肝要でもなく、いそぎでもないいろいろなこと

不要不急。

そのラベルをつけられることで、今までの生活のどれだけのことが色味を失い、忘れかけられているのだろう。


仕事帰りの、重いカバンをおろして飲む居酒屋の生ビールの味や店の大将の笑い声、

行きつけの喫茶店のカレーとタバコの匂い、

授業前の教室で黒板に落書きしてふざけまくったこと、

鼓動が高鳴る演奏を前に、じんと全身にしみるライブハウスの熱気、

週末恋人の駅にかけていき、手を握って歩くこと。

ただ、友人とランチに出かけ一つの卓で語り合うことさえも。

全部、実は不要不急だった。

僕たちは、そんなものがなくても生きていられるのだ。

なくたって血は巡るし、言葉は話せるし、体を動かせる。

会社に行かなくても良かった仕事もある。会いに行く必要のなかった面談も。


そして、

忘れかける。友達の本当の声を。距離感や緊張感を。触れ合える距離にいるぬくもりを。

なくても生活できる。なくても、そのまま毎日は過ぎていく。


でも、

やがて心が渇望し始める。

心の中にあるふれあいや温もりの記憶を。なんでもない、Zoomをセッティングするまでもない、くだらない、何も話さなくても暖かさの通じる不思議な空間を。タイムラグのない、通じ合いを。手を伸ばせば触れられる距離を。

不要不急と思われる多くのことで、僕たちの生活は回っていた。皆、必要不可欠な営みと、"不要不急"の営みを織り交ぜることで社会はできていたのだ。

それはまるで台所に並んだオリーブオイルや味噌やガラムマサラのように、僕たちの生活に存在感を持つもののはずだったんだ。塩さえあれば、必要な塩分は取れるのかもしれない。パルスイートで甘みを感じることはできるかもしれない。でも、僕たちの人生には、はっきりした味と感触を持った何かが、やっぱりあってほしいのだ。

不要不急だと言われたものが、本当になくても良かったものと、実はあってほしいものと、いろいろと混ざっていて、実はどこかでそれを渇望しているし、それがなけりゃ人間の営みの大半はなんだろう。

僕たちはそれを求めている。

さぁ、世界が普通に戻るとき、それはどのように新たな彩りを帯び、どんな血が流れ、どんな味わいを見せてくれるだろうか。

今は熟成のときと思うしかないだろうか。



※再会したときは、きっと電撃が走るようにすごいよね、と友達とメッセンジャーで話したら、語彙力なさすぎと言われて悔しかったので長文にしてみた。

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