暗い中を歩いていた。

 どうやらここは夢の中のようで、明かりのない闇の中でも己の手が見えることがその証左であった。夜毎訪れるこの世界には、人はおろか動物すらおらず、五感に届くのは「無」のみである。この状況には慣れていて、今宵もいつもの繰り返しだろうと悟った私は、歩みを止め、ただ中空を見つめた。人によっては発狂してしまうであろうこの世界は、無であるからこそ平穏で、私の心を乱すものはない。生来五月蠅いことを厭う私には、まさにうってつけの世界だ。

「ポッカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けましょう。」

 お気に入りの中也の詩を口ずさむ。

「月は聴き耳立てるでしょう、すこしは降りても来るでしょう、われら口づけする時に、月は頭上にあるでしょう。」

 無の世界に声が木霊する。跳ね返る音は闇に溶けると、かすかな風に姿を変えた。その変化に気を良くして静かに詩を繰り返せば、世界はだんだんと無から有に変わっていく。この不思議な現象は、夢を見始めてからひと月程過ぎた頃に見つけたもので、今では私のお気に入りだ。
 ここでは詩を繰り返すごとに言葉は精度を増し、有としてこの世界に還元される。十も繰り返したころには小さな波音まで聞こえてきた。遠くでは、どうやら水の溜まり場もできたらしい。言葉から生まれた水音はどのような姿をしているのか、気を引かれた私は水源へ向かってゆるゆると足を進めることにした。暗い中で歩みを進め、聞こえてくる波音の大きさがおよそ倍になったころ、ただ歩くだけに飽きた私は手持ち無沙汰も相まって、今まで試したことのない他の詩を吟じてみたくなったのだった。

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