片付けもできない

 坂口安吾は部屋を片付けておくのが苦手だったそうだが、大作家であった。僕も部屋を片付けておくのが苦手であるが、大作家ではない。作家ですらない。貧しい講談師である。最悪だ。屁だ。プー。

 何故こんなにも片づけというものができないんだろうか。
僕だってきれいな部屋へのあこがれはある。陽光差し込むリビング、豆を挽いたコーヒーを淹れて、ソファにずっくりと沈み込んで海外文学、ガルシア・マルケスとか、そういうのを読む休日の昼下がり…そんな状態になっていきたい。
しかして実際はそういったことは起こらない。散らかった部屋の真ん中の万年床でサンプルのエロ動画を見たり、5ちゃんねるの講談スレを見て「大阪の話題がひとつも出ねえ。くっそ」と嘆いたりしている間にもう夕方で、焼酎を飲み、パスタを食うと眠くなってきて、クソを終えた飼い猫がこちらに駆け寄ってきて、その仄かな薫りを感じながら寝落ちするだけの暮らしである。

実際、現在、僕の部屋には文字通り足の踏み場が無い。足を踏み入れると踏んではいけないものを踏んだバリバキ音が鳴り響く。件の飼い猫も僕の部屋には立ち入らないようにしている様子だ。彼にとっては我が部屋の構造物は、相対的に僕が感じるよりも大きいはずで、魔境魔都のようで恐ろしいのだろう。
むろん片づけをしたことはある。何度もある。しかし途中で挫折する場合がほとんどである。挫折はいつもすぐそばにある。片付けをするということはたくさんの本を手に取ることである。当然興味関心があって購入してそこにある本であるから、昔に読了していたとしても、ぺらぺらとめくり、気が付けば散らかった部屋で寝転んで熟読している。あるいは余りの片付いていないさにげんなりし、とりあえずそうめんなどを食べている間に眠くなって眠ったり、どうせ片付けても散らかるのに何故片付けているのかそもそも俺はいつか死にこの汚い部屋もいつかは灰燼に帰す、などと諸行無常モードに入ったり、あまりの散らかり具合に発狂寸前で憤慨してみたり、挫折を何度もする。
たまにそういったすべての諦めの停車場をすぎることに成功し、片付けを完了できるときがある。が。片付けがいったん完了したとて、片付いている状態が持続しないのだ。
当然片付いていないから掃除もできない。掃除機をかけられる寸毫のすきまもない。埃などもたまり放題だ。できるだけ部屋で食事や間食をとらないようにして、食べ物のゴミだけは発生させないようにしているものの、何が潜んでいるのか定かではない。川口浩に探検したい、と言われたら断れないくらいの秘境と化している。絶望的だ。

 これで何らかの才、つまり冒頭の安吾のような才があればそれでいいのだが、僕にはどうもそれが無い。これは辛いことである。

部屋を片付けられないなら天才で居たかった。

しかし僕は僕の履歴を顧みるに徹頭徹尾天才ではない。愚鈍であり、魯鈍な人生であった。暗愚であった。生まれてこの方愚息であり、3歳の頃からは愚兄でもあった。

せめて片付けくらいはできる男になりたかった。できないことが多すぎる。
片付け屋さんを呼びたいが、片付け屋さんを雇う金を稼ぐ能もない。
もう死ねばいいんじゃないか、という意見は頂戴することもあるし、自分の中でもベストアンサーの一つではあるのだが、結句死ぬ勇気はない。意気地もないのである。
ただ、汚い部屋に揺蕩っているだけの、死にぞこないで生きぞこないの愚かな意気地なしの生活不能者が僕である。

 今後僕の人生が音を立てて明転することはあるんだろうか。きれいな部屋で、暮らしの金に困らず、ニコニコと笑って暮らせる日がくるのだろうか。
そうなれば講談という芸能は大変な芸能である。講談、大変な芸能であってくれ。いや、そのパワーの片りんは感じつつある。
この、酒嚢飯袋の穀つぶし、経済的インポテンツの僕にそれでも仕事と、お金と、人間関係を招いてくれている。これ全て講談のおかげである。僕本人には全くそういった力はない。
だから実際大変な芸能なのだ講談は。でももっともっと大変な芸能であってくれと僕は祈っているのだ。

僕はこう見えても幸福にはなりたいのである。
汚い部屋の真ん中で泣いている赤ん坊のままで死んでいきたくはないのだ。

経済的インポテンツってなんやねん。


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