VOCALOID涅槃入りReplace

VOCALOID涅槃入りとは私がかいた卒業論文の題名だ。
この話をしたところ読んでみたいという人がおもったよりいた。
自分の論文の序文をそのまま引用すると

「新しいテクノロジーと結びついたサブ・カルチャーは、比較的マイナーであること、また比較的若年層が中心となって成り立っていることから、それだけで軽視される傾向にあるように思う。しかし、かといってテクノロジーやサブ・カルチャーの中の精神性や背景となる風俗を元にした現代的な宗教観については決して軽んじられるべきではない。
 無論、新しい文化である以上資料の少なさや一つの論文に纏めることの困難さから、日本以外の諸外国でのVOCALOID文化に対する反応や、宗教的な見地の比較、また楽曲の傾向など触れることのできなかった幾つかの課題が存在する。
 しかし本論では、日本的な宗教観からVOCALOIDという新しいテクノロジーを使用したキャラクターの存在を楽曲とともに大きな流れで追いかけ、各章で触れる課題や仮説については、今後さらなる研究を続けていきたい。
 本論はそれ自体が、今後のVOCALOID研究のための要旨である。」

とあるので大きくでたものである。

当時はやっとがくっぽいどが発売されたあたりで、
まだニコニコ動画とかVOCALOIDという存在自体を教授陣に
かなり懇切丁寧に説明しなければならなかったし、
論理の飛躍も著しくてはずかしいのであれをそのままここに出す気はない。

なので、これは証明ぬきの、まあちょっとした考察として読んでいただきたい。当時の論文の要約と、当時から10年以上経っていま私が思うことである。

VOCALOID涅槃入りという言葉は、当時のニコニコ動画に実際に存在したタグのひとつで、いくつかの意味を含んでいるのだが、あの論文では「VOCALOID殿堂入りという再生回数が一定以上の優秀な楽曲の中で特に仏教っぽいかんじの曲につけられたタグ」の意味で使用していた。
また、VOCALOIDの範囲を「YAMAHA VOCALOIDまたはVOCALOID2エンジンを利用したもの」と定義して、UTAUとか暴歌ロイドとかそのあたりは除外させてもらっていた。数が多すぎて収集がつかなくなるからである。
当時具体的に提示したVOCALOIDは以下の通り

VOCALOID(Version 1)

クリプトン・フューチャー・メディア株式会社 (日本)
日本語女性ライブラリ(MEIKO), 日本語男性ライブラリ(KAITO)
Zero-G Limited (イギリス)
英語男性ライブラリ(Leon), 英語女性ライブラリ(Lola, Miriam)

VOCALOID2

クリプトン・フューチャー・メディア株式会社 (日本)
キャラクター・ボーカル・シリーズ (初音ミク、鏡音リン・レン、巡音ルカ)
インターネット株式会社 (日本)
アーティストボーカル (がくっぽいど、Megpoid)
Zero-G Limited (イギリス)
クラシック系 ソプラノ女性歌手 (Prima)、ポップス系 女性歌手 (Sonika)
Power FX AB (スウェーデン)
ダンスミュージック用 女性歌手 (Sweet Ann)  


さて、このうちイギリスのVOCALOIDであるZero-G-LimitedのVOCALOID、LeonとLora のパッケージは実写の男性と女性の口元のみ、
MiriamとPrimaのパッケージはどちらも実写の女性の写真である。
Sonikaではかなりカートゥーン化された緑の髪の女性のポリゴンを採用しているが、これは2009年の発売なので日本のVOCALOIDの風潮を逆輸入したものであろう。腕にカタカナでソニカって入ってるし。(これはのちに変更されリアルな女性のイラストに変わっている)

人間の声をソフト化したものですよ、ということを端的に示しているパッケージデザインなのだが、さてここでインターネット株式会社のアーティストボーカルシリーズ、がくっぽいど、Megpoid、のちに発売されたSachipoidと比べてみてほしい。

