死について考えてみたこと

ここ一年を振り返ると、"死"について考えることが多かった。

医療学生として、死を身近なものとして捉えるための授業を受けた。宿題で遺書を書いた。
渡航予定だった場所でテロが起こって、渡航したら死ぬかもしれない。それでも行くのか。たくさん迷った。

つい最近、死について考えたのはモンゴルで行ったワークショップ。

ここには9人の仲間がいます。
9人でモンゴルに閉じ込められてしまいました。
このままだと全員殺されてしまう。
しかし、たった1人だけ日本に帰ることができます。
残ったの8人はモンゴルでこのまま命を終えなければなりません。
誰が日本に帰るのか決めるために、今から、「自分が日本に帰るのに相応しい人間だ」と主張してください。
全員の主張を終えたあと、目を瞑って、この人が日本に帰るのに相応しいと思う相手を指差してください。指をさす相手は、自分でも他の誰かでも構いません。

リアルな緊張感に包まれた。

自分が日本に帰る=他の全員は死ぬということ。
自分が日本に帰るべきだと主張する=他の全員は死ぬことを認めるということ。

そんな残酷な選択自分にはできない。

私が帰るなんて主張できるか!?
私以外にもっと能力のある人が帰ればいい。
他の8人はみんな素敵な人たちばかりだ。
道に迷っている私よりも明確な夢や経験のある人もたくさんいる。

その人に帰ってほしい…

死ぬのは怖い。

でも、他の人の死を自ら選ぶのは…

もっと怖い…


心がバラバラになりそうだった。

これがただのワークショップだということすら忘れていた。

一度深呼吸して、自分が日本に帰るべき人間だと主張せねばならない事実を受容することに集中した。

私はどうしたらみんなに選んでもらえるの??


その時、こんな問いが降りてきた。

人の死は誰が決めるものなのか?
私の死は、私以外の8人が決めるものなのか?
8人の死は、私が決めるものなのか?

ううん。違う。

生と死は運命なんだ。

人間が決めるんじゃない。
神様が決めるものだ。

これは、テロが起きた場所に行くか行かないか迷っていた時にも私の中に降りてきた答えだった。

私が生きることで、誰かの助けになるなら、神様は私を生かしてくれるだろう。
私がこの先、この地球に必要な人間なら、必ず生かしてくださる。

もし私が必要無かったら、若しくは私が死ぬことで存在意義を持つ運命であれば、その通りになるのだろう…

神様がもし、私が生きる道を選んだら、私はその使命を全うするしかない。全うしなければならない。そう思った。


でもここまでは、宗教にすがった綺麗事。
このワークショップはここで終わらない。

誰が帰るのか。
私は誰に帰って欲しいのか。
選ばなければならない。
この指一本を使って。

私のプレゼンタイムは一番最後に回ってきた。
自分が話す前までの他の人の話は、耳に入っているようで入ってなかった。
正直、全部同じ話しに聞こえた。

自分の番が回ってきた。
必死で自分の思いを伝えた。
私の思いに結論はなかった。

自分が帰りたい。という思いは口にしなかった。
帰れるか帰れないかはわたしには決められない。神様が決めてくれるだろう。
それだけ言った。

全員のプレゼンが終わった。
いよいよその時が来た。

「では、目をつむってください。
あなたが帰ってほしいと思う人、自分も含めて誰か1人選んで指をさしてください」

どうしよう。誰が帰るべきなんだろう。
仲間一人一人の顔が脳裏に浮かんだ。

心臓の音がよく聞こえた。

「せーの」



気づいた時には指をさしていた。


その相手は自分だった。



私は初めて気付いた。
私の中にある「生きたい。」という感情に。

神様に選ばれたいという気持ちに。

私のことはいいから、みんなに生きてほしい。
そんなドラマチックな感情はどこにもなかった。

私が生きたいんだ。


心臓の音は、さっきよりももっともっと激しく体全体に鳴り響いていた。

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