見出し画像

乱入と神感と絶望と~ゲンロンカフェ『太田光の思考と感情』感想文(ネタバレなし)~

1.はじめに


 8月8日に五反田・ゲンロンカフェでイベントを観覧した。
『太田光の思考と感情』という催しで、メインの話し手は爆笑問題太田光さん。聞き手がノンフィクションライターの石戸愉さん。

https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20240808

僕は爆笑問題のファンであるので、友人とともに観にいくことにしたのであった。大変に面白かったのでここに感想を記す。


ゲンロンカフェというのは、ゲンロンという会社が運営するトークショーが行われるスペース、何かいつもえらい学者や何らかの専門家が登壇をして話をする場所だ。知的な空間ってやつだと思う。
毎回刺激的な議論が行われている様子でもある。
僕も時々配信などを覗いてみるのだが、あまりわからない議論であることが多い。くやしい。
今回の太田さんのイベントも人文的に内容のある、意義のあるイベントだったのは間違いなさそうなのだ。
ただ、僕にはそういったことをきっちりと理解して文章にする能力は無い。残念なことである。
それでも感想を書きたいな。と思うイベントであった。
人文的素養も理解力にも乏しい人間がそういうイベントにおける感想として何を書くのか。
何といってもこのイベント、トークショーとして大変面白くまた、示唆に富んだものであったので、それについての感想を記していきたいと、こう思ったのだ。

2.イベントの始まり、自らの知性の不足を恥じる


 イベントは19時から開演をする。登壇のふたりが入場してトークが始まっていく。太田さんの前にはコーヒー、キンキンに冷えたペットボトルの水。足元にはでかい水筒…登壇者が酒を飲みながら話をすることの多いゲンロンカフェには異質の風景である。水筒を持ち込む人というのはあまり見たことがない。石戸さんはゲンロンカフェスタイルで確かビールだったか。

 トークが始まる。太田さんは地上波メディアでも真面目な話をするタイプの芸人で、その真面目に語られる言葉はいつも優しい。付和雷同ってことがなく、かっこよいけれど照れがある。僕が爆笑問題のファンである一つの理由は、爆笑問題の活動の中で挿入されるそういう話、によるところもあるだろう。他にもたくさんあるが。もちろん。

 ゲンロンカフェという特性上、そういう部分を浴びるように聴くことができる、という予想で客席に座る。そしてそういう話を繰り出す太田光の作り出す空気というやつをその場で感じたくて会場に足を運んでいる。
トークは太田さんの新刊本『芸人人語』の第三弾を下敷きに行われていく。
太田さんの、真面目な話をしているとぶち壊すようなことを言いたくなる美徳、みたいなものも十分に発露しつつの展開になる。

 が、しかしどうも今一つ盛り上がっていかない。
僕の心の話でもあるし、会場の雰囲気もそうであったように思う。
どうにも沸騰しないまま会が進行していく。
笑いという意味でもそうだし、全体の雰囲気としては少しづつ目を閉じて腕組みをしてうつむくおじさんが時間を経るごとに増えていく感じだ。
まあおじさんたちは寝不足睡眠時無呼吸などもあるかもしれないので、なぜそのようになっているのかはわからない。
が、確実なのは自分の心が盛り上がっていないことである。

 なぜこんな風なんだろう。と内容そっちのけでついつい考え始めてしまう。
どうも聞き手の石戸さんが想定する観客の知的レベルに僕が達していない、ということだろうと思い始める。
つまりどういうことかというと、太田さんが何か話題について話をする。
その話が発展していきそうな雰囲気になる。話が終わる前に石戸さんがその太田さんの話の前提になる情報や、現在の情勢などの注釈を入れる。そして太田さんが続きを話す。というような進行になりがちだった。

 ここまで内容のことをまったく書いていないことからも察せられるように僕はもはや内容では話をあまり聞けていない。
しかし内容がわからなくても面白い、ということがトークショーにはあるということはよくわかる。
昔は「何かわかった。面白い」とそれでも一応思っていたのだが、何かわかった気になった後の記憶をたどったりしたら結局何ら脳に残っていないことに気づき、それからは「何かわかった気になれた、面白い」が真実だな、と思い始め、最近では「もう、何もわからないけれど面白い」というところまで来てしまったのだ。
そうなったときに重要なのは内容の正確性や情報量ではなく、議論の過熱や一人語りの暴走、感情の発露、などになってくるわけである。

 であるから、戦争と平和の話も芸能人のゴシップ話も、議論の過熱や一人語りの暴走、感情の発露などがそこあれば楽しい、と思って聞くことができるのだ。
話題は真実なんでもよくて、知らない難しいこと、の話でも、炎上系ユーチューバーの誰と誰がもめているか、でも楽しめてしまうのだ。
実はそういう人、僕のような下衆、は結構いるんじゃないか。と思っている。

