱいだった。体調を崩したのが自業自得だったからだ。

実はこのデートの時に、佐保への愛情を形にしたくて、プレゼントを贈る計画を立てていた。そのために寝る時間を大幅に削ってアルバイトをしていた。その無理が肝心な時に来てしまったのだ。自分の無謀さを嘆いた。

佐保は帰り道も優しく俺に付き添ってくれ、一人暮らしをしているマンションの部屋の前まで見届けてくれた。俺は佐保に楽しみにしていたディナーに行けなくなってしまった事を詫びて玄関の扉を閉めた。

数十分後、インターフォンが鳴った。

驚いたことに、とっくに帰ったと思った佐保が両手にビニール袋を下げて、扉越しにこちらに微笑んでいたのだ。

俺は風邪が移ってしまうからと佐保を部屋にあげるのを拒んだが、佐保はお構いなく部屋に突入してきた。

「栄養つけなきゃ、治るものも治らないよ。それにもし移っても今度は勘九郎が看病してくれるでしょ」

そう言ってキッチンに向かい、料理に取り掛かった。佐保は夜遅くまで献身的に看病してくれた。

雑炊を食べさせてくれたし、キスもしてくれた。

当時の俺と佐保が夢中になっていたゲームのキャラクターで、キスによって傷を治したり、状態異常を回復させる魔法使いがいた。そのキャラを題材にして、

「佐保のキスにも病気を治す力があるのよ」

と冗談交じりで口づけしてくれた。

佐保の看病のおかげで翌日には熱も下がっていたが、案の定、次は佐保が体調を崩してしまったので、役割をバトンタッチして必死に看病した。

翌日佐保の熱も下がった。

ベッドから起き上がった佐保にベッド横に腰掛けてもらい、本当はあの日に渡すはずだったんだと、赤色の箱に金色のリボンで包装されたプレゼントを渡した。中にはハートのネックレスが入っている。

後々わかったのだが、どうやらハートのネックレスというのは、女性が貰って一番厄介なプレゼントの一つらしい。

それなのに佐保は、箱を開けた時も涙を流して嬉しがってくれ、一つの忠告もしてくれた。

「勘九郎、ありがとう。このネックレスを見るたびに勘九郎の愛情を感じることができるね。でもね、勘九郎はこのネックレスを見るたびに、もう体調を壊してしまう程無理はしないって思いなさい」

佐保はそれから今に至るまで、このネックレスを肌身離さず身に着けてくれている。

生配信中、視聴者にそのネックレスは誰からもらったんですか。と聞かれても、当然のように、私の一番大切な人がくれたんだ。と言ってくれていた。

その姿を見るたびに俺は一生、この子を守りたい、と思ったのであった。

四年間の間でもう一つ印象に残っている日々がある。付き合いだして一年が経過したころだった。その頃は佐保も俺も藻掻き苦しんでいた。俺は大学に進学して懸命に柔道のスランプから脱しようと練習に邁進していたが、一向に結果に結びつかなかった。佐保も同様で、何度もテレビのオーディションを受けたが、受けた数だけ落とされた。二人とも負け続けた。

先にチャンスを掴んだのは佐保だった。妹のはるるんの代役ではあったがテレビへの出演が決まった。

その番組は何人かのゲストと司会者が会話をするトーク番組だった。この時、司会の芸人が佐保に聞くのは妹のことばかりだった。「はるるんって家ではどうやって過ごしてるの?」「はるるんって小さな頃から可愛かったの?」佐保はその質問に嫌な顔せず、一つひとつの質問に誠実に、そして満面の笑顔で答えていた。