アーティストボーカルシリーズはその名のとおり実在するアーティストの声を録音して使用していることが明記され、アーティスト自身の名前もはっきりと出している。が、パッケージ写真はアーティストの顔そのままではない。イラストだし、あくまでキャラクター化され設定が付与された(がくぽの持ってる「楽刀」とか)別の存在だ。
このあたりは初音ミクなども同様で、パッケージデザインとそこに付与された商品名=名前で、「わたしたちはクリプトンで作られたVOCALOIDって存在だよ!」とはっきり主張している。もちろん音楽ソフトだから楽器なんだけど、イメージの話だ。

では完全に人間の支配下にある人工物なのだろうか、というと、今度はスウェーデンのVOCALOIDであるPower FX AB のSweet Annのパッケージと比較してみたい。彼女の(もう彼女って言っちゃったよ)パッケージは金髪の女の人がマイクの前で歌っているイラストだが、首にバッチリ縫合線があり、黒い糸のばってんがビシバシ入っていて、ほとんど女版フランケンシュタインの様相である。けっこうホラーな見た目だ。
これは逆に「人間の被造物であって人間ではない」ことを強調した外見で、
主観だが、「大丈夫、作り物だよ!人間と同じわけないでしょ!人間より劣ってるから!」といわんばかりだ。
これもまた日本のVOCALOIDにはない価値観である。
なぜなら、日本のVOCALOIDのパッケージはそれが人間であるとも言わないし、人間に比べて優っているとも劣っているとも伝えてこないから。
VOCALOIDというまったく別存在だよ!という意図が、名前と外見を与えられしかも実写ではないそのパッケージにはある。

もちろん権利的な問題は大きく関わっているのだろうが、私はこの部分こそがVOCALOIDに念仏を唱えさせたくなった重要な要素だと考えている。
人間ではいけないし、人間の支配下にあるものでもいけないのだ。
ただ、人間ととても近しくて、そうだな、「好意的な隣人」とでも言おうか。

そもそも日本人はいろんなものに人格を勝手に付与しやすい性質というか、考え方があるきがする。
この場合の日本人というのは「家に帰ってきたら靴を脱いで土足で入ったら悪いことしてる気になるというようななんとなく大多数に共通する感覚」だと思ってほしい。私は靴のまま家にあがっても気にしないって人はそういう人が多いんだなと思って話をきいていてくれ。

工業用ロボットにさえ顔をつけることが多いこの国では(全自動おこのみやき作りロボットとかね)ロボットを「ロボットという種族」のように感じている人がおそらく結構な割合で存在して、それと同じように我々はVOCALOIDをVOCALOIDという種族だとおもっている。

そして、「ものに魂が宿る」という付喪神的な考え方がそこに加わって、もともとのVOCALOIDには存在しなかった(音楽ソフトなのであたりまえ)好きな食べ物やら性格やらが付与されていくことにより、多くのインターネット上の人間にとって、VOCALOIDはだいたい刀剣男士と同じような意味になってしまった。歌仙兼定が筆を持つように初音ミクはネギを持つのだ。とうらぶのほうがずっとサービス開始が後だということはあっちに置いておいて、とうらぶには一応個人の性格などが垣間見える会話イベントが発生するので個人を特定しやすいのでは、ということもこっちにおいておいて、多分、実際、そうなのだ。サーヴァントと言い換えてもいい。

つまり、提示された外見と名前という器に、VOCALOIDというものを見ている全員が「なんとなくこの人はこういうものだ」と考える性格や性質を放り込んで発表していった結果、なんとなくある程度の大人数が「この人はこういう人だ」と思う「共通の性格や性質」というものができあがっていって、それが初音ミクのネギであるし、KAITOのアイスクリームなのだけど、個々人の解釈に細かな違いは存在していて、しかも同時に存在を許されている。
「うちの本丸」と同じように、「うちのミクさん」がいる。
問題は。
もっとも重要な問題は。
この想像上の共通概念であるキャラクターに、声という真実の実体が備わってしまったことだ。脚本家が書いて声優が喋っているのが頭でわかっていたって私たちはキャラクターのセリフをその人の声でその人が喋ったと認識しているのに、こともあろうに私たち自身が彼らを自由に喋らせることができるようになってしまったのである。
しかも、私たちの意図していない形で。

