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Xのコミュニティノートは期待外れだった

コミュニティノートは、イーロンの気まぐれの中では珍しく、どちらかというと肯定的に受け入れられたXの新機能だったと思う。僕もその出始め、これはけっこう面白い機能なのではないかと期待していた。

結果的には期待外れどころか、Twitterというプラットフォームがもつ特性を否定するような利用のされ方すらしている現状だと思う。

打ち返せない牽制球

受け入れられた理由の一つは、特に左派系の政治家や活動家、言論人の、言いっぱなしに対する牽制として大いに働いていたことがあるだろう。再反論をしたくとも、それはリプライや引用リツイートなどで間接的にしか出来ず、コミュニティノートには直接反論できないというシステム上の大きな特徴がある。これには彼らも怒り心頭と言った具合だった。その様子に、普段は関わらないようにしているが、しかし内心苛立たしいものを感じていたサイレントマジョリティの溜飲を下げたのはあるだろう。

もっとも、これは一時的なもので、恐らく左派はこのシステムに適応し、反対陣営に積極的にノートをつけるようになるだろうと僕には思われた。そして、最終的にはあらゆるバズツイにノートがつく展開になるわけだ。それはすべてのツイートが両論併記になることを意味している。それはけっこう面白いぞ、と僕はちょっと期待していた。

速攻でハックされた模様

しかし、現実にはすべてのバズツイにノートがつくようなことはなかった。そしてなんとなく、ノートがつくツイートには傾向があるように思われる。またそのノートは、なんとも杓子定規というか、「そんなことわかってるんだけど」と言いたくなるようなものが多い。

例として、ある投稿にノートをつけられた、経済学者の高橋洋一氏が最近こぼしていた愚痴がわかりやすいので紹介する。

こうした記事について筆者は21日、X(旧ツイッター)で «これはキッシー訪米のおかげ。無償援助から融資に代えたからと説明されている(米→ウへの融資)が、その融資を最終的には日本が肩代わりするから、アメリカの実質負担なしになるというロジック»と投稿した。

それに対して、«支援額の一部が融資(借款)に切り替えたとの記載は投稿者が引用している記事にありますが、「日本が肩代わりする」との記載は投稿者の仮説に過ぎず、その根拠は示されていません。参考までに他の情報源も掲載しておきますので、あわせてご確認ください»と、産経新聞とNHK報道を参考とするコミュニティノート(利用者による注釈)が付けられた。 ただし、双方ともに支援額の一部が融資に切り替えられたという事実を書いているだけで、筆者もその程度の事実を把握した上で投稿した。このコミュニティノートは、筆者の意見を間違いと指摘するわけでもなく、何が言いたいのかさっぱり分からない。 【日本の解き方】米国のウクライナ支援、日本が融資「肩代わり」の可能性 国際社会のシビアな国益争い、法案可決は日本がカギを握っていた(1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト

著者は事実に基づいて自説を投稿したわけだが、それを否定するのでもなく、「これは仮説です」とわざわざノートをつけられたことについて、何を言いたいのか意味がわからないと戸惑っている様子だ。高橋洋一氏は言論人としては著名であるから、そのうちにノートをつけられると思っていただろうが、それにしても仮説を否定するでもなくただただ「仮説」とだけ指摘されるとは思わなかったであろう。それも「仮説に過ぎない」「根拠が示されていない」という、非常にネガティブな印象を与える書き方をしているところが嫌らしい

知っての通りTwitterには140文字という強烈な制限があるし、そもそも一から十のロジックを順序立ててすべて書くようなプラットフォームではない。高橋洋一氏がロジックのプロセスをすべて書いていないということは、そのプラットフォームの性質上理解できることだ。というより、Twitterとはそういうプラットフォームであるし、我々もそれを承知で利用している(よね?)。まぁ、イーロン的には金払って長文書いてねということになるのかもしれないが、それをしないからTwitterだろう。

論理展開の省略は事実誤認ではない

コミュニティノートが喝采を浴びたのは、明確な事実誤認を指摘したり、投稿者が隠しておきたかったであろう事実を詳らかにしたりしたためだ。しかし先の高橋洋一氏は、事実誤認をしたわけでも隠したい事実があったわけでもない。あくまでも事実に対して自説を披露しただけだし、またその自説のロジックが一から十まで丁寧に書かれていないことはTwitterというPFの特性上おかしなことではない。

それについて、ネガティブな印象を与えるような書き方で仮説だと強調するノートをつけるのは、悪意を感じるし、Twitterというプラットフォームの否定だと思う。すべて書かなくてはいけないのであれば、それはもはやTwitterではない。もし省略されたところが知りたいのであれば、再反論できないノートではなく、リプライや引用リツイートで直接問えば良いではないか。それをしないのは、投稿者の意図を明らかにしたり補足したりすることではなく、投稿者に対する攻撃や嫌がらせが目的だからではないのか?実際、「仮説に過ぎない」と書くことが嫌がらせじゃなければなんなのかと思うよ。

他にも、背景情報の補足などがコミュニティノートに期待されることの一つだと思うが、短文の中で焦点を明確にするために触れていないだけと思われることを、まるで投稿者が隠しておきたかった不都合な真実とでも言うかのようにノートをつけるケースも散見され、「そんなことはわかっていることだが」と思う。補足というには書き方が不必要にネガティブな印象を与えるというか、投稿者の意図をまるで無視している感じがあることが多いんだよな。

まぁ、コミュニティノートが実質的にそのような使われ方をするであろうことは想像していた。しかし、単に短文の制約のために書いていないと思われるだけのことを、まるで瑕疵であるかのように指摘する、本質的に無意味でかつ、TwitterというPFの特性を否定してすらいるのではないかというやり方をするとは僕も思っていなかった。残念なことである。

結局今までのいんたーねっつだった

そしてこういうノートがつきやすいものには、傾向があるように思われた。恐らく原因の一つとして、コストの問題がある。コミュニティノートはどうやら多くの協力者が評価することによって成り立つようなのだが、その評価が基本的にボランティアであるため、割に合わない作業のようだ。つまり、まっとうに生活をしている人にとってはやってられない作業となる。

そうすると、ノートをつけたりその妥当性を評価したりする労苦をやるのは、それができる人たちに限られることになるのだが、これが旧来のWikipediaなどと同じ偏向をもたらしているのではないか(要出典)。Wikipediaも一部の異常な熱意ある人の影響が非常に多きく(要出典)、システムやポリシーを逆手にとった嫌がらせも横行し(要出典)、中立性が損なわれているという懸念があるが(要出典)、恐らくコミュニティノートも本質的に同じ問題を抱えている(独自研究)。

まぁ結局のところ、コミュニティノートも今までのインターネットが抱えていた問題をそのまま引き継いでいる、ということだ。コミュニティノートは期待外れではあるし、Twitterそのものを否定しかねない悪意をもった利用をされがちだとは思うが、機能自体は特別に悪い機能だとも思わないので、適当に続いていくのかもしれない。今はまだ最初の頃のセンセーショナルな印象が残っているために、ノートをつけられるだけでネガティブな感じがあるかもしれないが、そのうちに「まぁ所詮コミュニティノートだし」というような評価に落ち着くのではなかろうか

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