その時の佐保の姿、強烈に輝いていた。

妹のことばかり聞かれても、私は私よ。という強い意志を感じた。

そして俺はハッとした。そうだ、そうなんだ。俺は佐保の近くにいながら何も学んでいなかった。佐保はかなり前から妹と比べることを辞めていたではないか。妹より売れたい、じゃなくて、私が頑張って人を笑顔にするんだって常々言ってたじゃないか。それなのに俺は、他人事のように流していた。今の俺はどうだ。いつの間にか偉大な功績を残したオヤジを超えることばかり考えてしまっていた。超えることばかり考えて、いつの間にか柔道そのものを楽しむことができなくなっていた。そうじゃないだろ。柔道を始めた時は何もかもが楽しかったはずだ。技術が向上していって綺麗に一本取れたときなんて嬉しさが爆発したはずだ。その時は対戦相手と自分との一体一の真剣勝負だったはずだ。それなのにいつの間にか変なプライドや成績のことを気にしてしまっていた。オヤジとの技術の差を埋めようと必死にもなってしまっていた。だけどそうじゃないんだ。俺は俺だ。自分が楽しむために柔道をしている。そして柔道で得られる強靭な体力と精神力を持って大切な人、佐保を守るために柔道をしている。そのことを忘れたら駄目だったんだ。

俺は画面越しからも佐保に大切なことを教えてもらった。

この時ようやく俺は俺だ。と自信を持って思えるようになった。そう思えるようになってから徐々に結果も出てきて、遂に大学三年で優勝するまでに復活したのだ。これも佐保のおかげだ。