 そう考えたときに、である。石戸さんの注釈というのはこう、話の温度が僕の中で下がってしまう効果になっていたと思うのだ。
石戸さんの注釈を聴いているうちに、先ほどまで高まりつつあった太田光という稀代の、一人語り過熱王。と言ってもいい男の語りに対するこちらの熱が冷めていってしまうのだ。
もちろん冷める、というのは冷静になる。ということで情報を処理したり思考を深めたりするという知的営み的には正しいのかもしれない。
しかし刺激を求める僕にとっては残念なことだ。
これが対談記事だったら読み返したりして情報の処理の遅さに対処ができるのだが、トークショーだとそうはいかない。
石戸さんの話を聴いているその時間でさっきの太田さんの話はもう若干忘却してしまう。
話に対する熱が冷め、話の流れを追えなくなる。
そうなると気持ちが沸騰していかず、どうにも煮え切らない気持ちになってしまう。
「僕に人文知があれば!知的能力があればきっと面白いのに!」と歯噛みをし、ついには「ついていけぬ」と『仁義なき戦い完結編』での山田吾一と化してしまうのだ。
「こんなところでトークショーを聴いている場合ではない。もっと知的訓練をしてから出直さなければならぬか」と鬱々とした気持ちを抱えることになる。

3.イベントは続く、東浩紀の神業のごとき乱入

そのうちに休憩時間となり、終電を超えてもイベントは続くかもしれないが、今日は終電で帰るぞ。と決意をして休憩明け、再開となる。

 再開後、会場に現れたのがゲンロンの創業者の東浩紀であった。
乱入、という形でトークに参加をしはじめるのだが、これがすごかったのだ。
もとも東さんはとこの日は新潟にいて、このイベントには参加しない、ということになっていたし、イベントの前半で石戸さんもそのことに触れられた。
であるから、この乱入は本当に乱入感がある乱入だった。
そして東浩紀という人はゲンロンカフェに来る人にとってはみんなの知っているスターである。
スター視している人が客席にも多かったと思う。乱入に対する会場の反発はまったく感じられなかった。
この自己認識は間違えるとえらいことになる。
乱入を望まれていないのに乱入をし、乱入を望まれているのに乱入をしない。そのどちらもが生むしらけ、を僕は何度も見てきた。

例えば阪神の桧山進次郎が笑っていいともの最終回に乱入をしたら変な空気になるでしょう?
桧山は大スターだし話も面白いけど、いいともの最終回、とんねるずの次に乱入をするとなるとやはり確実にしらけるだろう。

 この日の東さんはいい時の27時間テレビのごとく、笑っていいとも最終回の爆笑問題の雰囲気すらまといつつ、乱入をしてきた。
内容不在でトークショーを楽しむ僕としては最高の展開である。
乱入の熱さが会場を一気に沸騰させる。相当の技術であると思う。

 そしてここからの東さん登壇直後のつかみ、がすごかった。
太田さんが東さん不在時に東さんについて放ったギャグ、に対して乗っかる形で応答して笑いをどっと起こす。
これはちゃんとここまでの配信を、割と細かいとこに至るまで聴いていた、という共通認識を打ち合わせなしで笑いを取りつつ共有していることになる。このスムースさは尋常じゃない。狙いすました効果的な一撃で、一気にイベントの空気ががらっと変わる。

 乱入の熱気が少し落ち着き、話をする段になって太田さんが割と長く話をできるようになった。おそらく乱入で主導権を一気に握った東さんが太田さんの話を最後まで聴く、というムーブを取ったからだろうと思う。
ここから太田さんの一人語りが過熱していく。
無内容な僕としては非常に快感で前のめりになる流石の語りであったし、それは同時に内容も伴う語りであったろう、と僕のそばにいた人文の素養がある友人の反応やのちの感想を聴いても思った。

 そして太田さんという人は照れ、に非常なる魅力がある人で、真面目な話を一生続ける、ということはあまりせず、途中で、ナンセンス、と言えばかっこよすぎるな。くだらなすぎる冗談を言ってまぜっかえしたり茶化したりする。
僕はそこに魅力を感じる。
この太田さん特有の茶化しに東さんがきっちり乗ってくるのだ。
東さんをいじるような茶化しを太田さんがしたときに、引かない、と決めているような姿だった。

 恐縮したり困ったりする、というのがああいう太田さんの最高だけれどもある種の暴威と言えるものにさらされた時の芸人ではないものの取りがちな態度だと思う。
それをせず、安易に「また太田さんが言っちゃダメなことを言ってますねえ」と外側に逃げることもなく一歩踏み込んで、なんやったら一回ちゃんとノッて1ボケして、という茶化しへの対応をしている。
ここに笑いの応酬が起こり、いやがうえにもトークは笑いによって過熱していく。

