まるごとすべてを受け入れる

「キリスト者の共同体である私たちは、すべてのいのちを守り、智恵と勇気を持って、無償、思いやり、寛大さ、すなおな傾聴、それらに特徴づけられた態度をあかしするように招かれています。

それは、実際に目前にあるいのちを抱擁し、受け入れる態度です。

そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをも、すべてそのまま引き受けるのです。

私たちはこの教えを推し進める共同体となるように招かれています。

つまり、完全でもなく、純粋でも洗練されていなくても、愛にかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。

障害を持つ人や弱い人は、愛するに値しないのですか?
よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか?
イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、体の不自由な人を抱きしめました。

ファリサイ派の人や、罪人をその腕で包んでくださいました。

十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自身を十字架に処した人々さえもゆるされたのです。

いのちの福音を告げるようにと私たちは求められ、駆り立てられています。」



上記は、東京ドームで行われた教皇フランシスコの説教の一部です。

「まるごとすべてを受け入れる」

この言葉が私の中にズーンっと残りました。

まるごとすべてを受け入れるって、どういうことなんだろう……

高校生までは、受け入れるということを拒否していた。
一回受け止めるけど、受け入れるかどうかは私次第!って思ってた(どの立場で言ってんの笑)

大学生になって、新たなコミュニティに入った時、すべてを受け入れるようになった。
優しくなりました。
でも、自分の軸が薄れていきました。

受け入れないのも、受け入れるのも、なんだかよくわからん!!!!
自分らしさを失っても受け入れるいい子ちゃんになるのか、嫌われても受け入れられないものは受け入れられないとはっきり主張する正義感強めのヤツになるのか、どっちかしかないのかー!?!?!?

そう迷っていたわたしの元に舞い降りてきた教皇フランシスコの言葉。

「すべてまるごと受け入れるのです。」



そっか

わかった。

私は一番大事なものを受け入れていなかった。
一番近くにあるものを適当に扱っていた。
無いものとして消し去ろうとしていた。
離れたくて離れられなくてもがいていた。

それは、自分自身。

自分自身をすべてまるごと受け入れること。
不誠実さも、傲慢さも、恥も、だらしなさも、
すべてまるごと受け入れること。
自分自身の一部として、認めること。
自分という存在を、気遣い、大切にすること。

それができれば、自分のことで悩む必要はない。
それができて初めて、他者のために働くことができる。


「主は三度にわたって力強く仰せになります。

自分のいのちのことで思い悩むな。
明日のことまで思い悩むな。」

自分のことで悩むのは、大学生までにしたい。
社会に出たら、誰かのために働く人になれるように。
自分の能力を誰かのために使えるように。

私がすべきことは、
自分自身をすべてまるごと受け入れること。

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