この日々のおかげで佐保への想いも揺るぎないものになっていった。

佐保とはゆっくりではあるが着実に愛を深めていった。そして今から半年前、俺は佐保にプロポーズすることを決意した。

ちょっとここからは私、東條佐保視点で語らせてもらうわ。だって特別な日のことだもの。

日にちも天気も明確に覚えているわ。あれは六月二十五日。梅雨の季節だったのに、その日は雲一つない快晴だった。

勘九郎から一月前に提案を受けたの。勘九郎はこう言ってきたわ。

「亀田の快挙祝いに三人で旅行に行かない?そこで亀田にサプライズでプレゼントも渡そう」って。

その年、亀田くんは何やら数学界隈を騒つかせる数論を発表し、一躍時の人になっていた。数学界の若き天才だなんてメディアでも取り上げられていた。

私も勘九郎の提案に乗った。三人で遊ぶのも久しぶりだったから、旅行自体も楽しみだった。

それから勘九郎と二人で旅行の計画や、亀田くんへのサプライズプレゼントを用意した。

旅先は瀬戸内海が美しい小豆島に決めた。小豆島はどことなく私たちが住んでいる富門度町と雰囲気が似ていて居心地が良かった。

宿泊したホテルも芸術的な内装が革新的であるのに、従業員のおもてなしが柔らかくて、存分にくつろげた。

夕食は瀬戸内海を一望できる高層階のレストランでコース料理を堪能した。

デザートが出て来る前のタイミングで

「実は亀田くんにプレゼントがあるの。亀田くん偉業達成おめでとう」「亀田おめでとう」

そう言って勘九郎と二人で選んだ伊達眼鏡をプレゼントした。

亀田くんは少しだけ照れて

「ありがとう。三人で久しぶりに遊べるだけで大満足なのに、こんなプレゼントまで。こりゃ二人の結婚式のご祝儀弾まないとだ」

といつもの亀田節でその場を和ました。亀田くんはその場ですぐに伊達眼鏡を掛けてくれた。数学者に相応しいインテリジェンスな雰囲気が増されて、よく似合っていた。

勘九郎もご機嫌で

「よっ、亀田教授。よく似合ってるぞ」

なんて言ってた。

その後もう一つサプライズで用意していたケーキを三人で食べ、亀田くんサプライズ旅行は大成功で幕を閉じた。

亀田くんとは違う部屋をとっていたから、途中で亀田くんとお別れして勘九郎と二人で部屋に戻った。部屋までのエレベーターの中で

「亀田くんとっても嬉しそうだったね。大成功」

「そうだな。やって良かったよ」

と二人とも満足して部屋に向かった。

部屋に入って電気をつけた。

大家族が悠々と寝泊まりできるくらいの広さの部屋のテーブルの上に

大きな、

大きな薔薇の束が置かれていた。

私が声を失ってたら、後ろから勘九郎が

「実はもう一個サプライズがあるんだ。ちょっとこっち来てくれないか」

と言って私を薔薇の束の前に立たせた。背後には大きな窓越しに満天の星空が煌めいていたはずよ。

勘九郎は

「想いをちゃんと伝えたいから手紙を用意したんだ」

そこで内ポケットに忍ばせておいた手紙をとって読み始めた。

佐保へ。驚かせちゃってごめんよ。これから俺の佐保への想いを伝えます。佐保と出逢って四年が経ったね。その間楽しいことだけじゃなくて、辛いことや、悔しいことも沢山あったね。でも佐保とだから乗り換えられた。佐保が初めてテレビに出て妹のことばかり質問してくる司会者にも凛とした態度で応対している姿を見て、俺、気づいたんだ。俺はオヤジを超えるために柔道をしているんじゃなかったって。俺は俺だって。そしてその時から同時にこうも思い始めたんだ。俺は君だって。君が悲しんでる時、俺も凄く悲しかった。君が楽しんでる時、俺はめちゃくちゃ嬉しかった。俺は俺なのに、俺は君でもあるんだ。もう君なしでの人生なんて考えられないんだ。佐保のこと、言葉じゃ表せないくらい愛しています。言葉じゃ表せない分を目の前にある薔薇で表現してみました。これくらい俺の佐保への愛は純赤に輝いているんだ。だから...

そこまで言って勘九郎は手のひらサイズの玉手箱を取り出し跪いた。中にはこれまでみたどんなものよりも美しく輝く指輪があった。

「俺と結婚してください」

私は嬉しくて、嬉しくて、どこか照れ臭くて

「はい」とだけしか答えられなかった。

言葉にできない想いぶん、勘九郎の首をへし折ってしまうくらい強く強く抱きしめた。

勘九郎はそんな私とは対照的に優しく私を抱き返してくれた。

その後は言葉のいらない世界だった。


その世界についても語りたいんだけど、この辺りで私、東条佐保視点のはおしまいにしておくわ。勘九郎に見つかっちゃう前に帰るわね。

ほら、現代の勘九郎が帰ってきたわよ。



そして今、現在だ。プロポーズしてから半年が経った。

俺と佐保は実家を目指していた。結婚を認めてもらうためだ。

実家は富門土駅前の商業地域を十分ほど南下し、なだらかな坂道を登った閑静な住宅地の一角にある。到着して玄関を開けると愛犬のタロウが、相変わらずの猛進で俺たちを迎えてくれた。タロウの後ろには母親が立っていて、オヤジは奥の客間に陣取り、庭を眺めていた。

客間まできたタイミングで佐保はいつもの笑顔で

「お父さん、お母さん、お久しぶりです。これ、つまらない物ですが、どうぞ」

と言い、オヤジの大好物の最中を手渡した。

オヤジはどこか緊張している様子だった。客間には、妙な緊張感が漂っていた。俺はこれから命綱無しで張られたロープの上を渡る覚悟で口を開けた。

「オヤジ、久しぶり。今日は佐保と結婚することを報告しにきました。彼女のご両親には先日挨拶にうかがって二人の結婚を承諾をしてくれました。まだまだ若造だけど、一人の男として佐保のことを守っていきます」

オヤジは腕を組んだまま、何かを考えている様子だ。佐保も後に続いた。

「お父さん、お母さん。まだまだ未熟な私ですが、勘九郎さんと協力して、お二人のような温かい家庭を築いていきたいと思っています。どうぞこれからよろしくお願いします」

相変わらず、オヤジの腕は胸の前で結ばれたままだ。小指が小刻みに動いている。

何を考えているんだろうか

と思っていた矢先、オヤジの小指の動きが止まり、おもむろに話出した。

「四年前、お前たちが付き合うことを報告しに家に来た時は、まだまだ子供だと思っていた。しかし二人ともあの時から見違えるように立派になったな。二人がどれだけ信頼し助け合ってきたか、ひしひしと伝わってくる。勘九郎、佐保くん、ふたりとも本当によく頑張ったな。そして結婚おめでとう。心から祝福する」

