「評論」 国語教室2

今日のお題は「評論」です。

なぜ大学入試の現代文で評論が出るのか?
それは大学入試だからです。
(こういうのは同義反復、トートロジーともいいますw)

いや、ジョークではないですよ。
大学に入るとたくさんの本を読まされますが、入学して間もないころはセンター現代文と同じくらいのレベルの本、学部に移るともう少し専門的な本や短い英文論文などが多くなります。
つまり、大学の授業についていくことができるかどうかのチェック、それが入試現代文の評論というわけですね。

では、こういう評論はどういう人たちが書いたものでしょうか?
これは圧倒的に大学の先生方の書いたものです。(例外はありますけど)
それもばりばりの専門書とか論文ではなく、受験生や一般の人でも理解できるように書かれたもの、昨日紹介した村上陽一郎さんの『科学の現在を問う』のような新書レベルのものが多くなります。

といっても、皆さん方の学年や得手不得手によっては、大変むずかしい、読んでもさっぱり分からない、ということもあるでしょう。
ただ、勉強というのは、できなかったことをだんだんできるようにしていくことですから、今むずかしいと感じても、がっかりしないでください。

さて、評論の読解というのは、筆者の意図を適切に把握する作業です。
筆者がどういう人か分かっている。これも意図を把握する手がかりになります。

たとえば本文に「今年の受験はどうなるのか」と書かれていたとしましょう。
むずかしくもなんともない文なので、多分読み流す人が多いと思います。
しかし、この「受験」という言葉は、書き手がどういう人かによって、具体的な中身が違ってくるのではないでしょうか?

われわれのような予備校講師や高校の先生なら、それは「今度の大学入試はどうなるのか」という問いと同義です。社会全体から見ての「大学入試全般」への心配、あるいは自分の受け持ちクラスのことを心配しての問いですね。
しかし、これが中学生を教える先生であれば、「今度の高校入試はどうなるのか」ということに意識の力点があるでしょう。
ただ、いずれにせよこれらの「今年の受験はどうなるのか」という先生方の問いは、社会全体を視野に入れたものであれ、自分のクラスを心配したものであれ、先生方本人の受験のことではありません。(当たり前ですよねw)

多分皆さん方も「今年の受験はどうなるのか」と考え込むことがあると思います。
その場合、普通は「受験生」として「自分」の受験がどうなるか心配しているのではないでしょうか?
つまり「今年の受験はどうなるのか」という見た目は同じ文でも、高校生を教えているか中学生を教えているかで「受験」の中身には「大学受験」か「高校受験」かという差異がある。
さらに、教師か生徒かの違いで、やはり「受験」という言葉の中身には差異が発生するわけです。
社会全体やクラスの生徒といった「自分以外」の受験なのか、それとも「自分自身」の受験なのか。

さて、このあたりで、この話をもう少し受験現代文っぽい話題に応用してみましょう。(この場合、私の使っている「受験」は当然大学受験を指しているわけです)

上記の村上陽一郎さんの文章は受験現代文で非常にたくさん取り上げられているので、例として考えてみますね。

喜ばしき学問とは、(中略)日常的な自己の解体に対面させるようなものだ、といって良いだろう。
                      村上陽一郎『自己の解体と変容』

この場合の「学問」とは、「学問一般」のことかもしれないし、村上さんの専門である「科学哲学」「科学史」などの具体的な学問領域を指すものかもしれません。ここだけ読むと、どちらとも解釈できますね。

しかし、ここで昨日紹介したおすすめ本のニュートンの事例で考えてみましょう。

私たちはニュートンを「科学者」と思い込んで育ちます。つまり「日常的」には、そう思い込んでいる、ということです。
ところが、科学史の研究でニュートンのことをあれこれ調べてみる。そうするうちにニュートンが神さまのためにいろいろなことをしていたことが分かってきた。つまり日常的に思い込んできたことが、どうも間違いだったと気づくことになった。別の言い方をすれば、ずーっと思い込んでいた自己の考えが解体されてしまったわけです。

上記の引用文は、学問一般について書かれたものとみなすこともできます。
しかし、同時に、科学哲学を教える一人の学者が、これから同じ学問を学ぼうとする学生たちに、哲学とは自己の解体につながるようなものでなくてはならない、ということを教えるためにか書かれたものとみなすこともできるわけです。
単なる知識の習得ではダメなんだよ、ということを教えたかったのかもしれない。

さて、実際問題として、村上陽一郎さんが科学哲学の学者さんで、東大で長いこと教えてこられた方だということを知っている高校生はほとんどいません。知っているとしても、高校とか予備校でチラッと聞いた、というケースがほとんどだと思います。(一部、哲学や理論物理学に興味のある生徒さんは除いて)

だから、出題されるかもしれない筆者についてあらかじめ知っておこう、などという勉強法はあまり効率がよろしくないし、現実的ではないです。
しかし、よく出されるジャンルについて多少の予備知識を持つこと、また評論は大学の先生方が書いたものが多いということは、知っていて損のないことです。

今年の入試に不安を持つ人は多いと思います。
お家の人のテレワークや、弟妹さんがいたりして、自宅学習がなかなか思うようにいかない人もいるかもしれません。

ただ、こういうときにこそ、淡々と自分のなすべきことを遂行する。それはとても大事なことだと思います。
今の頑張りが、かならず皆さんの血肉になると信じています。

ですから、評論を読むときは、なーんとなく読むのではなく、大学の先生が書いているかもしれないという想定で読んでみてください。できれば、それを習慣にね。


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