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ぶーちゃんの突撃 第3話



第3話
ところで、はじめて村上春樹さんの著書を読んだのはたしか19かハタチのころ。

『中国行きのスロウ・ボート』かデビュー作の『風の歌を聴け』のどちらか、というより両作をほぼ同時に読んだのだと思う。
どちらも友人が薦めてくれて、『中国行きのスロウ・ボート』での、初デートをした中国人留学生の女の子を送るときに誤って反対回りの山手線に乗せてしまった話や、『風の歌を聴け』での有名な書き出しの言葉の力強さがとても印象的だった。

物語はこう始まる

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

『中国行きのスロウ・ボート』も秀逸なストーリーで見事にはまった。
80年代に僕は御茶ノ水にある大学に通っていて、主人公と似た歳で同じように不恰好な毎日を過ごしていたのもあり、その同胞のような親近感や、身近な外国人から彼の国に思いを馳せるストーリーの広がりに引き込まれた。
反対回りの山手線に初デートの中国人留学生の女の子を乗せてしまうという「誤謬(ごびゅう)」に気がついた主人公の僕は、正しい方向の山手線に乗り目的地の駅に先回りして待つことにした。
彼女に謝るために。

まずは「誤謬」という言葉の使い方にしびれた。
論理学における誤謬(ごびゅう、英: logical fallacy)は、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。つまり、間違っていること。論証において、誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある。

この物語での主人公の誤謬は形式的でも非形式的でもなく精神的なものであった。短編集『中国行きのスロウ・ボウト』の中に『螢』という短編があり、これはベストセラーになった『ノルウェーの森』の骨子となっている。

『螢』
自殺した友人のガールフレンドとの再会から始まる愛情と苦悩。友人の死によって彼女は深い闇の中を彷徨っている。やはり救済することはできなかった。そして闇に放った螢のように闇を舞って消えていった。手の先にいつまでも残っていた螢の感触は彼女の温もりにも似ていた。

仮説ではあるが、この『螢』での主人公の僕は『中国行きのスロウ・ボウト』での僕と同一であろう。

僕は自殺した友人の彼女を救済できなかったことで、何をしていても彼女と彼女の心の中にいる友人が深い霧のように心を重苦しくしている。
中央線の電車の中で偶然出会った痩せ細った彼女。四ッ谷駅から飯田橋、神保町、御茶ノ水、駒込へ果てしなく歩いた道のり。蕎麦屋で夕飯。自分のことがうまく話せない彼女。また会いたいと僕は言った。

だが、僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしを持ってしてもその深さを測り切ることはできない、と『風の歌を聴け』で言っていとおり、僕と彼女の心の間にも深い淵が横たわっていたのだ。

それらが『中国行きのスロウ・ボート』での精神的要因の「誤謬」へと繋がったのだ。

村上春樹さんの作品というのは、深い井戸や坑道を下りていくような特徴があり、また全く別の作品でもどこか横穴で繋がっているようなところもある。

しかもそれは『風の歌を聴け』での「火星の井戸」というエピソードで暗示されいた。

『1Q84』で首都高3号線の非常階段から地上に降りる物語の始まりはまさに横穴のメタファーでもある。

そしてまさに1984は僕自身が不恰好で不安定で無益ともいえる時代を過ごしていた頃である。

ぶーちゃんやKちゃんたちもその不格好な時代にいたのである。
女性の肌の温もりを知ったのも実はKちゃんであり、Kちゃんも『ノルウェーの森』の直子つまり『螢』の主人公の僕の自殺した友人の彼女のように、ロスに苦しんでいた。

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