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葉山の美術館で待ち合わせを

今は亡き母方の祖母から貰った葉書が出てきた。

祖母は、とても流麗で素敵な女性だ。

祖父について暫く英国に住んでいたこともあり(そして私の母は英国で生を受けた)、どこかしら西洋風を好み、慎ましくも丁寧で細やかな刺繍のような生活を好む人である。

私は、丘の上に立つ祖母の家によく一人で訪ねて行った。

2階建ての60年家屋は、いつ行っても祖父の書斎から本の香りがして、2階に上がると丘の上を流れる心地良い風が窓から流れ込んできた。丘の斜面に面した方には小さな庭があって、藤棚が季節になるとそれはそれは綺麗なのだった。

小さい頃は祖母が駅まで出てきて、ケーキだの服だのを買ってくれたが、最近では私が駅で祖母の好きな洋菓子と、少しつまめる簡単なお昼を手提げに、丘を登って祖母を訪ねたのであった。夜は一緒に料理をして、そのまま私は書斎に泊まって、朝は焼き立てのトーストと英国の紅茶の香りに包まれて過ごした。

祖母と私は、珍しく母を介さずにそうやって二人で過ごした時間も多く、私の中で祖母の家はいつしか、帰るところになっていた。喧騒に疲れたり、考え込むことが多くなったり、そんなとき、祖母の家を訪ねて彼女と過ごすと、何を言うでもないが、自然と心が解れたきぶんになるのだった。

葉書は、私が大学の合宿で美術館に寄ったときに書いた絵葉書の返事だったようで、日本美術を好む彼女が、細やかでたおやかな字で、私の手紙への歓びを綴ってくれていた。

いつかよい展示のある時に葉山の近代美術館か目黒の庭園美術館に一緒に行きましょう。葉山は海のかなたに富士山が見え、レストランも気持ちのよいところです。

私と祖母は、こうした約束をいくつもしていたけれど、結局叶えることができたものが少なかった。

祖母は年々足が悪くなっていて、身体も弱くなっていたから、私が大学生になった頃にはもう遠出は難しかった。でも私はその代わり、たくさんたくさん家に訪ねては、尽きない話を彼女として過ごした。会えないときは、また何でもないことで文を交わしあった。


私の留学中に祖母は入院した。

一度様態が良くなくなったということで母から連絡があったけれどそれから半年、私が一時帰国したときには、祖母は医療機関つきの専用施設にいて、寝たままでたくさんまた話した。桜の季節がもうすぐ来ようとしていて、彼女はとても外に出たそうにしていた。まだ風が冷たくて、とても一緒に外に出ることはできなかったけど、そのときも彼女は

東慶寺っていうお寺がね、とっても桜が綺麗なのよ。また行きたいねぇ

と話していたから、私は絶対行こう、とても楽しみにしてると言ってその寺の名前と祖母の語る風景を脳裏に焼き付けた。その入院中も、たくさんの約束をして、私もそれを心から信じていたのだけど、彼女はどこまでそれをできることだと思っていたのか、今になるとわからない。

私がベトナムに戻って二日後に、彼女の訃報を聞いた。

それからは暫く、失われたものの哀しみに昏れて過ごしたけれど、今思えば本当に祖母は、それでふっと息を引き取ったのだと思う。

彼女がいなくなって、私は本当に空虚を抱えるように生活した。私にとって家族の誰かを失うことははじめてではなかったが、ここまでに感情を入れ込み、他の誰も知らないことを分かち合った人をなくすのは初めてだった。彼女と私の秘密は、ぽつんと私の中だけに残ることになった。

その後、旧くなったあの家が取り壊されることになった。私は本当にああ、帰る場所が一つなくなったのだと感じて胸が痛んだ。彼女の感覚は、私の中にまだまだ鮮明に残っていたから。

それから3年が経つけれど、未だに一枚の、文字だけの葉書が、彼女の人となり、ことば、佇まいすべてを思い出させて、本当に彼女が私にとって特別で、かけがえない存在で、そしてもう会うことができないことを知る。彼女を思い出すと、どうにも気持ちが整理しきれなくなって、こうしてまた文章に落とすことになる。

約束していた葉山の美術館に、風の心地良い日にいつか出向こうと思う。他のいくつもの約束の場所にも。彼女の見ていた風景を、私もこの眼で、この自身の足で辿りたい。たとえ一緒に隣を歩くことが叶わないとしても。

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