満ちてゆくもの、欠けてゆくもの、の話。

早いもので十月になりました。

皆様いかがお過ごしでしょうか。健やかでしょうか。

ここのところ良く考えることは、「そろそろ終わりを見届けることに慣れなければ」ということです。

私は、いろんなところで話しているような気がするけれど、とにかく「終わり」というものを避ける傾向にあります。

ゲームはラスボス手前でとまってしまうし、漫画は途中で集めるのをやめてしまうし、人ともきちんとお別れできません。

根本的にニガテなのは「可能性が潰れること」であって、その延長に、終わりを避けることも含まれているのだと思います。終わってしまえばそれまで。終わりを確認しなければ、終わっていない可能性もある。

Aであることを確認するまで、それはAであるかもしれないが、Bである可能性もある。

という状態で残しておくのが好きなのです。好きというより、そうしておかなければ、なにかが決定されてしまう。それがこわいのです。

しかし、歳をとるごとに、終わりを見ることのほうが増えてくるものです。はじまることより終わっていくことのほうが多くなって、我々のいのちは終わっていくのでしょう。でもそれだけ、はじめてきたことが多かったということでもあります。

私は私のはじめたことをひとつひとつ終わらせていくべきなのだろう、と少しずつ思うようになりました。もちろんまだまだはじめていくこともあるけれど。

己の命の軽さを知ってしまうのがこわいから、とにかくたくさんたくさん抱えておこう、と思っていたのかもしれません。人生に意味はないから、生きていく理由を、たくさんたくさん持っておかないと不安でした。

でも、たくさんはじめるために、たくさん終わらせていくのが、自然な流れなのかもと。なんとなく、ふとそんなことを思います。

とりあえずは新海誠の「星を追う子ども」を観ましょうか。私はあれを見るとほんとうにだめになるほど泣くのです。何回見ても。かけがえのないものを失っても世界は続くし僕は生きてゆく、というむなしさとやるせなさとどうしようもなさを描いてきた新海誠の最高傑作です。

私は十月あたりまで、という予定で北海道に来ていて、つまりひとつの生活の終わりがそろそろ見えてくるころです。そして次をはじめます。

北海道はそろそろ冬のはじまりという雰囲気になってきています。冬から逃げるように私はまた別のところに行きます。たくさん得たものがありました。終わらせることなく続いていってほしいと思う縁もたくさんできました。抱えていくものは少しにして、一度去って、また戻って、そのとき新たななにかをもたらせるよう、自分のなかにいろいろたくわえて。

さあ、行こうか。

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