そう語ってくれたオヤジの姿はこれまで俺が見たこともない笑顔のオヤジだった。

そしてオヤジは引き続きしゃべり出した。

「まあ、そんなことは実は重要では無くてだな。佐保くん、佐保くん。ずっと気になっていたんだが、君はちょこっとみんとのはるるんの影武者なのか?」

俺と佐保はきょとんとし、顔を見つめ合い、大笑いした。なんでそうなるんだよ。と思いつつも、一気に場が和んだのを感じとった。

「お父さん、はるるんは私の妹です!あーもう!ここ数年で妹と同じくらい有名になれたかと思ってたのに、こんな身近に振り向いてもらわないといけない存在がいたとは。お父さんを私のファンにさせるのがこれからの目標になりました」

そう言いながらも佐保は唐突に立ち上がって、ちょこっとみんとの代表曲、『恋のsweet&cool』を踊りながら歌い始めた。と、同時にオヤジは俺の知らない声色で完璧な合いの手を入れていった。

いつからそんなにファンだったんだよ。

最高に上機嫌になったオヤジはあれこれ指示を出し始めた。

「お母さん、さっきもらった最中とお酒もってきなさい。そして佐保くん、用事がなければ今日は泊まっていきなさい。勘九郎、お前もぼさっとしてないで料理の一つでも持ってくるの手伝え」

佐保は少し困惑した様子だったが、それ以上に打ち解けられた喜びに満ちた表情をしていた。

トイレに立ったオヤジの隙をみて佐保が

「お父さんは勘九郎と同じくらい愛情深い人だね」とウィンクしてきた。

確かにな。オヤジなりに沢山の愛情を注いでくれたから今の俺がいる。そう考えると、これから、もっとオヤジのことを知って、親孝行もしなけりゃなと思えた。

その日の夜は長かった。

日付が変わる頃まで宴を楽しんだようだ。

お酒の弱い俺は一足先に布団に潜り込んだ。

佐保はもう少しだけオヤジとの酒に付き合ってからそっちに行くね、お父さん達もいるんだからいつもみたいにエッチなことしてきたら駄目だからね。と釘もさされた。

少し眠って目を覚ますと、襖越しにオヤジと佐保が何やら会話していた。

「あいつには悪いことしたと思ってるんだ。強くて優しい男にしたかった。だけど俺は柔道しかしらないから、柔道しか教えられなかった。スランプに陥った時も俺は気の利いた言葉の一つもかけてやれなかった」

「佐保くん、君がいたから、あいつはあれ程にまで強くて優しい男になったんだな。まだまだ至らない息子だが、あいつのこと頼んだ」

声がでかいからオヤジの言葉は襖越しでも全て耳に届いた。いや、心にまで届いてきやがったか。

枕が涙で濡れた。

その後、佐保が隣にやってきて背中越しに寄り添ってくれた。俺は反転して、さっき言われたばかりの忠告を破り佐保を愛した。愛で全てが満ちた。


翌朝。腕時計は6:40という早朝を示す数字を表示していた。

佐保の仕事が昼から入っていたため、俺たちは朝早くに、実家を後にした。母親とタロウが見送ってくれた。オヤジは昨夜の深酒のせいで、まだ眠っていた。案外だらしないところもあるんだなと、微笑ましかった。

家を出て80m程歩いた所で思わず立ち止まった。俺たちが出会った海辺辺りから昇ってくる朝日が綺麗だったからだ。佐保も感動したのか、朝日の奇麗さにうっとりした表情で、太陽を眺めていた。

その時、

背後から何かが猛突進してきた。

振り向くと、それはゴミ収集車だった。

恐らくシフトを入れ間違えたのに、動揺してそのままアクセルを踏み続けているのだろう。速度を落とすどころか勢いを増して向かってきた。

それは

ほんの一瞬だった。俺の身体は、向かってくる車に重心が及んだ。

と同時に横から思い切り突き飛ばされた。

佐保が俺を突き飛ばしたのだ。

佐保は倒れた俺に微笑み、

「生きて」

と声を発した。他にも言いたいことがあったのだろうが、間に合わなかったのだろう。

ドカン!!

