ライフイズ生活、の話。

生活に飽いてきた。

たびたび、生活することがいやになる。生活するということは、この先も生きている自分を疑わないということだ。生活をするということは、この先まだまだ生きながらえていくぞ、という意志の体現である。未来の自分のために洗濯をし、未来の自分のために食材を買っておき、あしたの自分のためにあした必要なものを用意してから眠る。「先を見据えてちゃんとしておく」というのが、私のなかでの生活の定義なのだが、「ちゃんとしておく」ことがときどき腹の底からいやになる。

たとえば味噌を仕込むとしよう。一年ほど寝かせる必要がある味噌をつくるということは、一年先の自分がそこに存在し、そこに存在する自分が味噌を必要としている自分であるということを予想するから、味噌をつくるという行為に行き着くのだとおもう。けれど、それは未来の自分を縛ることになってしまわないか、とこわくなる。味噌をつくったことにより、一年後の自分が「手作り味噌を活用する自分」であることが決定されてしまうような気がするのだ。もちろん自由にしたらいいということもわかる。一年寝かせた味噌を、開封と同時にぶちまけることだってできる。でも、「一年後に手作り味噌を所持した自分」になることは、味噌をつくった瞬間に確定してしまうのだ。

生活における「ちゃんとしておく」というのは、つまり、未来を確定させる行為なのだ。ちゃんと食材を買い込んでおく。未来の私は買った食材をつかって料理をするだろう。「どの食材を使って料理をするか」という未来を、買い出し時点で確定させることになる。

きちんと、決められている。私はそれがとてもニガテらしい。もっと、とにかくいまこの瞬間、いま生きているこの瞬間に全力でありたい。未来のことなんか考える隙もないくらい、いまこのときを生きていたい。この一瞬だけあればいい。そういうよくわからない欲求が、ときたま轟々と燃えるのだ。先のことを考えるのがいやでいやで、そうなってくると生活をするのもいやでいやで、だれもいない山や海に向かって逃げ出したくなる。

ことあるごとに野生に帰りたくなる我が本能よ。

でも人生はおそらく続いていくので生活をしなきゃならない。生きていくのに必要なものがあって、必要な行為があって、繰り返し繰り返し先の自分のために同じことをやり続けていかなければならない。朝起きて仕事に行ってごはんを食べて洗濯をしてお風呂に入って掃除をして眠る、以下エンドレス。たのしくていねいなくらしなんてやってらんないね。

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