無職になった話

人生ではじめて「あしたから来ません」と言って仕事を辞めた。普段人に向かって怒ったりしない、表面的には温厚なタイプではあるが、このときばかりは心底怒っていた。ブチギレていたと言っていい。私物も「すべて捨ててください」と言って置いてきてしまった。半分以上残っていたAesopのハンドクリームは少しもったいなかったかなと冷静になってから思ったりもした。

仕事を辞めた理由は割愛して、今後のことを何も決めずに無職になったいまの心境を綴ろうと思う。一言で申すと、「最高」だ。無職は最高だ。かつてこれまで肩の荷が下りたと実感したことがあっただろうか、というレベルで肩が軽い。天気が悪い月曜日に仕事に行かなくていい。雨が降ってるからもう少し寝よう、と思うこともできる。私の心はいま自由だ。なにを思うことも、そしてそれを実行することも。

働くという行為は自然と自分の心をも制約するらしい。「あしたは大きな仕事があるから今日は酒を飲んではいけない」「平日に買い物に行けないから食糧をたくさん買い込んでおかないといけない」、そういうたくさんの「こうしなければいけない」にずいぶん毒されて、摩耗したように思う。それを「社会人としての責任」と言えば大層なものに聞こえるが、大層なものを当たり前にきちんとできるほど、私は大層な人間ではない。そのことを忘れていた。ほかのひとたちと同じように当たり前のことを当たり前に、なんの疑問も持たず、消耗せず、受け入れていく器がないことは今まで何度も証明されてきたのに、働いている間はそれを忘れてしまう。働く私は「私」ではなく「社会人」になってしまうようだ。そして急に限界が来たりするから厄介だ。このへんの私の性質は今回の退職の理由とは関係ないが、そういう自分を無職になって思い出した。そういえば駄目人間だったのだ、と。

これまでも数回転職をしたが、常に次の職を見つけてから行動し、絶え間なく働いてきた。ほんとうになにも決めず、仕事を辞めたのは人生初のことで、こういうことが経験できるから生きているのも悪くないなと思う。イレギュラーなことこそ人生。いま、すごく、生きている実感がある。心がつやつやしているのがわかる。まずいなあ、という危機感と同時に面白がってもいるのだ、この状況を。金もなく、職もなく、未来がない。でも、少なくとも、いやな職場に行かなくていい。

ちなみに「あしたから来ねえからな!」と言い捨てたあと、私は自宅に戻り、怒りにまかせて頭をかきむしり、風呂に入り、叫び、旅支度をし、なぜかわからないがブレーカーを落として家を出て、リュックひとつで始発の電車に飛び乗った。今の世の中で遠出はタブーなので、近場ではあったが、自宅ではないところで数日過ごした。通勤するひとまみれの電車のなか、私は完全に浮いていた。心も浮いていた。ふわふわして本当になんの重さも感じなかった。心も体もこんなに軽いんだなあ、とぼんやり思いながら、イライラしている様子の会社員を眺めてたりした。働いているひとが多い時間に散歩に出てみたりもした。その日はとても良い天気で、澄んだ川と、河原に咲くオレンジ色の花を見ながら日向ぼっこをした。ここ数年味わったことのない穏やかさだった。あのまま家にこもり、怒りを蒸し返し発狂し続けなくて本当によかった、と家を出ることにした自分をこれでもかというくらい褒めた。良い決断だった。自分のなかで処理するには大きすぎる感情を飲み込むには、とにかくサッと居場所を変えること。小さなワンルームではあの感情に太刀打ちできなかっただろう。

三日ほどそんなことをしながら過ごして、自分でもびっくりするくらい、晴れ晴れとして元気になった。退職の日からことの顛末を連絡していた母にも「あした自宅に戻ろうと思う」と連絡を入れた。「大丈夫なの?」という母のことばに強がりではなく「なんかすごい元気になった」と返せた。ちなみに退職の日、怒り狂った状態で母に連絡をとったのだが、母も「話聞いててお母さんもムカムカしてきた!そんな理不尽な扱いする会社もう行かなくていいわよ!大正解!連絡も全部無視しなさい!実家戻ってきたらいいわよ!ね、今すぐ家を出て、なんにも考えなくていいから」と怒ってくれて、それにも本当に救われた。

幸い、燃え尽きたりボロボロになってからの退職ではなかったので、働く意欲は十分にある。刹那的に生きており貯金がまったくといっていいほどないので、のんびりしている時間はない、という状況もあるが、もともと働くのは好きな性分なので、早く就職したいなとは思っている。仕事が面白ければべつに正社員じゃなくてもいいしなあ、とも思っている。たかだか3か月分とかのボーナスのために面白くない職場で働くくらいなら、フルタイムパートで面白い職場があるならそっちのほうがいい。もちろん、楽しく働けてボーナスもあるならそれに越したことはないが。働くことと生きることは確かに直結している。けれど、働くことと生きることはイコールではないと思っている。私にとって生きることは、河原で日向ぼっこをしたりするあの瞬間のことだ。好きな時間から酒を飲み、きれいなものを見て、ただただ立ち止まる。そういう風に生きるために働く必要があるから働く。それだけのことだ。

お先は真っ暗だ。でも、暗いところはきらいじゃない。どうなるかはわからないが、どうにかはなるだろう。人生であと何度、こんな穏やかな気持ちで無職になれるだろうか、と考えると、貴重な時間のような気がする。次の仕事が見つかるまで、全力で満喫しつくすつもりだ。無職、最高。

三日間電源が切れていた冷蔵庫のなかは予想通り大変なことになっていたが、これも心機一転の良い機会、と思い、奥のさらに奥のほうにあった謎の食材を破棄したりした。なんだか生活に一区切りついたような気分で、結果的には良かった。なぜブレーカーと落としていったかはよくわからないが、たぶんスイッチを切りたかったんだと思う。「これにて終了!」という行為が欲しくて、「スイッチを切る」ことはそれにふさわしかった。そしてまた、はじまりの行為としてもふさわしかった。自宅に戻ってブレーカーを入れたとき、バチンと小気味いい音を立ててすべてが動き出した感覚があった。私の中でも、さあ、これからだ、と何かが動き出した。

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