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後にも先にも本田宗一郎をぶん殴ったのは俺だけだ

十数年前の話になる。隣町のバイク屋の恐い先輩から電話があった。

今からさ、亜久里パパがそっちへ行くからさ、セロ―(ヤマハXT225)のサービスマニュアル貸してやってくれる?

え?怖いから無理っすよ。

あはは、いきなり殴ったりしないから大丈夫だよ。じゃ、よろしくね。

亜久里パパ。我々の間では鈴木正士さんのことをそう呼んでいた。

鈴木正士 ジャッキー
日本人初のF1表彰台を成し遂げ、引退後にF1チームを運営した鈴木亜久里氏の父。母が日本人、父がフランス人の日仏ハーフである。フランス人といってもカリブ海のフランス領マルティニーク出身で、亜久里パパは南の島の海の男のイメージが強かった。
神戸生まれ、愛媛県新居浜市、千葉県市川市で育ち、日本大学芸術学部時代に、浮谷東次郎、生沢徹、本田博俊らと親交を深め、日本のモータースポーツの黎明期を飾った。親分肌の激しい気性で知られる。

海焼けした白い軽トラックで僕の店に現れた亜久里パパは、年老いてはいたが浅黒い肌に鋭い眼光の、厳しい海を生き抜いてきた海の男のような
・・・・・そう『老人と海』の言葉を借りるなら、目は喜びと不屈の光を放っていた。

前述したセロ―のサービスマニュアルを貸してくれ。必ず返すから。セロ―のエンジンで、地元の若い衆らと鈴鹿のミニバイク4時間耐久レースに出るんだ、と。
*セロ― ヤマハXT225 
225㏄だがベースは125㏄なのでストロークダウンして125にして4耐の125㏄の車両規則に合わせようとしたのではないか。記憶は曖昧である。


その一年ぐらい前だろうか、僕の店に信販会社の担当営業が現れた。今から「鈴木亜久里の父」を名乗る者のところへ、加盟店契約の依頼があって行くのですが、どう思います?本当の話なんでしょうか?何かご存知ですか?と。

噂では聞いていた。隣街の先の半島に鈴木亜久里の父が移住してきてマリンジェットの店をやっているらしいと。その旨を担当営業に伝えて、本物ですよと。

でも亜久里パパはなんで縁もゆかりも無さそうな、愛知県のクソ田舎の半島になんで移住してきたのだろう?

僕の耳に届いていたのは亜久里パパの喧嘩の腕っぷしの強さ。
移住してきたやんちゃな老人はすぐに田舎町の話題になった。飲み屋でも大きな声で与太話を・・・いや本当の話だが田舎もんには刺激が強すぎる。

おいじじい!出鱈目言って調子こいてんじゃねえ!

このエピソードの顛末は自粛する。まあ、亜久里パパは映画の中の高倉健のようだった、とでも言っておこう。鈴木亜久里氏がカートのプロドライバーだったころ(亜久里は高校生ですでにヤマハの契約選手だった)、亜久里パパはカート界でちょっとした事件を起こした。僕の師匠(故人)の兄貴はカート界の大御所(故人)で、まあその人もまあまあヤクザもんで毎晩のように飲み屋で暴れていたのだけど。昭和の愛すべき屑たちである。

喧嘩なら負けない。売られた喧嘩は倍返し。


その後、亜久里パパは2サイクルピストンの潤滑性を上げるための穴加工の話をした。六角ナットのワイヤーロック穴もリューターで掘るらしい。

なるほど、先人の知恵と工夫であるな。僕はピストンのある表面処理の話をした。一般的に言われているようなピストンの溶け落ち防止だけでなく、潤滑向上や、表面処理の膜厚を利用したクリアランス調整もできるんですよ、と。

おまえなかなかやるじゃないか。

亜久里パパはそんな顔をして満足したように帰っていった。

そのころ僕はバイクの全日本選手権に携わっていた。ヤマハ系でマシン製作やレース活動していて、亜久里パパにホンダのあいつがムカつくとか話をしていた。


その後ある日のこと、隣り街の怖い先輩のバイク屋へ行った。

そこへ亜久里パパが現れた。例の日焼けしてつや消しの白になった軽トラで。

おい!〇〇(怖い先輩の名前)!なんちゃらかんちゃら…

と、はるか向こうへ届きそうな大きな声で喋りだした。

おまえ見た顔だな!あん?と僕に気がついた。

おう!おまえら飯食いに行くぞ!

怖い先輩とその上のさらに怖い亜久里パパである。仕事中だとか平日だとかエクスキューズは許されない。

クルマを飛ばして(怖い先輩の安全運転で)、田舎街唯一のイタ飯へ行った。ピッツァと赤ワインを。亜久里パパは胃癌で腹を切ったばかりと聞いていたのに、ええんかい?と思ったが、本人がいいと言えばいいのである。 

おい!ホンダのあいつは大したやつじゃないぞ!ひねりつぶしてやろうか!

いやいやいやいや、大丈夫です。自力でなんとかします。ありがとうございます。

そうか!まあ飲め!

