純烈について

 純烈はすごい。毎年なんだかんだで紅白歌合戦を視聴しているが、やはり心奪われるのは純烈だ。細川たかしに関してもその声量と圧倒的な明るさに心震えること多々あるが、最近はやはり純烈だろう。

 純烈のすごさは、もちろん恰好がいい。というところに尽きる。

 純烈達ははもともと純烈になりたくて、純烈志願で芸能界に入ってきたわけではない。特撮俳優など、別の方向から芸能界に入ってきて、一旦最初のルートからずれて純烈になった人たちばかりだ。
 まずここにドラマがある。僕のようなどんな世界でもダメで講談師になった男に響く経歴だ。
 その純烈たちは、過去の栄光や、その他の人よりずいぶんと勝るルックスでもって「おばさまに喜んでもらう」というコンセプトを選んで活動を開始する。このコンセプトに身を任せるということが凄い。歌、容姿はもちろん、握手、ハグ、それに類する接触活動。
 

 それまではおそらく、これは全く僕の想像に過ぎないけれど、おばさまとの接触にはあまり縁がなかったはずの彼らなのだ。その彼らがおばさまとの接触をも辞さない活動をしていくことになる。

 僕が純烈ならば、それまで戦隊ものの俳優として活躍してきたならば、おばさまたちに喜んでもらう立ち居振る舞いはとてもできないと思う。しかしながら純烈たちはやったのだ。非常に重要なことだが「やりすぎること」も「やらなさすぎることもなく」「やりきった」のだ。
 だから紅白歌合戦に出場することができているし、お茶の間の人気者で居続けている。針の穴を通すようなバランス感覚。

 実際、紅白歌合戦で見る彼らのサービス精神は超ど級だ。おばさまでもなければ接触もしていない僕の心をぐっとつかんで離さない。この前もむやみに花まみれになっていて、それでも全力で笑顔で歌唱をしており、気づいたら泣きそうになっている自分がいた。
銭湯・宴会場でおばさま相手に鍛えたサービスだ。
 この全力のサービスが画面の外にはみ出して、国民の心をつかんでいる。そして国民の心をつかんでいることにすら感動をする。恰好がいい。
そんな純烈を見て、僕はいつも嬉しく幸福な、いや、もはや恰好いいを超えて、尊いものを見る気持ちにいつもなるのだ。

 いや、この尊さは気のせいではあるまい。
おそらく、これは予想だが、純烈ももはや、おばさまたち、ひいては沢山の人々を培った様々なサービスの力で喜ばせることに大きな意義を見出している。
 だとしたら笑顔で踊り歌い、おばさまにハグをする彼らは最早神だ。与えることこそ、与えられること。神ではないか。我々は神を見ているのだ。
神もそうするだろう。抱きしめて欲しいものを抱きしめ、笑顔を向けて欲しいものに笑顔を向けて。それらは人々を大いに喜ばせ、救う。純烈は神だったのだ。

 なんという記事を書いてしまったのだろう。この世の神を証明してしまった。

純烈はすごい。

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