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夏のおわりに

なんだかあっとゆうまに今の会社を退職することとなり、そうして新しいところもなんとか決まり、9月からこれまでとぜんぜんちがうところへいるというわくわくと違和感、もうもどる場所もないのだというさみしさを感じながら、本日退社してきた。

めまぐるしく日々はすぎ、あれやこれやと悩んでいたのがふしぎなくらいあっさりと人生は進んでいき、深く考えることさえばからしくおもえてくる。ただひたすらに、ゆるく心地よく生きていく術を磨きたい。生活しているだけでじゅうぶんえらいのだから。などと考えながら、結局はそれだけでは満足できない自分をしっているので、めんどうなやつだとおもう。なにはともあれ、生きる。そこからだ。

そうして、先日行った来日5年ぶりのシガーロスのLIVEがたまらなくよくて、ちょっとここに記しておきたい。

はじめて生で聴くあまりにも壮大でいて繊細なシガーロスの音楽は、海の底の深淵を、樹海の静謐を、風が吹き葉がゆれる瞬間を、鳥の羽音を、赤子の産声を連想させ、そしてそれらはわたしの脳内で宇宙まで一気につきぬけた。わたしたちはこんなにも孤独でひとりなのだ、ということを強くおもって。

それぞれがさまざまな想いをかかえ、ひとつの音楽を全身で聴き、ひとつ拍手がおこると同調するようにぱちぱちと会場にひろがるその音に感動しながら、わたしはその音を同時に憎んだ。さいごの一息まであますことなく聴き取りたいのだと願い、そのざわめきに、高揚感に自然に入ってゆけない自分を嘆き、くやしくて泣けた。

わたしの最期にはシガーロスの音楽で走馬灯が見たい。

秋がくる。そのまえに夏のおわりがくる。夏のおわりという季節をつくってほしいくらい、夏のおわりがすきだ。

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