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利得と党派分裂~大阪の講談と玉田玉山の未来、翻って現在~

 講談の協会に所属せず、芸界とのつながりはほぼ師匠だけ、という独立系の僕の味方で居てくれる人や、仲間になってくれる人を大切にしていかなければならないと切に思う。
独立系であるがゆえに仲間も味方も多くはない。
が、独立系である故に仲間や味方になる利得もまた少なく、それでもなお仲間や味方でいてくれようというのである、そういう人がいるのだからからこんなにありがたいことはない。
僕もそういう人たちがむやみに、運命的に僕の仲間や味方で居てくれているとは思っていない。何らかの利得があるのだろうと思う。
しかしその利得は地位や名誉や金銭等ではないことが、僕の立場や経済状況からは明らかである。
そういうものではない何か、を利得として感じてくれているから仲間や味方でいてくれるわけである。

うーむ。それはそれでむつかしい話なのである。
何を利得としているか、がつかみにくい、ということになる。
楽しさ、とかやりがい、とか、おもしろさ、とか、ほっとけなさ、とか、いきがかった舟から降りられないその人の弱さ、とかが想定されるわけだが、そういったもののうちのどれが個々人の利得になりえているのか、がわからない。

塩梅が悪いのは、僕が仲間や味方になる場合もそうなのだが、仲間や味方になっているその人にすら、何を利得として感じているのか明確ではない、ということである。

今は仲間や味方という立場を解消する状況にはないために仲間や味方で居る。
が、何かはわからないが、何らかの理由で突如利得が消えうせたならば、その人は仲間や味方という立場からは引くことになる。
そして世界というのは必ずその姿を保持することはなく、刻一刻とその形を変えていく。
変わらないということはない世界で、何が変わったら仲間や味方で無くなるかわからない中で、それでも失いたくなく仲間や味方がいる、という、非常に恐ろしいことだ。
わからない僕には失わないようにあがくことしかできない。
もしかしたらお互いに失いたくなくてあがいているのに、お互いに失ってしまう、ということもあるかもしれない。さみしいことである。
さみしいことではあるが、今現在本日本時間は僕の主観で以て考えたときに仲間や味方がいる。そういう喜ばしい時間を送れている。奇跡的なことである。

 小さい政党に決定的な内輪もめが多いのはこういう部分が原因なのだろうと思う。自民党は内輪もめをするわけだが、決定的にはならない。たとえば総裁選なんかに集約されて、さんざん権力闘争を行うわけだけれど、最後に党を出る、なんてことはあんまり起こらない。これは利得が具体的だからだろう。基本的には。俺こそが日本の政治を左右する、という立場や機会を目的に集っている。地位に対する欲とでもいうか。まあ、地位を目的にしている人と地位を手段にしている人は結構わかれそうだけれど。
あるいは金銭や名誉等もか。
彼らはわかりやすい利得を目的に集まっている。
共産党や公明党は共同体が市民レベルに浸透して大きく、その維持継続という大目標がある程度共通の利得として認識され統制が取れている、という感じがある。
野党第一党とかになるとちょっとタガが外れてくるが、それでも「野党党首として総理大臣になる」「大臣になる」「自民党では無理だけどこっちが波に乗って政権をとれたらその時は」という山師的ジャイアントキリングの野望を持っているものは少なくないだろうと思う。まだ多少まとまれる。
しかしそれより小さい党になるとどうも決定的な内輪もめをする。
国会議員が数人しかいない党のほうが四分五裂している印象だ。参政党しかり、NHK党しかり。
あれは多分それぞれそこにいる利得について、利得を与える側も、持つ側も曖昧にしか理解していないのだろうと思う。あるものは金であり、あるものは知名度であり、あるものは強固な支持者を得ること、であり。
であるから内輪でそれぞれ利得を満たしあったり、将来の利得のために我慢したりして組織を維持する、というのがむつかしくなるのだろうと思う。

 上方落語をみると繁昌亭という上方落語の定席、という利得ができてから上方落語協会は強い。協会にいると繁昌亭に出られるという利得があるから人々は様々なことを我慢できる。東京の落語の協会もそんな感じだろう。

 しかし大阪にある講談の協会にはそういった利得というものがない。なのでバラバラになってしまう。我慢してまで維持したい利得がないし、また個人個人が協会に感じている利得というものを、別の個人は特に尊重していないために、簡単に個人の感じている利得は失われ、むげにされる。こうなると集団はバラバラになり、小さくなり、そして小さくなった集団の中では皆を一つにできる利得を生み出すことができずに、またバラバラになっていってしまう。最後にはただただ個人とが乱立する状態になって滅びていくのである。あかんやんけ。

 ほな僕はどうするか、ということだが。
まずは我が味方や仲間の利得をしっかりと感じ、そしてご教授願うことである。何が利得で僕の仲間で味方でいてくれるのか。
そして僕のさみしがり屋の特性は味方を失うのを大変に嫌がる。また無能でもあるから、仲間がいなければどうしようもない。味方や仲間を失わないために努力をする。ということを行う。
うまくいけば互いの利得を供給しあえる小さい共同体が作れるはずである。
強くて小さい共同体。
ここからこの共同体で以て金銭や地位、立場を勝ち得る戦いを行う。
勝ち得ることができるかどうかはまったくもってわからない。不明である。
僕にできることは少ないかもしれぬ。
しかしそれらを勝ち得ることができれば、バラバラになった個人たちに利得を提供することができるようになるかもしれない。
そうなるとバラバラの個人を糾合し、わかりやすい利得で以てまとまることができる。
強くて小さい共同体はその集団の核になることができる。
そうして利得を守るために集団は大きくなり、その集団は利得の保持と伸長とを目的として駆動しはじめ、恒久的な大きな組織というのができるのだ。

 と、ここまで書いて、そんなことに果たして一体意味があるのか。と思えてきてしまった。なんなんだ「集団は利得の保持と伸長とを目的として駆動しはじめ」って。書いてて意味わかってんか。ぼくは。テンポと勢いだけで書きやがってあほんだら。

集団とか共同体とか、利得の提供とか、こういうことは僕の手に負えることではないような気がする。そういう能力は多分僕にはない。
最初の強くて小さい共同体を作るところでつまずいちゃう。僕の器量の話じゃねえ。

 ここまで書いて結句、味方で居てくれる人、仲間で居てくれる人、それらにあたらしくなってくれる人に対する感謝を感ずる。
僕はいつかあなたたちを満足させられなくなる。けれど、今、あなたたちが居てくれることがとてもうれしくて、あなた方が離れていかないためにできることはやりたい、と思っているのです。

 大阪の講談の未来を背負うのはおそらく僕ではないだろう。その器は僕にはない。同期の面々になると思う。特に一番芸界で勢いのある若くて正統派の一海氏。全国を飛び回って仕事をしている南歩。四代目南陵の血筋を引く南也。この人たちが担っていくんだろうと思う。

 いつ見てもすっごくええ講談をしているけれど、あまり積極的に活動はしない南喜とともに僕はピンチヒッター的に、ワンポイント的にやっていくことになるのかなあ。
やれることをやるしかない、という至極お定まりのところで今日は筆をおくことといたします。


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