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霊想  中庸を超える

  
パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。     「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」       (使徒言行録26:24)

 中庸の徳と言われるものがある。対立するものの中間にあって、調和するもの。偏ることなく調和がとれていること。バランスがとれていることである。
 信仰の世界においては、中庸が勧められているわけではない。イエス・キリストは、「あなたは・・・熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙示録3:16)と語った。ここでは、中庸ではなく、偏ることが求められているのだ。
 イエス・キリストご自身も身内(家族)から「気が変になった」(マルコ3:21)と取り押さえられそうになった。口語訳聖書は「気が狂ったと思ったからである」。
 パウロの書簡においても、「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。」(口語訳 Ⅱコリント5・13)とある。
 信仰の世界は、水と火(聖霊)によって新しく生まれ変わる霊の世界でもある。神の国の領域の次元なのだ。
 パウロは、ローマの総督であるフェストゥスとユダヤ王のアグリッパを前にキリストの証人として十字架と復活を語る。会心の説教だっただろう。フェストゥスはパウロを遮り、叫ぶ。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」(使徒言行録26:24以下)
 パウロは冷静に返す。「わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです」 「わたしは狂ってはいません。真理と良識のことばを話しているのです」(このところは私訳)
 信仰においては、聖霊に満たされた祈りは、時に未信者からは狂気の独り言のように判断されることがある。あまりに熱心な信仰は、家族の迫害ともなるだろう。(マルコ10:29,30)
 さて、以上の霊想を前提にしても、筆者は、信仰生涯においては行きつくところは中庸であるとも考える。それは愛ということで結論できるだろう。 Ⅰコリント13章。そこでは、成熟したキリストの生き方と方向性があるのだ。信仰、希望、愛。これは中庸でありつつ、中庸を超えた最高の徳でもある。

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