 東さんも様々な突発放送で見せるように、文化人枠最強の一人語りと言って過言ではないし、大変魅力的に語りで感情を出す人である。
太田東二人の一人語りの応酬もそれはすばらしいものだった。

 笑いと一人語り、二つのラインがどんどんと過熱し感情的まで高まっていく様はスーパーサイヤ人同士的な何かを感じさせるものだった。
序盤うつむき目を閉じていたおじさんが一人、また一人と目を開き、顔を上げていく。
そしてどんどんと時間は進んでいき、議論は過熱し、感情は爆発し、会場を特別感、祭感、ゲンロン周辺で使われる言葉でいうと、神感、が覆っていったのだった。
結局互いに大阪への移動を翌日に控えていた友人と僕は互いに終電を逃し、始発まで五反田にいることになってしまったのである。

4.イベントが終わった、あの日のことばかり考える

 あれからずっとあのイベントのことを考えている。
ここまで僕は東さんのことを芸人的技術の体現者、のように書いてきた。
がどうだろう。
もしかして、乱入なんかしたくなかった、ってこともあるんじゃないか。
新潟から帰る移動中、配信を観ながら「これは俺の力で盛り上げる必要が」という責任感で駆け付けたような気がするのだ。
前半ももちろん面白かった。しかし、もっと面白く、いわゆる神感を出すには自分の力が必要だ。と。なったのではないか。
仮に移動中配信を観ていて、もうそこに神感があれば乱入なんてしなかったのではないか。
そんなことを思う。

 また、乱入後も、本当に芸人的なムーブをするのならもっと前半を仕切った石戸さんを腐す、というやり方もあったろうと思う。
そのほうが簡単だし、乱入による神感の沸騰を簡単に起こすことができる。
配信コメントもそういう空気になっていたし、普通の芸人だったらそういう流れにして後で楽屋で「ごめんな」で「いいっすよ」で手打ちである。
そうはせずに非常にバランスの良い方法で乱暴をせずに場の空気を変容させ、神感を出すという仕事をやりおおせた、というのは決して芸人ではない社会人の、人とつながって経営をやってきた人の風を感じる。

 そしてもちろん人文的に価値のあるイベントにする知識人としての力と、太田さんという芸人的な想像力で以て大きく世界をとらえる人の話を引き出す思想家としての想像力。
すべてが合わさって見事な神感はが生まれた。

 ここまで書いてきて余人をもって代えがたい、というのはこのことであろうと思う。僕ならばそのような仕事を自分ができれば「どうだ」とばかりに天狗になるだろう。

 しかし東浩紀という人は、ゲンロンという場所の持続を望んでいる。
この、僕のような下衆にも伝わる、またイベントを観に行かなければならない、配信を観なければならない、もう少し勉強をしたい、と思わせる神感のあるイベントを作り続ける場所を持続させようとしている。
持続ということを考えると、この神感の成立、成功があまりに属人的である、ということに絶望をしていそうだ。

 「自分にしかできない仕事を見つけよう」なんて言葉はよく聞くし、理想みたいに言われることもある。それでいい、って人がこの世界のほとんどだろう。
でも、それが極まって、自分にしかできない仕事ってやつ大変にできて、自分の人生のその先、自分が死んだ後の世界のことを考える人にとって「自分にしかできない仕事」という言葉はなんて絶望的なんだろうと思う。
でもあの人は戦うのをやめないし、絶望をしても次の戦いへと赴くし、もしかすると戦っても絶望するに違いない、という確信すらあるのかもしれないけれど、それでも戦い続ける。
僕はそれを恰好がいいなあ、と思うのだ。
 
 僕はここまで能力の低さにあえぎ苦しみ、それでも死ぬ勇気がないので、なんとか誤魔化し、誤魔化し講談師として生きている。
ここまで好き勝手書いてきた東浩紀という人の苦しみについては知らない世界の話、ある種天上界の話だ。
でもこの世界は地下だろうが天上だろうが戦いと絶望に満ちていることはよくわかる。
どこまで登っても、そして多分どこまで下っても戦いと絶望は続いている。
僕だって僕のくだらない戦いから逃げずに戦い続けよう、そういう勇気はひそかに燃えたぎってくる。
そうして戦っている人を恰好が良いと思うのだから、どうせいつか死ぬのだから、僕だって恰好良く、人生をスカすことなく生きてみたい。
僕は僕の戦いと絶望を引き受けて最後までやって死ななければならない。
そういう感慨を生むイベントだったと、あれから3日たって、まだ昼夜逆転が続いているぼうっとした頭の中で思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?