赤ワインお代わり

このあとの話。これが書きたくてこの話を始めたのだが…そろそろ時効かなと……でも存命の御大に関わる話はやばいかな

おそらく公然となっているレベルで

その頃俺はな、ふらふらしとって、博敏が親父(本田宗一郎)に頼んでやるからしばらくうちで働けと言ったんだよ。桶川のホンダ航空でな。そんで博敏の家に居候してたんだよ。

でな、本田宗一郎というのがだな、とんでもない男で女遊びがひどくてな。その日もな、博敏のおかんがそれで泣いて出て行ったんだよ。そしたら宗一郎が、おまえらおかんを連れて帰ってこい!とか、言いやがるんだよ。それで俺はアタマにきて、宗一郎をぶっ飛ばしたんだよ!あとにも先にも本田宗一郎をぶっ飛ばしたのは俺だけだ!


でな……亜久里がフォーミュラに上がるときにな、所沢の家を売って金作って、箱根を越えて鈴鹿まで中古のフォーミュラマシンを買いに行ったんだよ。そしたっけ、それがとんでもない喰わせもんでな、アタマにきてそいつんとこ行ってぶっ飛ばしてきてやった!


話はあちこちに脱線するが、基本的に気に入らないやつをぶっ飛ばした話と本田博俊氏の話が多い。亜久里パパにとって本田博俊氏は弟分のような存在で大好きなのが話の節々で伝わってきた。

亜久里パパは東京の有名大学病院で胃がんの手術をした。ちなみに亜久里の手配したその東京の大学病院の最上階のVIP病棟では、有名芸能人やら、反社の大親分やらが入院していて、反社の手下がものものしく見張っていたという。大学病院を出た後は、亜久里パパのマリンショップのある地元の病院で療養していた。そのころ本田博俊氏が病院に見舞いにきたという。

いいか博俊。おまえの自慢の高い車で来るんじゃないぞ!騒ぎになるからな!ひとりで電車で来い!と言ったらな、あいつは本当に電車ではるばるやって来て、病院のATMで現金下して「ほれ、見舞いだ」とかいって札束を置いていきやがった。


そして亜久里パパが愛して止まなかった浮谷東次郎の話になる。


浮谷東次郎
15歳のバイク旅行記『がむしゃら1500キロ』やその後のアメリカ旅行記で多くの者の心を掴んだ。天賦の才能と瞬く間に人を虜にする人柄で、プロのレーシングドライバーとなった。だがつかの間の輝く光であった。鈴鹿でのテスト走行中にレーシングコースへの侵入者を避けてコースオフ。水銀灯に激突して事故死した。享年23歳。

浮谷東次郎の棺に火を点けたのは俺だ!そのころ俺は浮谷の姉貴とつきあっとってな。事故死した浮谷を鈴鹿から東京までみんなで連れて帰ったんだ。その時の姉貴の落ち込みようといったらな・・・・・


亜久里パパ、浮谷東次郎、生沢徹、本田博俊らは大学やらバイクのつながりで意気投合し、街を走り、どんちゃん騒ぎをし、未来の議論する熱い仲間だったという。その後船橋サーキットや鈴鹿サーキットへと活動の場は広がり林みのるも加わってくる。日本のモータースポーツの黎明期を牽引した若者たちだ。


60年代から70年代のモータースポーツ黎明期は華々しくも残酷で、生贄のように若い才能を次々と失っていった。特に鈴鹿、富士、ヤマハのテストコースは世界に誇るハイスピードコースであったが、まだまだ安全対策が未熟であった。マシンもエンジンの馬力に車体やタイヤの性能が全く追いついていなかった。ナイジェル・マンセルの言葉を借りるなら、マシンはいつでもドライバーを殺そうとしていたのである。


最後になぜ亜久里パパが、縁もゆかりもない愛知県のクソ田舎に移住してきたのかをお話しようと思う。

亜久里パパのマリンショップがあったのは、田原市宇津江という三河湾に面する渥美半島の小さな港町。車で国道を走っていると、マッチを擦っている間に通り過ぎてしまうぐらいの小さな港町だ。

亜久里パパは何かの折りで、愛知県の三河湾に面する幡豆温泉を訪れて宿泊したという。夜に真っ暗な三河湾の眺めると、対岸の渥美半島に僅かばかりの火が灯っているのが見えたという。

その景色は物心ついたころに見た四国の情景にとても似ていた。シンパシーを感じその地に骨を埋めようと決意して、余生を過ごすことにしたという。

旅の終着点である。

亜久里パパの訃報からしばらくたったある日のこと。怖い先輩がセロ―のサービスマニュアルを返しに来た。亜久里パパに貸していたマニュアル。

おい○○、あいつにこれを絶対返しておけ。

亜久里パパは生前そう言っていたという。
それが僕にとっての亜久里パパの遺訓となった。

敬称略
なにしろ口承の古い話で、事実に反する内容もあるかもしれません。またコンプライアンス上の配慮不足もあるかもしれません。ある程度は大目にみていただけると幸いです。

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