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近しくない人の訃報に泣いた日、生の鼓動と

坂本龍一氏の訃報を聞いた4月2日。その場で身体の力が抜けていくような気持ちになり、その後しばらくひとり部屋でさめざめと泣いた。

坂本氏の根強いファンの人には面子が立たないが、私は俄もいいところの俄ファンである。教授と呼ぶのも気が引けるくらい俄である。彼のLast liveについてたまたま目にしたときに、何を思ったか、なんとなく名前を聞いたことある人だから聴いてみよう、と思ってチケットを買った。それから彼の晩年の発言や活動をそっと見ていた。戦場のメリークリスマスが彼の曲であることすら知らなかった←

それでも、そんなに短い間でも、彼の死は私に重く訪れた。今まで、有名人の死に本気で涙したことがなかった。だが彼の死は一晩泣くだけでおさまらず、それからもいろいろな死と生の実感を私に落としていくこととなる。

もしかしたら、晩年、病に侵されながらも生きる彼の姿を見ていたからこそ、彼の鼓動がまだ打っていることを知っていたからこそ、命がふっと消え失せたことに対して受け止めきれないのかもしれなかった。

そして、それからというものの、何を見るにつけても、逆に「生」を強く感じるようになってきた。好きなアーティストの新曲リリースを見て、あぁこの人は生きている、と思い、知り合いの突然の結婚報告にも、生きてるってこういうことだなぁ、と考え。皮肉なもので、一人の死が、周りの生を浮き彫りにする。他人の死を認識できるのは、自分が生きていてこそなのである。それがいいこと悪いことというのは敢えて論じないにせよ、私達にはまだ、この手に生というものが「ある」のだと感じられるのだ。

あの日から、彼のアルバムを聴きあさった。最新の12のみならず、定番BTTB、04、05…音楽に長けた友人と語らい、私は彼の生きている音を探りに行っている。まだまだ到底彼の深みには辿り着けない。よっぽど、生前にもっと聴けばよかったのに、と思う。

しかし録音は不思議なものだ。もうその生が喪われてしまったとしても、録音に封じ込められた瞬間は紛れもない生の瞬間の記録だ。彼の生きている音が感じられる。音楽とは、その人の中に鼓動というリズムが刻んでいるからこそ、躍動感を持って生まれてくる、と感じられた。コンピュータに彼の曲を弾かせても、きっとあの音色は出てこない。

芸術は長く、人生は短し。彼は多くの生きる音楽をのこしてくれた。それこそ生の証だ。

話はずれるが、最近、よくいろいろな方の訃報を聞くものだ、と思っていたけれど、それは自分が年をとったからで、若かりし頃から長く知っている人だからこそ、その人が亡くなってしまったことが認識できるのだなと思う。つまり、私の短い人生も、一歩ずつ死の世界に近づいているのだ。そう、あまりにも短い人生。でも今私は生きている。生を享受している。それを受け止めて、過ごさなければいけない。

坂本龍一さん、生前のあなたに出会えて良かった。あなたの音楽をこれからも聴いて生きていきます。どうか今は、安らかにお休みください。Rest In Peace.


Photo by Ebuen Clemente Jr, on Unsplash

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