パレスチナのこと、書くこと。

パレスチナで虐殺が起きているということを僕は知っている。
悲しく、とにかく人を殺すのも、殺すように仕向けて殺させるのもいち早く辞めて欲しい。

しかし今までそれについてSNSなどで何かを言う、感慨を記す、ということをしてこなかった。

今、書いた。何故書いたかを残しておこうと思う。

様々な情報が入って来る中で、それでも何も書かない自分に、何故書かないのか、と問うてみた。
その理由はおそらく、今までの自分と整合性が取れない、という、すごくつまらないことである。

僕がネットに言葉を垂れ流すようになって15年が経とうとしている。

その間様々なことがあった。

数多戦争があった。
僕が知っている戦争も、そうでない戦争も。数多貧困があり、数多天災がある、数多差別があり、数多悪法が国会を通過し、数多抑圧があり、数多の暴力があった。

知っているものがあり、知らないものも数多くあった。

僕はそれについて何も言ってこなかった。書いてこなかった。
何故なら日和ったからである。

書いてしまえば、明日からもへらへらしたり、人に笑ってもらう、というようなことをする、ということに整合性がとれないのではないか。という懸念。

そして世の中の全てについて感慨を述べるのは不可能で、必ずや知らない何かがある。
そういう状況であるにも関わらず、己の知っていることのみについて、そして自分がこれぞ、と思ったことについて何か述べる。ということに違和感があった。

何かには言及し、そして必然的に何かには言及しない、ということによって、世のなかの特に不幸と呼ばれる種類の様々な出来事を、己で順位付けするような真似をしてよいものか、という迷いがある。
その迷いが「何にも言及をしない」という日和見、逃避に僕を走らせることになった。
それが僕にとって最も不快でない過ごし方だったから。

立川談志、という偉大な落語家は「人は快感で動くのではない、不快感の解消の為に動くのだ」というようなことを言っている。知った時からしっくりとくる言葉である。

講談をやりたいのではなく、やらずにいるとどうにも不快でやらないという選択をとれない。
稽古をしなければならない、稽古をしなければ本番で大変な恥をかくことになるが稽古ができない、布団から出られない、それは本番で稽古が足りずに失敗する可能性が高まる不快よりも布団のから出る不快の方が勝つから布団から出ないことよって布団から出る、という不快感を解消する、のだ。
というような。

僕はこれまで何も書かないということと何か書いた際の自分の心の動きのバランスで、何も書かないことの方がより不快は少ないだろう、と不快感を解消してきた。

が、今回のことに関してはもう「何も書かないことの方が不快である」という状況に至ってしまった印象だ。

今迄の日和見的な態度が僕の心の整合性を取ってくれていて、心を楽にしてくれていた部分は大いにあった。

一昨日か。狭いところに人を押し込めて効率よく殺す、というようなことを聴いた。
たいへん狭い場所に、沢山の人を追い込んでいおいて、殺す、ということが行われているという。
聴いてしまってはどうにも耐えがたい。
そういうことはしないほうがよい。
そういう立場に立たなければならぬ人がいる、ということは耐えがたいことである。

耐えがたい、と、やめてほしい、と言わないことも耐えがたい。という感慨である。

これを書くことで何かが変わるのか。意味があるのか。わからない。
しかし日和見はできなくなってしまったのだ。
日和見をしている方が不快であるという状況になってしまったのだ。
僕は耐えられなくて書いている。

どうかどうか、耐えられないのに、逃げ出したいのに逃げ場を奪われ、逃げ出せない人を殺すようなことは、どうか辞めて欲しいのです。

殺さないことよりも殺すことの方が不快だから殺さない、という状況にだって。
それは外交の努力かあるいは指導者の撤退宣言か、それとも世界の人の非難の声の高まりか、もっと根本的な前線の兵士の良心なのかわからないけれどきっと。

どうか。

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