鈍くて生暖かい音が響いた。

佐保は速度を上げて向かってきたゴミ収集車によって数メートル宙を舞い舗装された固いアスファルトに叩きつけられた。周囲からはあの時俺の頭から流れてきた赤黒い血があふれ出している。俺はあまりにも突然のことすぎてパニックに陥った。鍛え抜いたはずの太い脚が震えている。目からは涙、皮膚からはなんの汗かもわからない汗が溢れてくる。この距離でも明らかだったからだ。

即死だった。

どうしてだ。どうして俺はこうなんだ。守るって決めたのに。一番大事な時に、どうして佐保を守る動作ができないんだ。なぜだ。なぜだ。

絶望に支配されつつも、必死で体を奮い立たせ佐保の側に駆け寄った。

佐保、さほ、佐保、サホ!!!

どんなに大声で叫んでも佐保が返事を返してくれることはなかった。

ゴミ収集車の運転手も事態を把握できていないのか、一向に車から降りてこない。

俺は逃げるようにしてその場を去った。佐保を置き去りにして。

細い路地裏に逃げるように這ってきた。手も服も佐保の血で血まみれだ。全身が震えて止まらない。俺は何度も何度も謝った。ごめん、ごめん、佐保ごめん。俺が君ごと抱えて横に逃げられていたなら、これからもふたりで生きていけたのに。こんな時のために柔道で体を鍛えてきたはずなのに。ごめん、ごめん。そう言いながら、いつも欠かさず持ち歩いている鞄から箱を取り出した。腕時計は6:59という表示になっていた。

鮮やかな赤色の箱に金色の紐で固く閉ざされている、その箱を震える手で必死に開けた。

中には1本の煙草とライター。

俺は生涯吸ったこともない煙草を咥え、ライターで火をつけた。煙草を吸うと煙が体内を充填していき、気づけば世界の全てが煙に覆われた。

その中で俺はあの日の亀田との会話を思い出していた。あれは亀田の家に行った時、そう、亀田が自分は浦島太郎と亀の子孫だと打ち明けた日だ。

亀田は竜宮城の存在は知らなかったが、実は自作で玉手箱を開発していたのだ。そしてその玉手箱を俺に託した。その時亀田はこの玉手箱についてこう説明してくれた。

この玉手箱の中には煙草が入っている。その煙草を吸えば、時間を20分戻せる。でも副作用として、吸った日の終わりに吸った本人は消える。正確にはどこかのお腹の中の赤ちゃんに転生する。周囲は勘九郎の記憶は無くさないが、勘九郎だけは前世の記憶は失う。そしてこのことを誰かに話した時点で効果は無効化されてしまう。だから自分のこれまでの人生を犠牲にしてでもやり直したい局面が訪れた時にのみ使うように。できることなら勘九郎がこれを使わずに人生を謳歌できることを祈っているよ。

亀田はそう言ってくれたが、玉手箱を開けるべき時が今、まさに訪れたのだった。

煙草の煙に包まれ、勘九郎は次第に意識を失っていった。


意識が戻った時、そこには佐保と母親とタロウの姿があった。腕時計は6:40を示している。時を戻すことに成功したのだ。佐保が無事でいることに、俺は今にも泣きそうになった。

しかし感傷に浸っている場合ではない。俺は佐保にしばらくここにいるようにと伝え、ゴミ収集車が停まっている場所に向かった。

そしてゴミ収集車の運転席の扉を叩きながら、叫んだ。

「運転手さん!ちゃんとシフトがドライブになっているの確認してください!」

帽子を深々と被った運転手がこちらの存在に気づいて顔をこちらに向けた。

絶望の光景とは地獄にあるのではなく、現実に転がっている。

その男の顔を認識できた時、俺は信号機のように一度青ざめ、すぐさま怒りで赤くなった。

その運転手は鮫岡だったのだ。

目の焦点が合っていない。

俺は、こんな奴のために、佐保との未来を絶たれたのか。こんな奴のために。

怒りが腕に伝播し、骨髄反射的に車の扉を開けた。扉にはロックがかかっておらず勢いよく扉は開いた。

その瞬間、扉を開けた反対側の肩めがけて、鮫岡はナイフを突き刺してきた。激痛が走った。痛がる俺の様子を楽しむように車から降りてきた鮫岡はにやつきながらも容赦なく俺の胸部を何箇所も刺した。

