おやすみ東京、おやすみ孤独、の話。

幼い頃より言われ続けた「感受性が豊かね」ということばは成長するにしたがって「傷つきやすいね」に変わった。私からすれば、私を傷つけるものが世界に増えたように見えた。世界のやわらかさが失われたようだった。おとなになって、明確に、「生きづらいね」に変わっていった。

頑張って生きよう、と思えないのは、生きることがそんなに好きではないからかもしれない。つらくて、苦しいものを、一瞬のよろこびのために長いあいだ我慢して、耐えて耐えて耐えて。耐えることは頑張ることなのだろうか。

今朝、目が覚めて、あまりの天気のよさにどこまでも歩いていきたくなって、会社に休みの連絡を入れて散歩に出た。10キロほど、ひたすら歩いた。4時間。歩くのは好きだ。でも、東京の街中をあてどなく歩いていると、いつも迷子みたいなきもちになる。たとえば、同じように平日の昼間に河原でのんびりしている同年代のひとがいたとして、それでも私のほうがどこか浮いているように感じる。この街に馴染んでいない。それがありありとわかる。

歩きながら、次に住む場所は、歩いて山にも海にも行けるところがいいなと考える。歩きながらいろんなことを考えたり、考えなかったりして、だいぶすっきりした。

もはやこのnote、「会社休みました日記」みたいになっている気がする。今日は干したての布団で眠る。そしてできれば朝には散歩をして、夜はまたただただ眠る。ストレスをごまかすために吐きそうになるまで食べることをしなくていいように、帰りの電車でどうしようもなく泣きたくならないように、健やかであるために、自分にどうしてあげればいいのか、まだよくわからなくて、いろいろ試している。さいきん読んだ本に、「型があなたを救うんだよ」というような言葉があった。それを言った登場人物は毎朝毎朝ラジオ体操をしていて、主人公はこのセリフを、「苦しい日もつらい日も、変わらずラジオ体操をすることで、きっといつもと同じように一日をはじめられたんだ」と理解する。そういう習慣や、決まりがあることで、感情に左右されることなく動けるというのはうらやましいことだとおもう。だから私も習慣が欲しい、とおもう。でも、はたしてそれが幸福なのか、私にはわからない。つらいときも苦しいときもいつもと同じように動いて、それで持ち直せるひともいるし、逆に壊れてしまうひともいる。つらいときはいつもやっていることをお休みするのがよい、と、私なんかはたびたびおもう。正解はない。このひとはこのタイプ、というのでもない。ただ、「そのときにどうするのが最適か」ということだけ在る。だから、どちらの方法も持っておきたい。そのときそのときでいつも通りにしたり、日々やっていることをお休みしたり、そういうやりかたで、どうにか乗り切っていこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?