ハイビスカスの蛇

※グロとかエロとかが無理な方はご遠慮ください。







ハイビスカスを買ったのは、ほんの気まぐれだった。

さほど新しい訳でも綺麗でもないこのアパートのベランダがやけに広く、何か持て余しているような感じがしたからだ。
最初は木にしようかとも思ったが、よくよく調べてみると意外と大きくなるものが多く、洗濯物が干せなくなるのは困るからと、花を置くことにしたのだ。
初めはとりあえず一年草を置いて小手調べ、とも思ったが、花が終わってまた別のものに植え替えるのがまた億劫に感じたので、多年草から探すことにした。
そうなればなるべく育てやすいものがいい。
そうして選んだのが、ハイビスカスだった。

ハイビスカスは丈夫だ。
少々水やりを忘れたところで枯れる事もなく、育ち過ぎたかと思って剪定しても、すぐに脇芽が顔を出す。
そして何より花が良い。
小さくて可愛らしい花も愛らしいのだろうが、大輪の花が開く瞬間の感動は、言葉に出来ないほど素晴らしい。
ハイビスカスは『一日花』と呼ばれる性質を持っているので、その日咲いた花はその日のうちに萎んでしまう。だから私は一日でも長く花を楽しむ為に、毎日様子を伺って、適宜肥料も与えていった。
何度萎んでも次々咲くその健気な姿に、私はすっかり魅力されてしまった。
夏が過ぎ秋が来て、花の勢いは衰える。
秋も過ぎて冬になる頃には、それはすっかりただの低木になっていた。
それでも私は、まるで一夏の恋を懐かしむようにそれを愛で続け、あの麗しい日々が再び訪れる事を一日千秋待ち続けた。

やがて春が来て、春が過ぎ、間もなく夏がやって来ようかとしていた頃、彼女は突然やってきた。


「あのー!すいませーん!うちの洗濯物、そっちに飛んでいっていませんかー!?」

突然聞こえたその声に、私はひどく驚いた。
何せ一人暮らしのアパートで、近所付き合いなど殆ど無い私である。
知らない声が突然聞こえたら、何事かと思ってしまう。
物音を察知した野生動物の動きで周囲に目を配ると、ベランダの隅に見慣れないタオルが1枚床に落ちていた。
すると今度はハッキリと、私の後頭部目掛け、明るい女性の声がした。


「あのー」


振り向いた私は目を剥いた。
隣室との境界を隔てる壁、いいや板と呼ぶべきか、その上面より女性の顔が覗いていたのである。
高さにして2m超、本来あるべきで無いところから現れたその顔に、私は思わず「うおっ」と声を出してのけぞった。

「あはは、ごめんなさい。そのー、そこに落ちてるタオル、うちのなんで」

私は彼女の顔と先程のタオルの間で何度か視線を往復させて、今更ながら状況を理解した。
なんて事の無い話だ。昨日は風の強い日だったから、隣室の洗濯物が風に巻かれて飛んで来た。ただそれだけの事である。
私はベランダの隅で丸まるタオルを拾い上げ、彼女へ向かって差し出した。「ッス」という何語ともつかない声と小さな会釈を添えて。

「あー、ありがとうございます〜!ごめんなさい、驚かせちゃって!あ、そういえば顔合わせるの初めてでしたよね、私こないだ隣に引っ越してきた上原です!」

彼女は私の手からタオルを受け取りながら、屈託の無い笑顔で自己紹介をした。
やや浅黒い肌に猫科を思わせる丸くて大きな目、女性としてはだいぶ短い黒髪は、子猫のように繊細に見える。
私はまるで久しぶりに声を出した引きこもりのようにしどろもどろと自己紹介をし、その無様さに自己嫌悪に陥っていた。この手の女性とは縁が無い。まともに話すのは殆ど初めてのタイプだ。

「引っ越しの日はお留守でしたから、顔を合わせるタイミングが無くって、あはは、ヤバそうな人じゃなくて良かったです」

彼女はあけすけに笑っているが、そのヤバそうな人だったらどうするつもりだったのだろうか。
女性なのだから、隣人がどういう人か気になるという気持ちは理解できる。それは防犯上必要な事ではあるのだが、それにしては迂闊過ぎやしないだろうか。

「いやー、一応一人暮らしなんで、隣の人はどんな人なのかなーって思ってたんですよ〜。ほら、都会じゃ下着泥棒とか出るって言うじゃないですか」

あけすけを通り越して開けっぴろげだ。
確かにここは単身者向けの安アパートなのだから、一人暮らしなのはほぼ間違い無いとは言え、わざわざ初対面の人間に言う事では無い。
「彼氏と同棲中です」とでも嘘をついておけば、少しはリスクを下げれると言うのに。

「あ、ハイビスカス」

彼女の唐突な発言に、私の心臓がドキンと鳴る。
別に大麻やケシを育ててる訳でもあるまいし、隠しているつもりは無いのだが、何となく気恥ずかしく思っていたのだ。
女っ気の無い男の一人暮らし。そこで花を育ててるなんて、何となく哀れな光景に見える。と自分では思っていたからだ。

それにしてもよく分かったものだ。
今年はまだ一輪も咲いておらず、枝と葉だけの状態なのに、彼女は一目で言い当ててしまった。

「うちの実家に植えてあったんですよ〜、庭に植えてあるからこーんな大っきくなっちゃって………おっとっと」

彼女は板と天井の僅かなスペースをいっぱいに使い、両手でその大きさを伝えようとしたが、大きくぐらりとよろめいて一瞬視界から消えてしまった。
当たり前の事ではあったのだが、何かの上に乗っているらしい。

「あはは、でも、良いですね。花なんて」

声のトーンが少し下がる。それは声だけ聞けば妙齢の女性に聞こえるが、目の前の女性からは、まだ少女の名残を感じた。
「そうですか?」と言う私の問いに、彼女は自信ありげに「そうですよ!」と言い切った。
その表情はやはり少女に見える。

「おっと、こうしちゃいられなかったんだ。それじゃあお隣さん、またね」

「ええ」だか「はあ」と曖昧な返事をする私に彼女の呟きが、やけにハッキリ届いてきた。

「仲良くしましょ」



その日は一日中、彼女の事で頭がいっぱいだった。
不幸なことにその日は休日で何の予定も無かった私は、一日中ゴロゴロする事に決めていた。それなのに、私の頭の中では彼女の顔が何度も浮かび、その明るい声が延々とこだましている。

可愛い子だった。明るい子だった。優しそうだ。
いくつくらいだろうか。学生か、もう社会人だろうか。また会話が出来るだろうか。

そんな事がいつまでも頭の中を支配して、映画を見ようと何をしようと、全く頭に入らない。気づけば時間だけが過ぎていき、外はあっという間に夜になっていた。

結局その一日を空虚に過ごし、私は後ろ髪引かれるような感覚を覚えながら床についた。
幹線道路からは程遠い、丘の上に立つアパートは静寂に包まれていた。


不意に物音がした。ギッという音、何かが軋む厭な音が。

私は耳を澄ましたわけでは無い。ただの雑音、なんでも無い音だと気にも止めていなかった。
しかしその音に続いて、人の息遣いが聞こえた気がした。
それは非常に小さくて、意識しなければ聞き逃してしまうような音であったが、私の意識は音のする方へと吸い寄せられる。

それは壁を隔てた向こう側、上原と名乗る、あの女性の部屋から聞こえて来たからだ。

それは嬌声、喚声、喘ぎ声。

肉と肉が衝突する音が一定のリズムを刻む、交合の音。
悦びを求める女の声が、薄い壁を隔てた向こう側から聞こえてくる。

目が冴える。夢が醒める。
私の意識は真っ青な色に覚醒し、真っ黒だった暗闇に深い深い藍を見た。

別におかしな事じゃない。
あれほど人当たりが良く、人懐っこい容姿をしているのだ。恋人がいたって不思議では無い。むしろいない方がおかしいだろう。
だから私は落胆する心を鎮めるように、薄い掛け布団を頭から被った。沈む心を熱くなる身体に押し込めて、何も聞くまい、考えまいと、自分に強く言い聞かせた。

私の胸に咲くはずだった恋の蕾は、花開くこと無くたった1日で落ちてしまった。
たった、それだけの事である。

翌朝の空は、素知らぬ顔で晴れ渡っていた。
私は寝不足の頭を揺り起こし、昨夜の悪夢を振り払う。
私は何も見ていない。聞いていない。
私は何一つ変わってなどいないのだと。
第一、彼女が引っ越してからしばらく経つまで彼女と顔を合わせる事など無かったのだ。これからも頻繁に顔を合わせると言うことは無いだろう。
で、あるならば、深く傷つくだけ無駄な話だ。
さっさと忘れてしまって、自分の日常に帰ればいい。
もしも音が気になるようなら、ベッドの位置を変えればいい。そうだ、そうしよう。

私は僅かばかりの朝食を摂ってから、スーツに着替えて外へ出た。出勤時間にはやや早かったが、このまま腐っていても気が滅入るだけである。

梅雨の湿気を孕んだ空気がスッと玄関から流れ込み、次の瞬間、視線はただ一点に集約される。

「わっ、お隣さん。おはよ」

彼女がそこに立っていた。
タンクトップに下はスウェットというラフな出立ちの彼女は、両手にゴミ袋をもってそこに立っていた。すんでのところで彼女に当たらずにすんだ扉が、私の手を離れて開け放たれる。

「どうも」

私は相変わらずたどたどしい口調で挨拶を口にする。目の前に立つ彼女は想像よりもずっと背が高く、私より少し低いくらいの背丈があった。女性の中では高い方だろう。その上に鎮座する幼なげな顔がミスマッチにさえ思える。

「危ない危ない、もう少しでコントみたいに顔がぶつけるとこでした」

そう言って笑う彼女の白い歯が、晴天の中で輝いた。

「すいません」と縮こまる私を見て満足そうな笑みを浮かべた彼女は、屈託の無い表情を浮かべたまま、その大きな瞳に私を映していた。

「いいのいいの。お仕事ですか?」
「ええ、まあ……」
「へーサラリーマンさんだったんだ、昨日はほら、部屋着だったから」
「一応……」

何が「一応」なのか、我ながら人見知りの激しさに嫌気がさす。

「あはは、一応か〜。でもほら、良いと思いますよ?こう……企業戦士ー!みたいな」
「はあ」
「私、結構スーツフェチって言うか、堅めの格好好きなんですよ。うちの一家みんなそういうんじゃ無かったし」

照れくさそうに語る彼女の顔に、昨日の音が重なった。
肉の音、喘ぎ声、ギシギシ揺れるベッドの音。
私はそれから目を背けるようにして、彼女のヘソの辺りまで視線を下げてしまった。
細い腰が悩ましい。タンクトップとスウェットの隙間から覗く健康的な肌が、彼女の若さを表している。

「おっと、お邪魔ですよね、それじゃ」

そう言って彼女は踵を返し、通路の向こうへ歩いていった。8の字を描くようにして揺れるそのお尻を無意識のうちに追いかけてしまう。
胸に渦巻く粘着質の感情に蓋をして、私は重々しく歩き出した。


そんな日々がしばらく続いた。
毎晩というほどでは無いにせよ、あの音には何度も悩まされた。
そんな日の翌朝に限って彼女とは顔を合わせ、その度に気まずい想いをする事になった。
相手の姿は、ついぞ見ることが無かったが。

天気予報が梅雨明けを告げた頃、ベランダのハイビスカスが花芽をつけた。
今年は何故か花芽がつくのが遅かった。
葉は茂り株も充実していたのだが、いつまで経っても花芽が出なかったのである。
そもそもハイビスカスというのは晩夏の花らしい。夏の盛りには一旦休み、暑さが落ち着いて来た頃が1番の花盛りになるのだ。
普通なら初夏の頃には咲き始めているはずなのに、今年は全くその予兆が無かった。
植物は人の不幸を感じて枯れる事があると言うから、コイツも私の失恋を感じていたのかと思い、彼への愛着が更に湧いてしまったのは、親バカというやつなのだろうか。

ハイビスカスよ、情け無い飼い主なんて気にせずに、めいいっぱい咲いてくれ。
それが私のためでもあるのだから。

「お隣さんっ」


ハイビスカスへ水やりをしている私を、またあの声が呼んでいる。
今度は隣室を隔てる板の横、彼女はベランダから身を乗り出すようにしてこちらを覗き込んでいる。

「いつも精が出ますね」

クスクスと猫撫で声で笑う彼女は、相変わらず馴れ馴れしく距離を詰めてくる。
冷静に考えれば厄介な隣人である。
無断で隣家を覗き込み、まるで友達のように話しかけてくるのだから、私と彼女の性別が逆であったのなら警察を呼ばれているところだ。
いや、例え逆でなかったとしても、これはご近所トラブルの種である。
しかしながら私は、彼女を無碍にする気になれずにいた。元々女っ気のないやもめ暮らしの侘びしい身だ。例えと人様の女であったとしても、こうして声をかけられる事が嬉しいのは致し方ない事だろう。

「おっきなハサミとか持ってないかな?うちにあるのがみんな小さくて」

申し訳無さそうな顔を作る彼女は、相変わらずニコニコ微笑んでいた。
そんなもの何に使うのだろうかと考えてみたが、詮索するものでも無いかと思い、家の中からキッチン用の大きなハサミを彼女に渡した。
特別大きいと言うわけでも無いが、うちにあるものでは1番大きいものだ。

「あ〜!ありがとうございます〜、実家からデッカいお肉が届いたんですけど、筋の部分が固くって……あっ、キチンと研いで返すんで!」

「別に、そんな」という私の声を遮るように彼女はまた続ける。

「大丈夫大丈夫、実家でおじいちゃんに習いましたから、おっきなハサミは無いくせに砥石は持って来てるんです」

これが漫画であったなら、空中に「えっへん」という文字が浮かびそうな口ぶりだ。

「後でお裾分けしますから、それじゃあ!」

相変わらず仕草が子供みたいな人だ。
あんな人でも恋人がいて、頻繁に夜の営みをしているのかと思うと、黒々とした感情が湧き上がる。石油の色をしたその感情は、低地めがけてどろどろと流れ出していく。

本当に、下品なヤツだな。私は。

私の小さな絶望を知ってか知らずか、蕾はどんどん膨らんでいた。


その晩、彼女は約束通り料理を届けに来てくれた。今度ばかりは玄関から、相変わらずラフな格好で。
「いわゆる郷土料理なんで、お口に合うか分かんないですけど」
と彼女は言っていたが、初めて食べるその料理は信じられないほど美味であった。
味付けや香りからして、純粋な和食では無いだろう。恐らく元々存在した郷土料理に、東南アジア辺りからの影響を受けてアレンジされた新しい郷土料理。そんな感じがする。

などと、詳しくも無い料理に関する考察をしているうちに、その料理はあっという間に腹の中に収まってしまった。
後に残されたのは、決して自分で買う事は無いような、派手な花柄のお皿だけ。

どうしたものか。

私の思考は、そのお皿の返却方法に移っていく。
もう夜であるし明日でいいか、と思う気持ちもあるのだが、生来だらしない質である私の事だ、そのままズルズル借りっぱなしにしかねない。

しばらく逡巡していたが、結局返しにいく事にした。やはり借り物は早めに返した方が良いと言う気持ちからだが、彼女の顔が見たいという気持ちがあったのも事実である。私の理性はそれを否定しているが、本性はそのように叫んでいる。

意を決した私は立ち上がって、鏡の前で身だしなみを整えた。
と言っても流石に着替えていくのは不自然であるし、せいぜい寝癖を撫でつけたり鼻毛が出てないか確かめた程度である。
まるで恋する中学生だな。
冷めた自嘲が浮かんで消えた。

「はーい、あ、お隣さん」

ドアチャイムを鳴らしてほんの数秒、まるで待ち構えていたかのような早さに私は驚いた。
「お料理、ご馳走さまでした。その、美味しかったです。すごく」
出かける前は中学生、今の感想は小学生レベルにまで退化している。

「あはは、良かった〜。人に料理を振る舞うなんて機会無かったから心配だったんですよ〜」

コロコロと笑う彼女からは、甘ったるいような香りがした。よく見れば彼女の髪は濡れていて、風呂から上がってすぐだとわかる。
流石に私は悪いことをしたと思い、突然の来訪を詫びたのだが、彼女は相変わらずニコニコしている。

「あー気にしないでくださいよ〜、むしろちょうどあがったところで助かりましたし。これが数分前だったら私、裸でしたからね」

わはは、と笑う彼女。
どうも彼女には羞恥心が足りない気がする。それともズレているのだろうか。何にしても、気まずい事に変わりは無い。
私は彼女の料理をひとしきり褒めた後、適当なタイミングで帰ろうとした。しかし、次の彼女の発言に私の心は掻き乱される。


「あ、よかったらウチ上がってきます?」


信じられない。それが本音だ。
確かに親しいと言えるだろう。とても他人とは言い難いほど、この1ヶ月余りは彼女と会話する機会が多かった。
話の流れから互いの身の上話も軽くしていたし、こうして貸し借りの関係もある。
それでも、一人暮らしの女性宅に誘われるとは、一体どう言う事なのだ。
いやもしかしたら、中には例のお相手がいて、その安心感もあって誘っているのかも知れない。
だとしたら願い下げだ。
何が悲しくて片恋相手の恋人と顔を合わせなければならないのか。それは余りにも、残酷過ぎる仕打ちだろう。
しかし、それは違うらしい。

「いやー、家事は得意なんで困らないんですけど、大家族育ちなせいか1人だと暇なんですよ」

彼女の笑みの向こう、その真意を探ろうと試みるが、深い茶色の瞳の奥に真意の縁は少しも見えない。
もしかしたら、とんでもない色情狂に好かれているのかも知れないと思いつつも、もしかしたら、万が一と考えてしまう。
恋人なんていた事さえない、虚しい夜を幾度も越えた私の胸に、細い細い蜘蛛の糸が垂れ下がる。

私はそれを掴んでしまった。

「その辺座ってください。今、お茶を入れますんで〜」

彼女の声が背中に当たる。
けれど私は立ち尽くしてしまった。目の前の異様な光景に驚き、ただ呆然としてしまった。それほどまでに彼女の部屋は閑散としていたのだ。
ミニマリスト、と言うヤツだろうか。案内された室内には余りにも家具がなく、生活感を一切感じさせない。まるでモデルルームの一室に案内されたようだ。
テレビもパソコンも無いのは不思議では無い。それらが必需品であったのは一昔前の話である。
目の前にあるのはベッドと床置きの丸いテーブル、そして一対の座布団だけである。
しかもその色は白で統一されていた。
彼女は本当にこの部屋で生活しているのだろうか。

「どうしたんですか?」

立ち尽くす私の顔を、怪訝な顔が覗き込む。
その短い髪が枝垂れる音がしそうなほど、その顔は近くに現れた。

「いえ、その、女の子の部屋って入った事無くて」
「あはは、やだなー、私の部屋なんて女の子らしさ全然無いじゃないですかー。あ、下着でもぶら下げときましょうか」

悪戯な顔で笑う彼女は、私の狼狽を楽しむように眺めてから私の横をすり抜け、テーブルの上にガラスのコップを置く。

「ささ、どうぞどうぞ」

軽い口調で促された私は、落ち着かない心持ちのままひとまず彼女の向かいに座ったが、その時鼻腔に届いた匂いは確かにアルコールだった。

「あの、これ」

私はコップに注がれた茶色の液体を指差し、彼女の顔を伺った。
彼女は「ん?」という声をあげ、不思議そうな顔をしている。

「あ、いえ、頂きます」
「ささ、グイッと」

彼女はコミカルな仕草でそれを進めてくるが、いよいよ思考が分からない。どうして私は今、酒を勧められているのだろうか。
コップを持ち上げたところで彼女の視線に気がついた。
それは期待と、好奇と、有無を言わせぬ圧力を帯びた瞳だった。口の端は弓なりに吊り上がり、お菓子を心待ちにしている幼児のようだ。

別に酒が飲めない訳では無い。ただこの状況を飲み込めていないだけだ。
とは言え、いつまでも怪訝な顔をしていては失礼に当たるだろう。
意を決した私はコップを持ち上げ、グッと口腔へ流し込んだ。

次の瞬間、口の中を駆け巡る奇っ怪な香りと切り裂くようなアルコールのキツさに、私の身体は拒絶反応を示した。
反射的に吹き出しそうになったのだが、私はそれを必死に堪え何とか嚥下に成功するが、今度は身体が芯の方から燃え上がる。学生時代、先輩から無理矢理タバスコを飲まされた時を彷彿とさせるような、いや、それを遥かに超える膨大な熱量が、身体の内から湧き上がってくる。

「うっ……くっ………うあっ!?」

私は思わず嗚咽を漏らし身体をギュッと強張らせた。焼ける。燃える。身体の中が裏返りそうになる感覚が五感を支配し、私はぶるぶる震え出した。

「あはははははははっ!やっぱり!」

彼女の高笑いが耳をつんざく。
あんなに愛らしいと感じていた声が、今は開いた傷口に塩を塗られたように染み渡る。

「ごめん、ごめんなさいっ。やっぱりウチのお酒キツいですよね。私の料理イケたからこれもイケるかな〜って思ったんですけど……ふふっ」

口では謝罪の言葉を吐きながら、彼女は込み上げる笑いを堪えているようだった。
さすがにこれは怒ってもいいだろう。悪ガキのような悪戯をする彼女には、しっかり灸を据えてやるべきだと、理性を味方につけた私の感情がそう叫ぶ。

「ちょっと、上原さんっ!」

私は大声を出した。強く、刺々しく、諌めるような口調で突き刺したはずだった。
しかし、そんな私の小さな牙は次の瞬間打ち砕かれる。

接吻。

彼女の唇が私の唇に触れていた。
それは信じられないほど柔らかく、この世のものとは思えないほど甘い味がした。
時が止まり、思考は凍り、身体の中で燃え盛る炎も、今はその延焼を止めている。
続いて舌が、口の中へと滑り込んできた。
それはまるで液体のように私の中へ潜り込み、口の中を隅から隅まで蹂躙する。
舌先をするりと絡め取られ、上顎を掠め、喉奥まで舐め取られるのでは無いのかというほど、彼女の舌が暴れ回った。
それはレイプだ。それも慈愛に満ちた、悪魔の姦淫だ。
私の脳髄が真っ赤に紅潮し、危険信号を発している。
恐怖、興奮、混乱と困惑の中で、私の身体は悲鳴をあげていた。

彼女の唇から解放された時には、私はほとんど骨抜きになっていた。
全身の筋肉が弛緩し、自分が座っているのか寝ているのかすらも分からない。
身体が熱い。頭も熱い。
うめき声すらあげれぬままに、私はただぼんやりと、彼女の顔を見つめていた。

彼女の唇は唾液によってぬらぬらと煌めき、赤い唇は紅を差したように艶めいている。
私の脳はもはや、彼女の舌が人並み外れて長いことすら認識出来ずにいた。


「ふふふ」


笑い声が耳を舐める。
それは絡みつくように耳介をくすぐり、鼓膜の奥でこだました。
うっとりとした彼女の顔に、暗い陰が差す。

私は何をしたのだ。
一体何を、されたのだ。

ピンポーン


不意にドアチャイムの音がした。
世界から切り取られたような静寂の部屋の中で、その間抜けな音だけが、唯一現実的な音として響いている。

「あ、もう来ちゃったんだ」

彼女の声は至って正常で、いつものあの優しい声を取り戻していた。
その表情はまるで宅配ピザを頼んでいた事を忘れていたかのように、気の抜けた、普通の声だった。

「お隣さん、ちょっと悪いんだけどさ、押し入れ、入っててくれないかな」

彼女はまた申し訳無さそうな顔をしているが、それは奇異な相談だ。
先ほどのようにハサミを貸すのとは違って、それは普通、あり得ないようなお願いである。
彼女は呆然として腰を抜かす私の腕を掴み、信じられないような力で私を引きずって行く。
幼い頃、悪さをして父親に引きずり回された事が頭をよぎる。その父親の半分ほどの太さしかないような彼女の腕から、どうしてこんな力が出てくるのだろうか。
私は抵抗らしい抵抗も出来ないまま、押し入れの下の段へ押し込まれた。そこには何も入っておらず、生きたまま棺桶に閉じ込められるような感じがした。

「ごめんね、うふふ、お詫びはちゃんとするからさ」

閉められた戸の向こうから、そんな彼女の声がする。私は彼女を問い詰めるため、声をあげようとするが、何故か声は出なかった。

「はーい」

彼女の明るい声がする。
本当に、宅急便でも来ただけなのでは無いか。
私のそんな想像は次の瞬間打ち砕かれる。
「いらっしゃい」という彼女の声に続き、靴を脱ぐような音がして、足音が2つ玄関から近づいてくる。
そして声が、ハッキリ聞こえた。
男の声。声だけでは年齢を特定出来ないが、おそらく30以上だろう。落ち着いた声質で彼は確かにこう言った。

「高い金を払ったんだ。楽しませろよ」

彼女は売春婦だったのか。
私の心はかつて無いほど張り詰めていた。

「あはは、もちろん」

あの声だ。
いつも聞く、いつも私に向けられていた。あの。

「シャワーなんて浴びなくていいよ、別に。そっちの方が好きだし」
「料金は前金ね…………はい、確かに」
「一応言っとくけど、盗撮はダメだよ〜、後でどうなっても知らないから」

彼女は明るく、弾むような声で、客の男と会話している。尊大な態度をとっていた男の方も、彼女の人柄に好感を持ったのか、声に笑いが混じり始める。
私はただ、暗い穴蔵で身を縮める以外にすることが無い。

次第に会話は減っていき、粘着質の水音と布擦れの音だけが聞こえ始める。
それは暗闇の中では大きく響き、私の頭を支配する。
嬌声がひとつ、大きく上がる。
甘えるような声をあげ、彼女は次第に乱れ始めた。

行為が進むにつれ、それはどんどん激しさを増し、最後は殆ど絶叫に等しかった。

小一時間は経っただろうか。
私はもはや、感情に重い蓋をして、思考の一切を放棄していた。
瞼から幾筋もの雫が流れていたが、もはや拭うことさえ放棄していた。

押し入れの闇に溶け出すように、私は静かに眠りに落ちた。


「お隣さん」


その声は、甘く、優しく、恋人同士の睦言めいた音だった。

「おはよ。眠っちゃったんだね」

重い瞼をゆっくりと開けると、開け放たれた襖の向こうから、彼女の浅黒い顔が私を見下ろしていた。首の下には、何も身につけていない。一糸纏わぬその裸身を私はただぼんやりと見つめていた。
私の心はもう、恋した人の裸にさえ興味を示さぬ程に破壊されていた。
彼女はその長い手足を男に絡み付かせ、その健康的な肌を見知らぬ男と重ねていたのだろう。
女性に過度な処女性を求めるようなタイプでは無いと思っていたが、目の前の人は今の今まで誰かに抱かれていたのだ。
それを愛せだなんて、誰が言えるだろうか。

私は腑抜けた身体引き摺るように、その暗い押し入れから這い出した。
彼女とは目を合わせぬように、床をじっと睨みつけながら哀れな子牛のように。


ふと、何かに気づいた。
真っ白であったはずの視界の隅に、赤いものが見えた気がした。
私は何気なくそちらに視線を移すが、次の瞬間凍りついた。


血だ。


それは点々とした血痕などでは無く、明らかに大量の血が水溜まりを形成していた。

そんなバカな。そんなバカな。

活動を縮小していた私の脳がもの凄い早さで覚醒を始める。

何で?どうしてこんなに血が?見間違い?勘違い?錯覚か?それとも夢なのか?まさかドッキリなのか?けど、でも、だとしたら……

心臓が爆発しそうなほど強く脈打ち、その速度はこの退屈極まる人生おいて最速の脈拍を叩き出している。

それでも視線は、その血の出どころを辿ろうと移動を始める。
やめろ。見るな。見たくない。見てしまったら。
僕は。彼女は。

そして視線は遂にそれを捉えた。


四肢を切り刻まれ、赤々とした臓腑を果肉のように露出させた、人らしきモノを。

私は悲鳴すら上げることが出来なかった。
その場にへたり込んで取り乱し、口をパクパク動かしては何かを叫ぼうと努力してみたが、私の口からは何も、何一つの言葉も出なかった。

「いやあ参っちゃうよね〜、盗撮とかさ。ダメって言ったのに、しちゃうんだもん。そういう事しなければ、天国に行かせてあげたのにね」

慄く私の傍で、あの明るい声が聞こえてきた。
酷く冷静で、至って残酷なその声に私の身体は全身隈なく戦慄する。
股の辺りが温かい。私は失禁している。失禁しているようだ。
現実感の無い状況に、自分の身体すら現実から乖離していく。

「ん?あーあーあー、もう粗相しちゃってさ」

彼女はまるで子を嗜める母親のような事を言いながら、私を見下ろしている。
私はその顔を見上げるが、その眼を見るだけの勇気が無い。
蛍光灯に照らされた彼女の肌には、よく見るとところどころ返り血が付着していて、実行犯が彼女であると証明している。

「ねぇ」

彼女の声が突き刺さる。
それは私を床に縫い付け、身動き一つとれなくしてしまった。

「口直し、させてよ」

彼女は自分の腕についた血を舐め取りながら私に言う。そこで私は初めて彼女の舌の長さに疑問を持った。

長すぎる。

彼女は腕を自分の口に近づける事なく、胸の前で腕を伸ばした状態のまま、肘の辺りに付いた血を舐めとっている。
それはありない。人間には到底出来るはずの無い動きだ。

私は逃げ出した。
震える四肢で床を掻き回し、脱力し切った足腰で玄関目掛けて突進する。
しかしそれも無駄だった。
私は何かに足をとられて転倒し、顔を強か打ちつけてしまった。
それでも痛みは感じない。全身を駆け巡るアドレナリンが痛覚を鈍化させ、生存という根源的な欲求のみに意識を集中させている。
私は慌てて足元を見る。そこには私の脚に絡みつく腕とあの浅黒い顔がある。

「待ってくださいよ〜、悪いようにはしませんから。私これでも、'オンナ'としては自信あるんですよ〜」

その声色は世間話と変わらない、平易な声だ。
だから怖い。これなら老婆の皺がれた声で恫喝された方が幾分マシだ。

「お隣さんだって私の身体、見てたじゃないですか〜。一応これでも気を使ってるんですよ?毎日のスキンケアに運動に〜」

コロコロとした声で笑うその声に全身が粟立つ。
これは何だ。何なんだ。
非現実的で超常な何かが、目の前で起こっている。

「ま、いいや、勝手に頂いちゃいますけどね〜」

彼女の長い舌が私の脚に絡みつく。
悪戯っ子の顔に捕食者の瞳をギラつかせ、慈母のような手つきで私の脚を撫で回す。その得体の知れない何かに対し、私の心は血の色に染まっていた。

もがいて暴れる私の手が、何か棒状の物に触れる。私はそれが何かを確かめる事なく、一心不乱にそれを大きく振りかぶった。
棒状の物と思って手にしたそれは、およそ女の子の家には似つかわしくない、大ぶりの鉈だった。

ドスン


力いっぱい振り下ろされたそれが、彼女の愛らしい顔へ斜めに突き刺さる。
硬い頭蓋を貫通し、顔の半分程まで食い込んだところでそれは止まった。
彼女の顔がマネキンのような無表情に変わり、くるくると変わっていたあの表情が全て停止した。
ゴトン、という柄と床がぶつかる音と共に、彼女の顔が床に落ちる。脚を掴んでいた力も一気に弱まり、別の生き物のように這いずり回っていた舌も死んだように動かなくなってしまった。
私は無我夢中でその拘束を振り解き、身体でうち破らん勢いでドアを開け放った。

そのまま逃げてしまえばいいものを、何故か私は自室へと駆け込んで布団の中へと駆け込んだ。

先ほどから立て続けに起こった超常現象の数々に、私はもう耐えられなくなっていた。

夢だ。夢だ。夢だ。これは夢だ。夢。夢なんだ。夢。夢。夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢……

脳が思考を放棄して、情動が頭蓋を跳ね回る。
極限まで追い詰められた感情が脳を脅迫し、忘れてしまえ忘れてしまえとがなり立てる。
もはや世界は真っ赤に染まり、爆音で響く脈動の音だけが世界の音だった。
口の中から血の味がして、鼻もその匂いを捉える。
まるで血の池地獄で溺れる亡者のように、私の世界は赤に染まっていた。

ゴトンと何かが音を立てる。
私は小猿の如き悲鳴をあげて慄き、ベランダへと飛び出した。
眼前にはまばらな街の灯りと、それを包む深い闇が見える。私は玄関を睨みつけ、ガタガタ震える歯の根を必死に合わせようとしたが、ガチャガチャと不快な音をたてるばかり。
全身の神経が体外に露出したのでは無いかと思うほど研ぎ澄まされ、やがてそれは私の体力を奪い、次に眠りを呼んできた。

眠るわけにはいかなかった。
もし眠ってしまったら、いつまた奴が現れるか分からない。
眠るわけには、眠るわけにはいかないのだ。

しかし、限界を迎えていた私の意識はある時突然途切れ、眠りの淵へ落ちていった。

それはまるで、枯葉のようにそっと。


その日の目覚めは、驚くほど穏やかであった。
初夏らしい金色の陽光が瞼を刺激して、私は眠りの淵から浮上した。
今は何時だろう。
日はさほど高くない。夏至を過ぎて少し経ったとはいえ、あれほど高く太陽が上がっているのだ。きっと7時はまわっているだろう。
早く身体を起こして、出社しなければならない。
そんな日本のサラリーマンらしい使命感が私の身体を縦に起こし、昨日の悪夢が悪夢でしか無かったと確かめる事さえ拒む。
一瞬、目の端に真っ赤な色が見えてドキリとしたが、すぐにそれが血では無いと分かった。
ハイビスカスだ。
あれほど飼い主をやきもきさせていたハイビスカスが、まるでラッパを吹くように私に夜明けを告げている。
やはり花は、人の気持ちが分かるのかもしれない。
私は思わず彼に「おはよう」と告げて、重たい身体を奮い立たせた。
室内は昨日のまま、何も変わっていなかった。
雑然と散らかる本やゴミ、それは朝の淡い青色の中で、まるで迷彩柄のような濃淡で眼前に広がっている。
よく見ると、ゴミ袋の1つにコバエがが湧いてるのが見えた。
私の脳裏には昨日の光景がフラッシュバックする。昨日見たアレは新鮮な死体だった。なのだから、ハエなどまだ湧いていなかったはずなのだが、死にハエは付き物だというイメージから、私の記憶はハエと死体を結びつけてしまう。
私の嫌悪感は極に達し、今すぐにでも捨てに行こうと決意した。乱暴にそれを持ち上げて、冷たいドアノブを一気に捻る。
ここを開ければまた彼女が立っているのでは無いかという疑念が一瞬頭をよぎったが、どうやらその心配は無いらしい。玄関の外には、何の変哲もない日常が広がっていた。

私は頭だけを玄関から出して、左右を何度も確認した。
何もない。おかしなところは何一つ。
彼女の部屋をもう一度見やる。
何の変哲も無い扉、昨日と同じ、ただの扉だ。
私は少しだけ胸を撫で下ろし、やはり昨日のアレは悪夢であったのだと安心していた。その時


「お隣さん」


弾む声が、あの明るい猫撫で声がした。私の後頭部、耳裏めがけて。
私が声の方向へと向き直ると、通路の向こう、階段側にソレは経っていた。


「おはよーございまーす」


ヒラヒラと手を振るソレは、子供のような満面の笑みで私に近づいて来る。あの部屋の内装を思わせる真っ白なワイシャツを着て、本当に穿いているのかさえ心配になるような丈の短パンを穿いた彼女が、まるで何事も無かったかのように。
夢だ。夢。昨日のアレは夢なんだ。
私の脳は自身の異常を否定しようと、必死に理性を働かせている。あり得ない起こり得ない、そんな訳が無いと必死の叫びをあげながら。
しかし、その願いは脆くも打ち砕かれる。

「いやーさっき下で大家さんにお会いしまして、『夜にドタバタうるさい』って怒られちゃいましたよー。あはは、お隣さんってば昨夜は激しかったですもんねっ」

身をくねくねとよじらせて、彼女はケラケラ笑っている。
いや、まだだ。
まだ、彼女が、人を殺しただなんて。

「あ、昨日のアレ、心配してくださってます?大丈夫ですよ〜、慣れてるんで掃除も片付けも完璧です。血の汚れは早めに処置するのが1番ですからね〜」

私は目眩を覚え、せっかく奮い立たせた足腰が音を立てて崩れる。
玄関先で尻餅をつく私に、彼女はゆっくり歩み寄ってきた。

「あや、大丈夫ですか?まあ昨日の今日ですもんね。あはは」

やがて彼女は、私の眼前まで来て立ち止まり、口の端をニタァと吊り上げながら囁いた。

「逃げてもダメですよ?私、貴方の事気に入っちゃいましたから」

その目は黒く、宵闇よりも漆黒で、一度触れたら2度と落ちそうも無いほど粘って見えた。
彼女はペロリと舌先を見せ、悪戯小僧のような笑みを浮かべる。子供の純粋な好奇心によって踏み潰される虫の気分だ。私は今、彼女の作った虫カゴの隅で震えるだけの矮小な虫になってしまった。


「あ、今日缶ゴミの日ですから、捨てに行ったら怒られますよ。大家さん今、お外掃いてますし。それじゃ」


彼女は上機嫌な顔で私の横をすり抜け、自分の部屋のドアを開けた。中に入り、扉を閉めるその瞬間、彼女はもう一言私に告げた。

「そうそう、今日中にはハサミお返ししますね〜、お漏らしさん。ふふふ」

彼女の発言で、初めて自分が失禁している事を知った。しかしその衝撃よりも、自分の貸したハサミが何に使われているのか思い浮かべてしまい、喉の奥から込み上げて来るソレを押し留めることが出来なかった。
私は慌てて自室のトイレに駆け込んで、内臓が裏返りそうなほど猛烈な吐瀉を繰り返す。
昨日食べたアレは何だ。昨日飲まされたアレは何なんだ。
最悪の想像ばかりが脳内で渦巻き、一回転する毎にまた吐き気を催した。
隣室からは彼女の呑気な鼻歌と、パチン、パチンという音が響いて来る。
彼女はまるで私に聞かせようとしているように、陽気に、リズミカルに、その音を響かせ続けている。


パチン、パチン。

パチン、パチン。

結局私は会社を病欠してしまった。
その日は一日中、隣室から響く物音に神経を尖らせ、彼女の一挙手一投足を想像させられることになった。

それから三日間、私は家に引きこもり続けた。
食欲は大きく減退し、睡眠さえ殆どとっていない。ただ隣から聞こえてくる物音を睨み続け、無言の呪詛と恐怖を隣室とを隔てる壁に塗りたくり続けていた。

それでも彼女は歌い続け、毎晩隣室からはあの艶かしい嬌声が響いてくる。

そこで気づいたのだが、彼女は何も全ての男を殺している訳では無いようだ。
その3日間、少なくとも5人の足音が彼女の部屋を訪れたが、帰って行った数もまた5人分だった。
何が彼女を殺人に駆り立てるかは分からないが、何らかのルールはあるのだろう。

しかし、それを粘り強く見つようとするほど、私の身体は丈夫では無い。
既に目はギラギラと怪しい光を放っていて、力なく弛緩した表情筋は言いようも無い凶相を作り上げている。
このままでは彼女が直接手を下さずとも、近いうちに私が勝手に死んでしまう。そんな予感が、私の胸に渦巻き始めていた。

だから、殺すことにした。


それはもはや強迫観念のようなものである。
僅か数日で私の神経は投げ槍の如く尖り続け、頭の中には彼女を殺害し、始末するビジョンが明確に浮かび上がっていた。
もはや正常では無い。積年の恨みどころか出会って1ヶ月、恐怖が殺意に変わってからは1日も経っていない。それほどまでに急速に膨らみ続けた狂気の感情は、緻密で綿密な計画などハナから拒んでしまって、粗雑で暴力的な衝動となって湧き上がってきた。

それはある種の防衛本能だった。
隣室で笑うのは人を人と思わぬサイコパスである。人を惨たらしく殺し、あろうことかそれを食すという異常者なのだ。
殺さねばならない。
殺さねば、明日にでも私が殺される。
「殺」の文字が頭いっぱいに広がり、生きる為に必要な脳細胞を全てそこに注ぎ込んだ。

気がつけば私は、包丁を手にしている。
取り出した覚えも握った覚えも無い。
服は返り血の目立たない服を着て、タオルや着替えまで持参するつもりだ。
それを準備したのもどうやら私らしい。


私は遂に女を抱くことさえ未だ叶わぬままに、立派な殺人鬼と成り果てていた。

それは余りにも滑稽で、不気味で、狂気的な存在だった。


ドアチャイムを押す指が見える。
荒い呼吸をして、生唾を飲み込むような音がする。
そう言えば手が痛い。何か握っているのか。何を握っているのか。
わからない。わからない。

でも、殺さねばならない。


ドアの向こうから呑気で明るい声が聞こえて、足音がひたりひたりと近づく。
ドアノブが回る。
扉が開く。
中から、あの、まぁるい目が。
弓なりの大きな口が。
甘い、匂い。
血の、血の記憶。
こ、殺さねば。
殺す。

殺す。


「あれ、お隣さん、どしたの?」


次の瞬間、後ろ手に回していた手が眼前へと飛び出して、彼女の喉元を深く突き刺していた。
刺すというより鋭い右ストレートのように差し出された切先は、彼女の細い首を難なく貫通した。
ひゅう、という呼気が漏れる音と、ゴポゴポというあぶくの音がする。
私は更に一歩大きく踏みこんで、彼女を部屋の奥へと押し込む。彼女の体勢が大きく崩れ、私は更にもう一歩前進する。
私と彼女はもつれ込むようにして玄関に倒れ込み、彼女の柔らかい身体に私はのしかかった。
これで終わるとは思っていない。
私は力一杯包丁を引き抜くと、急所と思われる全ての箇所を徹底的に貫いていく。
脳に達するほど両眼を突き、喉をめちゃめちゃに切り裂いて、胸を何度も刺しまくった。腹を割いて内臓をズタズタにし、脇と内腿に刃を突き立て、何度も、何度も、何度も何度も殺し尽くした。

もはや柔らかい肉を貫くことさえ出来なくなるまで疲れ果てた頃、彼女は人型の肉と化していた。

何度息を吸っても酸素が足りず、肩を上下にさせながら血の匂いを肺いっぱいに取り込んだ。
夥しい量の血と肉が周囲に散乱し、折れた肋骨の白が眩しい程に光って見える。
私は猛烈な目眩と吐き気を催し、その場で胃の中のもの全てをぶちまけた。もはや立ち上がることも、顔についた血を拭う事さえできぬほど、私は憔悴しきっていた。

だから、自室のベッドで目を覚ました時も、その強烈な非現実感にしばし呆然としていた。
見慣れたはずの天井が、まるで旅行先のホテルの天井のように感じる。
私はゆっくりと起き上がり、自分の日常を取り戻すためにベランダへと足を運んだ。

この数日水をやっていなかったせいでハイビスカスの葉は力なく垂れ下がり、皺寄った葉がまるで老婆の如くしなだれている。
私はジョウロに水を汲んで鉢に注ぎ、萎れた花芽を無気力に見下ろす。

終わった。

全部全部、終わったんだ。


「おはよございまーす。お隣さん」 


その声は、いつもと変わらず響いてきた。
私は手にしたジョウロを床に落とし、声がする後方へと恐る恐る目を向けた。
隣室とを隔てる板の上、初めて会ったその場所に、いつもと変わらぬあの笑顔を見た。

「あはは、驚いてるねー」

あの人懐っこい少女の笑みで、彼女はひらひら手を振っていた。

「結構盛大にゲロってましたけど、普通ああいうのは別料金なんですよねー。ま、隣人のよしみということにしときますけど」

鈴鳴りの声で彼女が笑う。
いつもと変わらぬ、あの声で。

「いやあでも昨日で助かりましたよー。昨日はオフだったんで。次ヤりに来る時もオフの日でお願いしますね」


あり得ない。


私は確かに彼女を殺した。
この手で、完膚なきまで、徹底的に。
それでも彼女は、まるで何事も無かったかのように笑っている。
何故だ。何故なのだ。
まさか夢?いや、しかし、視線を落とした先にある、自分の服にはドス黒い血の跡がベッタリと付いている。
嘘ではない。夢でもない。
だとしたら、一体、彼女は。

「ふぁーあ、さてと、今日も夕方まで昼寝としますかねぇ。起こさないでくださいね。私、結構目覚めが悪いんで、相手がお隣さんさんでも」

彼女は揃えた指先で首を切る仕草をしてみせる。

「まだまだ貴方を食べる気ありませんから、大人しくしていてくださいね。それじゃ」

そう言って彼女は、私の視界から消えてしまった。
その日の晩も、壁の向こうからはけたたましい嬌声と、短い男の悲鳴が聞こえてきた。
その日彼女は、また1人殺した。


その日を境に私の生活は一変した。
仕事を辞め、使う当てもなく無駄に溜まっていた貯金を駆使して、あらゆる情報を集めた。
心霊、オカルト、各種文献から神話に至るまで情報を集めては、それら全てを実践した。
全ては彼女を殺すために。

お札も魔法陣も効果は無かった。
霊験あらたかな神社まで足を運んでみたものの、彼女には何の影響も与えなかった。
どこかで聞き齧った知識から、銀のナイフを用意して彼女の心臓に突き刺した事もあったが、翌日にはいつも通りに笑っていた。
彼女の身体を細切れにして、山へ捨てた事も、燃やした事もあったがダメだった。
ただし、トイレに流した時ばかりは怒られた。曰く「最低」だとか「敬意が無い」とか、挙句私が童貞である事までなじられた。
刻んでも燃やしてもダメな以上、爆破も意味は無いだろうし、周囲への影響を考えると憚られる。
私は短期派遣のバイトを何度かこなしつつも、頭の中は常に彼女を殺す事でいっぱいだった。

何がそうさせるのかは自分にも分からない。
そうこうしている間にも、彼女は何人も人を殺めているのに。
男性が多いようだが、一度だけ女性も殺しているようだ。彼女の部屋に向かったヒールの足音が、片道だけで途絶えていた。
また、一度だけ幼い男の子を部屋に連れ込む瞬間を見たことがあるが、その少年は何事も無く帰している。
彼女が言うには「子供が好きだからついつい連れ込んじゃった。別にやましい事もやらしい事もしてないし、お菓子あげたり一緒に遊んだだけ」との事だった。
それでも、その日の晩に大人の男1人を殺めている。


そして季節は盛夏を過ぎて、晩夏になっていた。

人というのは不思議なもので、私はすっかり人殺しに慣れてしまっていた。それどころか、毎日頭を悩ませ、創意工夫を凝らす事に楽しみさえ感じているのでは無いかとさえ思ってしまう。

考えてみれば、これまでの人生でこれほど積極的な日々はあっただろうか。
いつも人の顔色を伺って、周囲に溶け込む事ばかり考えていた。「何がしたいか」ではなく「何をしたらいいか」が常に私の行動方針だった。
彼女を毎度殺す度、自分の生を猛烈に感じることが出来た。彼女を殺している時だけが自分の血潮を感じられた。そして毎回彼女の笑顔を見るたびに、粘ついた闘志が湧き上がってくるのを感じている事に、私は気づき始めていたのである。

バケモノは一体どちらなのだ。

私はバケモノになったのか、それとも、元々バケモノだったのか。



「ばーばやーがー、お隣さん」


あっけらかんとした彼女の声が今日も響いて来た。最近は覚えたての言葉を挨拶にするのが彼女の中で流行っているらしく、今日は西洋の魔女の名前だった。

「おう」

私はもはや、敬語をやめていた。

「あ、つめたーい。だからモテないんですよー」

頬を膨らませたかと思えばすぐに悪態を吐く。
今日はベランダ越しに話しかけてくる彼女の顔が、晩夏の陽光で一際輝いて見える。
これで中身がバケモノで無ければ。
そんな無意味な思考を誤魔化すように、私はハイビスカスの花ガラを摘み始めた。
咲き終えた花はいずれ種を付けようとする。そうなれば栄養は種に向かい、次の花芽が上がって来なくなってしまうから、こうして小まめな花ガラ摘みが必要なのである。

「あ、まーたそうやってお花に逃げるんですから。ほらほらーここにもキレーなお花が咲いてるよー、おいおーい」
「刈っても刈っても枯れねえ雑草の癖に良くいうよ」
「わっはっはー、って誰がヤブガラシか!!」

ケラケラとした笑い声、不快で嫌味で、耳馴染みの良いその声を上げて、彼女の顔は怒り顔から笑顔に戻る。
ヤブガラシ、というモノは知らなかったのだが、彼女が言うことにいちいち付き合っていては身が持たない事は痛いほど分かっていた。
蛇を思わせるその名前が気になりはしたが、このあけすけな尻軽よりモノを知らないというのは屈辱だったので、返事の代わりにため息をついた。

「なあ、アンタ、どうやったら死ぬんだ」

昨夜は溺死を試してみた。
手足を縛り重しを乗せて、彼女の家の風呂場に沈め、その心臓が止まった事を確認までした。
結果はご覧の通りなのだが、別に勝算があったわけでは無い。ただ試していなかった。それだけだ。

「死、って何?」

挑発的で挑戦的で、こちらを胸元へ引き寄せようとするような甘い声色が、彼女の赤い唇からこぼれ落ちる。

「私は死だし、私が死なの。死から先に死は無いし、生の前に生は無いじゃ無いですか」
「禅問答のつもりか?」
「んーん、真実。理。神様が仕組んだ、悪魔の悪戯」

この手の質問に対し、彼女はいつもこんな風に返してくる。それは不条理で不可思議な、虚空へ向けた呼びかけに似ている。

「私は常に死んでるんですよ、そしていつも生まれてくる。それは短絡回路の輪廻であって、別に世界を都合よく書き換えてる訳じゃ無いんです」
「……新陳代謝みたいに、身体丸ごと交換してるのか」
「ニアリィですねー、正しくは、命丸ごとです」

彼女の姿が見えなくなる。
彼女はベランダの手すりから顔を引っ込め、完全に死角に入ってしまったが、それでも声は響いてくる。

「生と死は等価じゃ無いですか。死んでも生まれてもお釣りなんて無いし、誰であってもこの2つはプラマイゼロ。けど、現実問題として、そうは問屋が卸さないんですよね」

その声にはいつもの艶もハリもない。草臥れて枝垂れかかるような、まるで将来への不安を口にくる中高生のような口調だ。

「霊魂牧場から長距離トラックの運ちゃん達がえっちらおっちら命問屋さんに商品を納品して、問屋さんさそれを注文通りに出荷するわけですけど、当然、中間マージンが発生しますよね?それが微々たるモノであっても、コストはコストな訳で」

「もしかして、お前、その損失分を補うために殺してるのか」

「正解!」

今度は板の上から顔がにゅっと現れる。もぐら叩きみたいで滑稽だが、私はその論理に心底呆れ返っていた。

「まぁ実際はちょっと違うんですけどねぇ、ま、仮の例え話として捉えといてくださいな、と」

現れた顔が再び引っ込む。いよいよモグラ叩きじみて来た。

「じゃあ、お前、なんで殺したり殺さなかったりしたんだ。男も女もいたし、若い奴から爺さんまでいたじゃないか」

「別にー」

壁の向こうからは投げやりな声。全く返答になっていないではないか。

「じゃあ」

呆れ返った私は最後に1番気になっていた質問をぶつける事にした。

「どうして俺を殺さない」

彼女と出会ってから3ヶ月が過ぎようとし、その間、夥しい数の血と肉を見続けてきた。
毎晩続く狂乱の睦言と、短く鋭い悲鳴の数々。
血を浴びた彼女の裸体。血の気の引いた彼女の裸身。
その傍らには常に私がいた。
私は彼女を何度も殺した。恐らく明日も殺すだろう。
それでも私はここにいる。生きて、ここに。
それが何より不思議だった。
ただの隣人。お互い惹かれ合って隣同士になった訳でもない私を、何故彼女は生かすのか。
何度も自分を殺し続けた私を。

「別に」

彼女はまた、萎びた声でそう言った。

「人を好きになる事に理由なんていりますか?」

それはまるで、中学生の甘酸っぱい恋愛話のような答えだった。

「嫌いとか好きとか、そんな事の理由なんて全部後付けに決まってるじゃないですか。理由を求め過ぎると、いつか気持ちが裏返りますよ?」

それは答えに、なっているのだろうか。
それが例え真実だとしても、納得のいく答えには程遠い。けれども彼女の声色は、いつもの軽薄さを感じさせないものだ。
だとしたら。

「惚れてんのか」

「まさか」

「じゃあ何なんだ」

「さぁて」

「答えろよ」

「ふふふ」

彼女の声は今まで交わしたどの言葉よりも普通で、正直な、それでいて結論の見えない不思議な音色に聞こえる。
私の心はどこか安心を覚えていた。

「でも、ま」

三度、彼女の顔が現れた。その顔は悪戯好きの小僧の顔で、厭らしい口の端からは、先ほど見せた健気さを全く感じさせていない。

「昨日、死んだ私のおっぱいを揉んだ事は許してあげてもいいですよ?」

私はその憎たらしい顔目掛けて剪定鋏を投げつけたが、それは彼女の頭上を掠め、カランと音を立てて落下する。

「あははは!屍姦趣味の変態が怒ったー!」

彼女は顔を引っ込めて大きな笑い声を上げる。
それは心底楽しそうで、意地の悪い、愛らしい声に聞こえた。
するとその板の向こう側から、何かが飛んでくる。
それは小さな布切れのようで、その形は三角形をしている。

「今日のお隣さんはいつもより賢かったので、私からプレゼントを進呈しましょうー。うふふ、脱ぎたてですよ?」

それは明らかに、下着であった。
それは面積の小さい際どいデザインで、隠れるべきところも半分しか隠れていない、彼女の生業を考えればいかにもと言うべき代物だ。
しかし、童貞であればこれで喜ぶだろうという見透かした態度が気に入らない。
私は「おい」と低く吠えて、彼女に非難を浴びせようとするが、ベランダへ通じる引き戸が開く音がして、続けてピシャリと閉まる音がした。
私の声は届かぬままに、追い詰められた蝉の鳴き声が1つだけ響いている。

私はそれを拾い上げ自室へと戻っていく。それをベッドの上に放り投げ、しばし黙って見つめていた。

彼女が今日、言っていた事は真実だろうか。それともいつもの取り止めもない戯言だったのだろうか。それを確かめる術は恐らくなく、結局確かなものは何も無かった。
耳にはまだ、あの声が残っている。


『人を好きになる事に理由なんていりますか?』


私はもう、自分が成すべき事が分からなくなっていた。


余談だが、その下着は明らかに洗い立てであり、しかも生乾きの状態であった。
私はこの部屋が賃貸だということも忘れて、しばらく彼女の部屋側の壁を蹴り続けた。


数日後、大雨の日。
私は今日も彼女の部屋の前に来ていた。
手には麻紐、それ以外は何も持っていない。

ドアチャイムの無機質な音。「はーいー」という呑気で明るいいつもの声。ドアノブが回り、扉が軋む耳慣れた日常音。そして扉の隙間からは、短い黒髪と大きな瞳、紅く薄めの唇に縁取られた大きな口が、人懐っこい笑みで現れる。

「おや、お隣さん」

その瞬間私はドアノブに手をかけて一気に開け放ち、「わひゃ」と驚いた演技をする彼女の腹部目掛けて本気の蹴りを放つ。
武道の心得などない、蹴りと呼ぶにはあまりにも粗雑で乱暴で稚拙な打撃だったが、成人男性の全体重を乗せたその攻撃に彼女は背中から玄関へ倒れこんだ。
私は素早くドアを閉めながら部屋の中に侵入し、上体を起こそうとする彼女の頭を側面からもう一度蹴り倒す。
彼女は今日も薄着で、部屋着代わりのワイシャツ越しに健康的な素肌が透けて見えている。
私はその胸ぐらを乱暴に掴んで、部屋の奥へと彼女を引き摺った。
長身痩躯の彼女の身体はその体格に見合っただけの重みがあるが、興奮状態の私にはマネキンを運ぶが如き軽さである。

彼女の身体を抱え、ベッドへ放り込む。
私は持参した麻紐を取り出して彼女の両手首を縛り上げ、ベッドの端にしっかりと括り付けた。
「ふふふ」
胸の下から悩ましげな笑い声が聞こえてくる。作業を一通り終えた私が視線を落とすと、余裕綽々という表情の女が、楽しそうに笑っていた。

「今日は何して遊ぶのかな?」

私はその頬を力いっぱい叩いた。
拳を握り、振り下ろすつもりだったが、直前で躊躇い平手打ちになる。鋭い衝撃音と破裂音が炸裂し、私はもう1発、逆側の頬も打ち抜いた。
彼女はそれでも笑っている。
極度に興奮していた私は、訳も分からずしゃにむに彼女の顔を叩きまくった。それは残虐な暴力行為と言うよりも、お菓子を買ってもらえず駄々をこねる幼児に似ていた。
あまりにも衝動的で浅はかで馬鹿馬鹿しい私の行為に、彼女はじっと黙したままだ。

私は不気味に黙りこくる彼女のその紅い唇に、自分の唇を無理矢理押し付ける。
頭蓋と頭蓋を押し付け合い、歯茎で歯茎を削り取るような乱暴な口づけだ。ふぅふぅという盛り狂った種馬のような自分の呼吸音が白過ぎる室内に充満し、彼女の唇を吸い上げる度に発生する間抜けな水音がチープなクリックを刻んでいる。
薄い唇を掻き分けて、私の舌先が彼女の口腔へと侵入を遂げる。かつて自分がそうされたように、彼女の口内を隅々まで蹂躙し、全ての唾液をこそぎ落とそうとする動きで舌を暴れさせた。
彼女の吐息に耳を澄ませるような余裕は無い。私は自分の欲望の赴くまま、彼女の唾液を貪り続ける。
今度は右手で彼女の乳房を思い切り掴んだ。慈愛も情愛も無く、獲物を奪い合う獣の手つきでその柔らかい果実を力いっぱい握りしめる。
どこで見たのか、はたまた本能なのか、私の手は半時計回りの円運動を描いて動き回り、その薄い身体に付いている事が不自然に感じるサイズの胸をひたすら揉みしだいた。
それは手の中で縦横無尽千変万化に形を変えて、指の隙間をすり抜けるのでは無いかとさえ感じられた。
私の手は今まで忘れていたかのように彼女のシャツに手をかける。わざわざボタンを外そうとして、結局引きちぎってしまう。
白々しい蛍光灯の下に晒されたその肌は、まるで上質のなめし革のように淡く艶やかに光り輝いていた。
彫刻を思わせる程に滑らかで、嘘くさい程に均整のとれた上半身が、酸素を得る度膨らむ。
私はその小麦色した双丘の突端に齧りつき、噛みちぎってしまうのでは無いかと思えるほど、思い切り力を込めた。
彼女の口から「んっ」という吐息が溢れ、その乳首にかぶりついたままの状態で彼女の顔を伺う。


それは見たことも無いような表情だった。


慈母と淫売の間、いやそれら全てが混合しマーブル模様を形成するような、優しく淫らで蠱惑的な笑みを浮かべた彼女は、曇天の薄暗闇の中に蕩けきった顔を晒しつつも、その眼の奥は黒々と爛々と煌めいているようだ。

あの異様に長い舌が伸び、骨に食らいつく駄犬の顔をした私の頬をちろりちろりと撫で回す。
それは恋人に対する愛撫にも思えたし、捕食者は自分だというマウンティングにも感じる。


一瞬、時が止まる。


それは1秒かその半分か、それは知覚できない瞬間なのか。2人の視線が絡み合い、互いを捕らえ、重油よりも重い粘り気と固結びよりも強靭な結び付きを感じた。


ピンポーン


ドアチャイムの音が間に割り込んで、止まった時は急速に動き出す。
その音は何度も鳴り響き、続けてドアを叩く音と男の声が何事か叫んでいるように聞こえた。
2人は顔を見合わせたまま硬直し、無言無表情でしばし見つめ合う。登場人物リストに載っていない第三者の出現に私の頭は急激に冷えてしまい、自分がやっていることの馬鹿馬鹿しさに恥いる余裕が生まれつつあった。
しかし、次の瞬間、ドアノブの回転音とともに複数の足音が室内に雪崩れ込んでくる。

人数は3人。みな揃いのスーツにネクタイを締めた堅い服装をしているが、その筋肉質な肉体と野犬とハイエナの落とし子めいた顔つきは、どう見ても昼の住民では無い。
ボタンを締めずに開け放たれた上着の陰から、「く」の字の何かがのぞいている。

「おう、兄ちゃん。お楽しみのところ悪ぃけどな、この女に用があるんだ。外してくれ」

恐らくこの集団のリーダーと思われる男が低い声で私に命じる。
私は「え?」と間の抜けた声を上げて硬直していたが、横に立つ大柄な男の太い腕が私の肩を掴んで、信じられないような怪力で私の身体を彼女から引き剥がした。
私は大きくよろめいて壁に頭を強く打ち付けてしまい、その場に倒れ込んでしまう。
男達は私の存在などどうでもいいように背を向けて、ベッドに縛られた彼女を見下ろしている。
3人のうちの1人、先ほど私を引き剥がした男とは違う小柄な男が、先程私がしていたように彼女に跨って硬く握りしめた拳を次々と振り下ろしていく。
それは重く鋭く彼女の顔に突き刺さり、鈍い骨の衝突音が何度も何度も鳴り響く。

「自分が今殴られてる理由分かるか?分かるよなあ?なあ、おい、てめえからすりゃ股広げるだけのお気楽バイトかも知んねえけどよ、それが許されると思ったのか?あ?」

リーダー格と思われる男が冷たく低い声でベッドに縛られた彼女を恫喝する。彼女は何の抵抗も出来ぬままただひたすらに殴られ続けている。

「頭の足りねえお前には分かんねえだろうがよ、ルールっつうもんがあるんだよ。それを教えに来てやったんだありがたく思いやがれよ?おい」

彼女は沈黙している。小柄な男の拳には血がついている。

「何とか言えやこの売女がぁ!」

リーダー格の男がベッドを蹴飛ばすが、彼女からは何の返答も無い。

「ちっ、おい、お前アレ出せ。顔に傷つけて2度と商売できない顔にしろ」

男は後ろに控える大男を促すと、彼は腰の辺りから10数センチ程の棒を取り出す。シャキンと音がして、その棒から銀色に光るナイフが飛び出した。
私は殆ど反射的に起き上がり、その男の脚にしがみつく。

嫌だ。彼女が傷つけられるのは。

朦朧とした意識を奮い立たせ、力の限りその丸太のような脚を引きずろうとするが、腕にはほとんど力が入らず、男の身体は微動だにしない。
突然、脳天に激烈な痛みが走る。
私にまとわりつかれたその男が、拳骨をするようにナイフの柄を私の頭部めがけて振り下ろして来たのだ。
私は声にならない悲鳴を上げてのたうちまわり、続けてあまりにも重過ぎる蹴りが私の腹部に襲いかかる。割れるような頭の鈍痛と呼吸を奪う腹部の痛みで、私の意識は彼岸の手前まで後退するが、そのまま果てる事さえ出来ずに嗚咽を漏らす。
自分の非力を呪うことさえ出来ぬまま、私はうずくまって唸る事しか出来なかった。
リーダー格の男が私の顔に冷たい言葉を投げかける。

「あんた、ただの客かと思ったが、コイツの男か。じゃあ同罪みたいなもんだな。オイ、コイツもやれ」

眼前の大男が私の胸ぐらを掴んで私を無理矢理立たせようとするのだが、既に私の脚には力がなく、男の太い腕にもたれかかるようにして立つのが精一杯だった。
そんな私の顔に、大きな拳が炸裂する。
胸ぐらを掴まれ、避ける事もいなす事も出来ないままその拳を受けた私の顔が後方へ弾け飛ぶ。
打撃音の中にミチッという音が混じり、小さな血飛沫が純白の壁紙を染めた。

痛い。怖い。辛い。痛い。
痛い痛い痛い。

かつてない激痛と死への恐怖に呑まれながらも、私の身体はただそれを受け入れる事しか出来ずにいる。
殺される。
間違いなく私は、この男達の手によって。
嬲られ、いたぶられ、ただ一方的な破壊と殺戮を一身に受けて、私の人生は終わりを迎えようとしている。
自業自得だ。
そうわかっていても、往生際の悪い本能が助けを求めて彷徨っている。
誰か。助けて
助けて。

誰か。

男が腕を大きく振りかぶり、その拳が私の視界を埋め尽くそうとしたその瞬間。突然私は冷たい床へと落下した。
その音と共に大きな音がもう一つ。
視界から男達が消える。
眼球を動かして何事かと探り回る。
白い壁、白いテーブル、白い座布団。
立ち尽くすリーダーらしき男。
折り重なった2人の男。
床に突き刺さったナイフ。
私の目の前に現れる、細くて、薄い茶色の、足首が2つ。


「お隣さん」


床にうずくまり視線だけを上げた私の前に、あの日と同じ構図で、彼女は立っていた。

蛍光灯を背にしているせいで、その表情は薄暗く、判別が出来ない。
それでもその顔がまるでギャグ漫画のように膨れ上がり、端正で愛らしいあの顔とは似ても似つかない血と肉の塊になっている事だけはわかった。
彼女に痛覚があるのなら、一体どれほどの激痛なのだろうか。瞼は両目ともに腫れ上がり、唇は裂け、歯も何本か折れている。顎のラインはふた回りも大きく膨らんで、寝起きの様に乱れた髪がその暴虐の痛ましさを伝えてくる。
それでも彼女は優しく慈しむように、そっと語りかけてくる。