「傘では死なないお前もさあ、これなら確実に死ぬよなあ。死ねえ、死ねえ、俺を差し置いて幸せそうにしてる奴は全員死ねえ」

刺された箇所が燃えるように熱い。血がとめどなく流れ出してくる。意識もなくなりそうだ。だが俺が長年かけて鍛え上げた躰はなんとか俺の命を繋いでくれている。

気力を振り絞り、大きく息を吸う。

「こんな痛みはな、オヤジとの乱取りと比べりゃ蚊みたいなもんなんだよ」

そう叫んで、俺は鮫岡の腕を名一杯掴んだ。ナイフは俺の胸に刺さったままだ。悔しいが鮫岡を投げ飛ばす力は残っていない。

だがこれでいい。

俺は知っているから。

オヤジは愛情深い人間だって。

疾風雷神。

俺の危機に野性的な本能で気づいたのだろう。熟睡していたはずのオヤジが雷の如く向かってきて、手とうで鮫岡の手とナイフを切り離した。間髪入れず、襟元を掴み、鮫岡の両足を掬い上げ、地面に体全身が砕け散る程の勢いで叩きつけた。

という幻想でも観せたのだろう。鮫岡は腰を抜かしズボンの間を湿らせた。

さすがオヤジ。気迫だけで鮫岡に技をかけられたと錯覚させたのだ。とんでもない人だ。

鮫岡はその後、警察に連行された。

オヤジは俺に刺さったナイフを引き抜いてくれた。オヤジはなんとも形容しがたい表情で仁王立ちしていた。初めてオヤジが泣いている姿を目にしてしまった。

すぐに佐保も側に駆け寄ってきた。

「勘九郎!勘九郎!なんで、なんで勘九郎がこんな目に合うの?!この人誰なの?すぐに救急車来るからね。もうちょっとだからね。もう少しだけ耐えて」

俺は最後の力を喉元に集めた。

「……佐保…と出逢えてよかった…」

愛してると伝えたいがもうそれを音にする力は残っていなかった。

「なに死ぬ間際みたいなこと、言ってんのよ。もうちょっとなんだって。もうちょっとだけ」

そう言って佐保は俺に口づけしてきた。

「ほら、私の口づけには傷を回復する力があるんでしょ。何回でもキスするから…目を覚まして…お願い、勘九郎……1人にしないで」

最後に聞いたのはうわああんと響く悲しみと絶望まみれのうめき声。

俺は声を出す代わりに涙を垂らした。

溢れた涙は地面で蒸発し、俺諸共、煙と化してしまった。

それから15年後。


僕、亀田豊はとある中学柔道大会初戦を観戦している。

佐保くんと勘九郎の息子である島勘十郎、に対するは僕の息子亀田勘九郎。

島勘十郎のお株を奪う、亀田勘九郎の大外刈りが見事に決まった。

その光景を見て、島の父親、佐保くん、そして僕は同一人物を思い出し、目を潤ませた。

かつての親友であり、今は息子である勘九郎だ。(玉手箱の転生により僕たちの元に舞い降りてきてくれた)

勘九郎はあの時、佐保くんだけではなく、託された未来をも守り抜いたのだ。あの時佐保くんは命を授かっていたんだ。

涙ぐんでいる佐保くんが道場の天井を見据え力強く宣言した。

「勘九郎がね、プロポーズの時に言ってくれたの、俺は君だって。私も今それをひしひしと感じている。私の中に勘九郎がいて生き続けてる。だから私ね、これからもあの子と二人で強く生きていくわ」

佐保くんの背後に勘九郎のとびきりの笑顔が映った気がした。

勘九郎、君が愛した女性は、今、を懸命に生きようとしているよ。

終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます。