いつかどこかにあった愛、の話。

今日はかつ丼を食べに行った。二度目のお店、二度目でも感動するほどおいしい。彼女の二倍くらいの時間をかけて食べていた私を、急かすことなく待っていてくれる彼女のことを、私はとても好きだなとおもう。幸せになってほしいなとおもう、そういう祈り。すべすべのはなびらがたくさんついたお花をもらった。こういう祈り。日々がすこしでも良いものに、という祈り。

神様がいなくても祈りはそこにある。

一日一捨てでは間に合わなくなってきたので、とにかくどんどん不要なものをピックアップしている。本とゲームを除いて、ダンボールふたつが理想、とおもうが、さすがにその境地にはたどり着けない。いずれたどり着きたいとはおもう。身に着ける予定もない可愛い下着たちが手放せず、かつての、肌を見せることを常に意識していた自分を思い出す。かわいそうでかわいかったね。

生きてきたということは、生かしてきたなにかがあって、ほんのすこしのにんまりしちゃうようなことをつないでつないで今に至る。かつてひかりだったものたち。いまはもうかたちを保っていなくても。このさき誰をきらいになっても、これまでその誰かにしてきてもらったやさしいことがなくなるわけではない。過去まではきらいにならない。だから、今一緒にいないとか、このさきずっと一緒じゃないとか、そういうことは考えなくていいのかもしれない。今の私が誰を好きで、誰をきらいで、そのひとたちに何をもらって何を奪われて、何を感じてきたのか。そういう事実だけがある。えーえんじゃなくても、いつかの私はえーえんだと思っていたのなら、そこにえーえんは在ったのだ。今はもう無くとも。

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