「殺される気分はどうかな。痛いよね、辛いよね。死ぬのはさ」

私の脳内では何が起こっているのだろう。
もはや思考と感情がチグハグに動き始め、彼女への感情が行き場所を求めて暴れ回っている。


「なっ、おい!お前ら何してやがる!!」

先ほどまで偉そうな声色で威圧していたあの男が、酷く狼狽した声をあげている。
私が視線をそちらに移すと、彼の眼前で部下の男達が殴り合いを始めていた。
2人の男は死人のような目で互いに睨み合い、口元にほのかな笑みを湛えたまま拳を打ちつけあっている。鈍い打撃音とマウントを取り合って転げ回る音が静寂の部屋を掻き乱してゆく。


私の右手が、目の前に突き刺さるナイフへと伸びる。冷たい柄を掴み、引き抜いて、私はぐっと握りなおす。
何をするつもりだ、と自分に問いかけてみても、私の脳は答えもしない。ただ、目の前の男をこれで突き刺さねばならないという使命感だけが、私の身体を突き動かしている。
私は立ち上がろうと試みるがうまくいかない。脚が震え、激痛で身体中が軋み、目の焦点を合わせる事さえ難しい。
それでも私はやらねばならない。
自分の命と彼女の事を守るために。

男が私に気づいた頃には、私の身体は彼めがけて走り出していた。腹の底から湧き上がる絶叫と殺意を滑走路にして、私の身体は真っ直ぐ駆け抜けようとした。

しかし私のナイフが貫いたのは男の厚い胸板などではなく、幾度となく切り刻んだ、あの薄く柔らかい女の身体だった。
やぶれかぶれの突進をしかけた私の目の前に彼女が立ち塞がり、死に物狂いの私を抱きしめるようにして、彼女は私の切先をその胸で受け止めている。
「ダメだよ。人殺しなんて」
そんな声が聴こえた気がしたが、その意味を問いただす前に、彼女の身体は白い床へと崩れ落ちた。
血の赤が彼女を中心にどんどん広がり、その出血の激しさを物語る。四肢は力なく四方に投げ出され、紅い唇からも赤色が流れ出す。
それを私は、ただ黙って見下ろしていた。
それは何度も見た光景で、この数ヶ月間の私の日常であったからだ。
このあり得ない非日常の中で急激に日常を取り戻した私は、周囲の異様な光景をまるで傍観者のように眺めていた。

ドアの外から似たような服装の男たちが2人現れる。異様な物音が気になったのだろうが、2人が来た事で何も出来ることは無い。組み合った2人の男は、死人の顔でお互いを殴りつけているが、その手はもはや拳も作れない程のひしゃげて折れ曲がっている。
それでも止まない2人を見た新顔2人が、突然大きな声で笑い出す。その声は抱腹絶倒のお手本のような大声であったのだが、その顔に表情は無い。無機質な人形にスピーカーをつけたように、凍りついた顔のまま直立し、けたたましい程の笑い声を上げていた。
やがて2人は懐からそれぞれナイフを取り出して、互いの口の中へとそれを突き刺し始めた。事前の取り決めでもあったかのように、交互に突き刺されるナイフに合わせて、粘ついた血の水音がピチャピチャと一定のテンポを刻み続ける。

威張り散らしていたはずの男は不可解極まる光景に完全に肝を潰し、わなわなと震えながらドスンと尻餅をついた。
口は何かを叫んでいるが、もはや言葉にはなっていない。それは獣の断末魔のようである。

無機質極まる真白の部屋は今や赤と白に彩られた、酸鼻極まる祝宴と化していた。

これは、何だ。何が起きている。

「上原さん」


私は、問いの答えを持つ者に語りかける。


「上原さん」


2度目、切実さが血のように滲む。


「上原さん!」


それは大きく悲痛な、叫び声だった。





「あおい、だよ」


今にも崩れ落ちそうになっていた私を、抱き止める者がいる。
阿鼻叫喚の地獄を背景に、時が再び凍り始める。


「こんな時まで他人行儀じゃ、ムードがないじゃないですか」


その声は穏やかに、我が子を寝かしつけるように、ただただ甘く優しく響いてくる。


「上原あおいです。はじめまして」


私はその姿を確かめた。
腫れ上がった顔は元に戻り、愛くるしい瞳も、綺麗な鼻筋も、薄くて赤い大きな口も、幼なげな輪郭も、全て全て元通りになっていた。
愛おしそうに笑みを浮かべてクスクス笑い、細くて短い髪を私の顔に押し付けてくる。
初めて嗅いだ女性の香りに、私は感動さえ覚えてしまう。
彼女の肢体も死体も全部見たのに。
彼女の血も臓物も何度も見て来たのに。
そんな普通の発見が、どんな驚きよりも嬉しかった。

生きている。彼女も、私も。


「巻き込んじゃってごめんなさい」
「私、人の傷は直せないから」
「貴方は私のものだから」
「だから私に殺させて」


彼女の声が断片的に聞こえる。
長い長い睦言を囁いていたようだが、私の脳は既に許容量を超えており、その半分も聞き取れていない。
彼女は一通り言葉を紡ぎ終えると私を床にそっと下ろした。そのままくるりと向きを変え、その眩しい裸身をあのリーダー格の男へ見せつけるようにして歩いていく。

私に殺された時はいつもカラカラと笑っていた彼女の背中には、怒気と殺意が絡み合っているように見える。

「え?なに?なんだって?」

恐怖に震える男の声がこだまするが、彼女は一言も声を発していない。私の視点では、男が一人芝居をするように勝手にペラペラ喋っているように見える。

「知らない!そんなもの俺は知らない!」
「許してくれ!なあ、許してくれよ!」
「そんな……俺は、ただ……上からやれって言われただけで………え………待てよ!おかしいだろ!何でそうなるんだよ!!」

男は両目いっぱいに涙を浮かべ、激怒しながら哀願し続ける。それはまるで子供のように。

「ぁ……あおい!」

私は彼女の名前を呼ぶ。彼女と出会ってから幾度も不可解な場面に遭遇してきたが、その理由を聞きたかったからだ。

彼女がゆっくりと向き直る。その短い髪は彼女の顔を隠したりせずに、さながら額縁のように、その優しい顔を縁取っていた。
彼女、上原あおいはくすぐったそうに曖昧な笑みを浮かべ、まるで何かを噛み締めるように、私へそっと語りかける。

「目、つぶっててくれるかな」

「お願い」というその口ぶりはあくまで穏やかで、私はただ言われるがまま瞼を下へ、ゆっくりと下ろした。


「あ………ぁ………あああああああああああああ!!!!!」


耳をつんざくような男のけたたましい悲鳴が聞こえ、続けざまに銃声が何発も響き渡る。それに合わせて血と肉の弾ける音が何度も聞こえたが、男の悲鳴が止む事はない。


「嫌だ……やめろ……やめてくれ……!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ痛い痛い痛い痛い痛い痛い嫌だああああああああああああ!!!!!」


一際大きな叫び声の後、何が弾ける音と、重みのある水音が耳に届いた。

終わったのだろうか。
私は恐る恐ると瞼を開き目の前に広がる惨状を目の当たりにする。
殴り合っていた2人の男はその頭部に大穴を穿たれ、抱き合うようにして倒れている。
ナイフを突きあっていた2人のうち片方も頭に銃弾を複数受けたらしく、その頭部は半分近く形を失っていた。力なく倒れるその男の死骸の上で、致命傷を免れたらしいもう1人の男が、既に事切れた男の腹にナイフを突き立て続けている。しかしその腕に力は無く、まるで壊れたオモチャのように同じ動きを繰り返しているだけだ。
その男もやがて血の海に身を投げた。

彼女の身体越しにリーダー格の音を見る。
頭部が無い。残された胴体も腹部からめくり上がるようにして、臓物が飛び出しており、両の手足は曲がるべきでない方向へ、めちゃくちゃに折れ曲がっていた。

先ほどまで背を向けていたはずの彼女が、いつの間にか身体ごと私の方を向いており、その艶やかな裸体には大量の血が付着している。

悪戯が露見した幼児のように、ゆっくりと彼女の顔を伺おうとするが、その顔がストンと目の前に降ってきた。
あおいの顔は蕩然としたように緩みきり、口づけをせがむようなその顔の唇から、あの長い舌がするりと伸びてくる。それは私の頬を優しく撫でて、傷だらけの私を慰めるように何度も何度も行き交った。
私はその舌先を唇で優しく捕らえ、自分の舌を絡みつかせる。彼女の背がゾクゾクと震える姿が間近に見えて、私の行為は更に加速していく。
舌を絡め、舌を喰み、舌を撫でては2人の唾液を混ぜ合わせていく。

血の匂いが充満する真っ赤な部屋の片隅で、淫らな水音だけがずっとずっと響き渡っていた。

まるで何かを、確かめるように。




それから程なくして、私は連続殺人鬼として全国に指名手配されていた。
報道によると、私は隣室に住む住所不定無職の女性と共謀して売春行為で金を稼ぎ、トラブルが発生する度にその客を残忍な方法で殺害したうえその死体を損壊、遺棄した疑いがかけられているのだという。
あおいの部屋の押し入れや屋根裏からは夥しい量の人骨が発見され、その数は最低でも30人分はあるのだそうだ。

私はあおいを連れて全国各地を逃げ回った。行く先々でもあおいは殺しを繰り返したが、私はそれを知らぬ顔で黙認し続けた。
私は誰も殺してない。
けれども、きっと殺人鬼は私なのだ。
彼女にとって殺人とは捕食の事である。
で、あるならば彼女はせいぜい害獣の類だろう。
そんな話をしたら、彼女は珍しく怒って私の背中を何度も蹴り飛ばした。

私とあおいは恋人同士になったのだろうか。
結局あの日から今日に至るまで、肌を重ねた事など一度もない。片時も離れず、愛撫と睦言を重ねて行くだけでそれ以上には発展していない。
「性行為こそが恋人の在り方」なんて言うつもりは無いが、それが無ければ決定的な繋がりに欠けるのでは無いかと感じたりもしていた。
そういう話をするとあおいはいつも笑って、色恋とは縁遠い私の人生を嘲笑った。
その度に私は彼女を押し倒し、彼女の身体を舐め回したのだった。


私はもう、とうの昔にイカれていた。狂っていた。

道徳的な正しさや法令的な正しさから転げ落ち、酸鼻と官能の淵で踊り狂っているようだ。

それでも現実は、確実かつ着実に私達の進路を狭めていく。

センセーショナルに書き立てられた報道によって、もはや日本で私を知らぬ者などいない程この無個性極まる人相は知れ渡り、警察は誤認逮捕や偽通報に悩まされつつも、幾度も私達の鼻先まで迫ってきた。

私はいつしか疲れていた。疲弊していた。

あり得ない非日常の日々が日常へと変わり、愛する人との甘いやりとりも、赤いサイレンに掻き消されていく。
気づけば季節は一巡し、あの晩夏の一夜から1年以上が過ぎていた。
寒いのが嫌いだというあおいのために、私たちは南へ南へと逃避行を繰り返し、遂には全くの離島にぽつりと佇んでいる。
季節はもうすぐ秋だというのに気温は高く、観光客に紛れるために買ったアロハシャツが、バカバカしいほどしっくり来ていた。
波の音がザワザワ轟く。1人で眺めるには持て余すほど海は大きく、その雄大さと懐の深さに私の心が安らいで行くのを感じた。

視線の先で、相変わらず露出の多い服装をした彼女、上原あおいが波打ち際で戯れている。
無邪気な子供みたいにニコニコ笑い、薄着の肌を太陽に晒して、真珠みたいに輝いてはコロコロと転がるように、その満点の笑顔を私に見せる。

「ねぇねぇ!早くこっちに来てよ!一緒に遊ぼ!」

渚に咲いた大輪の花の如く、彼女は眩く咲いていた。
私はその姿に目が眩んだように、瞼をギュッと閉じてしまう。その目尻からはじわじわと涙が浮かび上がり、込み上げてくる嗚咽が喉の奥から溢れ出しては口からこぼれて消えていった。
その感情の意味を私は知らない。

「どうしたのっ?」

棒立ちのまま俯いた私の頬に、彼女の吐息が吹きかかる。
あおいはいつの間にか私の真横に立って、不思議そうな顔で私の表情を覗き込んでいた。

「なんでもない」
「ふぅん、やっぱり男の子なんだね」

彼女の返事は素っ気ない。恐らく彼女にも、この感情の意味は分からないのだろう。

「なあ、あおい」

涙まじりの情けない声で、私は彼女名前を口にした。
「うん?」という彼女の声。しかし、その後の言葉が出てこない。
「あおい」
もう一度繰り返す。「なぁに?」という彼女の甘ったるい声。
「あおい」
私は彼女を抱き寄せて、力いっぱい抱きしめた。彼女を潰してしまいそうな程きつく、自分の全てを注ぎ込むように、私はその細い身体を強く強く抱きしめた。


「もう、ダメそう……?」


彼女の声はかつてない程消え入りそうな、弱々しい響きに満ちていた。全身全霊を込めた私の抱擁は、私の心を彼女に届けたようだった。

「ありがとうな、あおい」
「ごめんじゃなくて?」
「ごめんじゃない、ありがとうだ。ありがとう、あおい」
「嫌だよ。悔いてくれなきゃ、償ってくれなきゃ、私は嫌だ。嫌だよ」

海より青いその声に、深い深い悲しみを見た。

「花が咲いたから」
「だから?」
「花が咲いたら、花ガラを摘まなくちゃ。そうだろ?」
「どうして?」
「次の花が、待ってるから」
「花は貴方の為に咲いたんじゃないよ」
「そうさ、俺の事なんて考えちゃくれない。アイツらは勝手に咲いて、ひっそり散っていくんだ」
「けど、貴方は」
「俺は譲るよ。次咲くべき、知らない花に」
「バカ、アホ、死んじゃえ」
「ふふふ、死んじゃえ、か」
「死んじゃヤダ、死んだら殺す。私に殺されたく無かったら死ぬな」
「あははは」

彼女は涙を見せなかった。
ただ憮然とした表情で俯いたまま、私の胸の辺りを睨み続けている。

「なぁ、あおい」
「ヤダ」
「お前、木登り得意だろ」
「ヤダ」
「絶対そうだ、俺は分かるぞ」
「ヤダヤダヤダ」
「なあ、このロープをさ……」

彼女はぷいとそっぽを向いて走り出した。
白い砂浜へ走り出し、スカイブルーと限りなく白く輝くアイボリー調の砂の上で、遠い空を仰ぎ見ている。
私も一緒になってその空を眺める。
抜けるような青、黄色に輝く黄金の陽光。
ぽつんと浮かぶ彼女の背中に、私は涙を垣間見た。

深いため息を二、三度ついて、私は近くの大樹へ手をかける。
木登りなんてした記憶が無い。
地元がそれなりに都市部であったからか、元々臆病な性分故だったのか。
けれど私は使える手足と頭を使い、どうにかこうにか登り始める。
試してみればどうという事は無い。
私の心は何かに満たされている。
充足感とは程遠い、虚無の彼方へ拡散し始めた私の魂が、風船みたいに膨れ上がっては己の身体を急かしている。
手足が痺れだし、掌には血が滲んで来ている。
私は手頃な太さの枝に足をかけ、抱きつくようにして自分の身体をそれに寄せた。
枝と言っても、人の胴体ほどもある立派なもので、私が乗っても枝先が大きく揺れるばかりで折れる気配は全く無い。
ここまで来るのに、一体幾日幾月の日々を過ごして来たのだろうか。
その頼り甲斐のある大きな枝の機嫌を取るように撫でながら、少しだけ幹から離れていく。
適当なところで私はロープを結い始めた。片方は枝に巻きつけて、もう片方は輪を作り。
見様見真似だ。
これで失敗でもした日には、情けなさと不甲斐なさで入水自殺を図るかも知れないな。
私は何だか楽しくなっていた。
散々1人の人間を殺し続け、思いつく限りありとあらゆる方法で殺し尽くした経験が、まさか自分殺しで生きるなんて。
それほど時間もかからずに、私の準備は完了した。
私は輪になったロープを首にかけ、そっと枝に腰掛ける。
どこまでも続く青い海、青い空、彼岸の先には何も見えず、ただただうねり続ける波音が、私の心を飲み込んでいく。
そういえば、水死を試した事もあったな。
我ながら嫌な思い出である。


ギシッ


私の腰掛けていた枝が大きく揺れて、ひとつの影が私の横へ降り立った。

「あおい」

平均台の上に立つ体操選手のような彼女へ向けて、なんて事ない声で、いつも通り話しかける。

「見送りなら、下でも良かったのに」

彼女は黙って私を見下ろす。
そういえば彼女にはいつも見下ろされてばかりのような気がした。

「なぁ、座れよ」

私が隣に座るよう促すと、彼女は不服そうな仏頂面のまま、そっとその細い腰を枝の上に下ろす。

「ありがとうな」
「幸せだったよ、あおいと出会えて」
「まさか俺が連続殺人鬼なんてな、ははは、全く笑えるよ」
「あおいはずっと生きるんだろ?殺しはほどほどにしてさ、ひっそり生きろよ。別に何度も死ななくたってさ……死ぬのなんて一回だけで十分だ。なあ、そうだろ?」

無気力な声で滔々と語る私の声に、彼女の反応は何一つ無かった。
その代わり、彼女の掌が私の手の甲に重なる。それは死なせるまい離すまいとする強い力では無くて、ただ当てて添えるだけの優しい温度でそっと体温を重ね合わせている。

「なあ、死ぬってどんな気分だ?怖いよな、辛いよな?殺されるのはお前の十八番じゃないか。なあ」

自分が酷いことを言っている自覚はあった。
愛する人が目の前で死のうとしていて、それを止める事が出来ない人の前で、死とは何かを問い続けている。


砕ける波音が沈黙を生み、ざわめく木々のせせらぎが私の背中を押している。

後は少し、身体を前に。


「あおい」

私はもう一度、彼女の名前を呼んでみるが、彼女はじっと俯いたままだった。

「俺、もう行くからさ。なあ、あおい」


「またな」

私の世界はぐるりと裏返り、首へと伝わる衝撃とともにもう一度天地があるべき姿で広がった。
息が詰まり、血が止まり、私の本能が生き延びようと暴れ始める。それは思考と感情を遥かに凌駕して縄を解こうと試みるのだが、本能から切り離された感情がそんな身体の反応を冷ややかな目で見ている。
余計な事しやがって、さっさとくたばってしまえ。
それは冷淡な祈りでもあり、解放を求める渇望でもあった。

だから私は可能な限り思考を放棄し、まるで頭の中で念仏を唱えるみたいにひたすら繰り返した。

早く死ね早く死ね早く死ね早く死ね。

私の心は死んでいる。
私の思考も間もなく死んでしまうだろう。
後は身体だ。お前だけが、いつまでも往生際の悪い生を求めているんだ。

意識が遠のき、手足の感覚を失い始めた頃、それは突然やってきた。
それは上から、天地を逆さにひっくり返して、私の眼前に降ってくる。

「バカな人」

あおいの顔が、私が唯一心から、死んでも死ぬまで愛するはずだったあの愛しい顔が、上下を逆さにして現れた。

私は「あおい」と口にしようとするが、その3文字を思い出すのが精一杯であり、身体中の筋肉が全ての動きをやめていた。


「いいよ、わかった。貴方は何も悪くない。悪くないから、死ぬんだね」


泣きたいのに泣けない。そんな顔をした彼女の顔はぐしゃぐしゃに歪んでいて、まるであの日の無様な顔みたいだ。


「じゃあ、私が」


甘い匂い、優しい声色、私に触れる細い指の指紋さえ、私の砂地に刻み込まれていくようだ。


「私が、食べてあげるから」

私が最期に聞いたのは、そんなような言葉だった。
やがて訪れたのは痛みや恐怖や悲しみなどでは無くて、全身が溶け出すような快感と何かに深く包み込まれるような漠然とした安心感であった。
シルクの羽毛に包まれるような感覚と、眠りに滑り落ちる温かな感触が全身を包みこんでいく。


それが私の死だった。


それが一般的な死であるのか、それは知る術は無いのだが、これが死だと言う確かな確信が私の中で花開いていく。



ああ、そうか。

あおい、君が。




君が私の花だったのか。





彼の意識はそこで途絶えた。






『稀代の連続殺人鬼、南の島で首吊り死』

ケバケバしい文面と刺激的なタイトルが紙面を飾り、ニュースサイトのアクセス数もその年一番の伸びを見せて、彼の名前はしばらく人々の記憶に強く残っていた。
しかし一年も経つ頃にはすっかり人々の記憶から薄れ始め、何年かに一度はあるようなありふれた凶悪事件のフォルダにファイリングされようとしていた頃、一枚の写真がその記憶を呼び起こした。

その写真は当時、二流週刊誌の編集部に所属していた新人記者が撮影したものだった。
功名心と虚栄心を両の脚としてこれまでの人生を歩んで来た彼は、「警察よりも先に犯人を見つけてやろう」と躍起になっていたらしく、独自ルートから犯人の足取りを掴み、警察よりも一足早くあの離島へと上陸していた。
そして彼はまんまと、思惑通りにその犯人を見つけ、その姿をファインダーの中に焼き付けたものがその写真である。

大樹の枝で首を吊る男、その背後に咲き誇る満開の赤い花と、彼の脚にまるで寄り添うように絡みつく1匹の大蛇が写っていた。

彼は興奮状態でシャッターを切り続け、その縊死体特有の表情まで捉えようと近づいた時、その場に転倒したそうだ。
彼が言うには、足元一面に夥しい量の白骨が敷き詰められており、自分はそれに足をとられたのだと、そう警察に証言したらしい。

しかし警察が現場検証をしたところ、大蛇も白骨も見当たらず。犯人の死には何もおかしな点が無かったのだという。

無論、彼の撮った写真は世間を騒がせた凶悪事件の重要証拠として押収されたはずなのだが、それが何故か一年の時を経て、突然巷間に広がったのであった。

初めは一部の好事家から広まったこの写真はあっという間に海も空を超えて広まって、欧州のロックバンドがアルバムジャケットに用いて問題になったのだそうだ。

そんな生き方もあるのだなあ、と私は天を仰ぎ見た。
あの日みたいに真っ青で、どこまで飛んでいけるような高い空が今日も私を見下ろしている。

私はハサミをチョキンと合わせ、その赤い花を切り落とす。

それはクルクル回るドレスのように華やかで、唇みたいに紅く優雅に花開いている。


たった一輪のハイビスカスだった。




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