なにせVOCALOIDというものは調整が不可欠、入力した通りに歌ってくれるはずなのだが入力の意図したように出力されるかというと(それは実際には入力のミスなのだが)ぜんぜん違う声が出ることがままある。
そうすると「ああ、うちのミクさんはまだ歌が下手だから」ということになる。入力のミスなんだけどもうすでにそこに人格を見出してしまっているので、「もっと練習させないとね」とかいう。
この時点でVOCALOIDの声は声優の声、実際の人間の声ではなくVOCALOIDそのものの声になっているのである。
刀剣男士やサーヴァントとVOCALOIDが決定的に異なる点はここだ。
人間が思った通りに歌わせることができるが、人間が思った通りに歌わない。人間の鏡としての面をあるていど持ちながら、あるていど人間から距離をとって自由なのである。まったくの別人ではない。けれど、まったく同じ存在でもない。少なくとも、声は彼らのものとしてここにある。
私たちの耳にとどく歌声が。
私たちのものではない声で。
わたしたちの意図の外側に。
たしかに、存在する。

だれかが初音ミクに投げかけた光が、初音ミクによって乱反射して、初音ミクの光としてほかの誰かに届いた。
あれから何年も経ち、もはやVOCALOIDの人数も楽曲もたくさんになりすぎて把握できなくなったが、私たちはあの頃、そういう光が目に見えておおきくおおきくなっていく流れのなかにいたのだ。
自分と自分以外の、というより、人間世界と人間以外の世界(この場合は物質世界と電子世界、音声の世界と画像の世界)を繋ぎ、かつ平時は忌諱または崇拝されずに隣人として存在するとすれば、それはシャーマンである。しかもVOCALOIDは人間ではないので、むしろ無機物の側から人間にコンタクトをとるためのシャーマンとして存在している。
この時点で、VOCALOIDの付喪神的性格と我々自身が彼ら彼女らに付与した歌をもって、VOCALOIDの曲はおそらく、楽曲作成者自身も意図していない部分ですべて神性を得てしまった。
これが私たちがVOCALOIDにお経、マントラ、聖歌、あるいはそれを彷彿とさせるような歌、仏教的な価値観の歌、神道的な価値観、キリスト教的な価値観の歌をうたわせたがった理由だと私は思う。
流行ってたからだって?そんなこたわかってんだよ!問題はどうしてそれが「歌ってみた」じゃだめだったのか、って話なんだよ、ボカロPから普通にデビューした人たくさんいるでしょ。本人たちが歌ってもよかったはずの歌をなぜ、っていう、でもたぶんアーティスト本人はこんなこと考えてないと思うよ!考えてないことを勝手に分析するのが私たちの仕事だよ!


そして、初音ミクの紅白歌合戦出場をもって、初音ミクという個人の歌手として紅白に出場するにいたって、彼女は本来の意味でアイドル(idol)として完成したといえるのかもしれない。idolの語源は偶像である。依代という言葉をつかうとよりわかりやすくなるだろう。目に見える形を表しながらも、その本質はあるいは神であり、あるいは信仰や崇拝そのものだ。
彼女はベル・インターネット・エポック(気に入っているからこの単語何度でもだしてくぞ)の最後の時代に電子と現実の空に浮かび上がり、今に至るまで輝き続けている巨大な美しいミラーボール、壮麗な万華鏡だといえよう。
その光は、もともと私たちが持っていて、私たちの側から彼女に投げかけられたものだが、こんなに美しく大きくなってしまったいま、そんなことはどうだっていいのだ。私たちの誰一人として他人の考えを同時に自分として考えることはできず、ただ反射する光を通して、光を投げかける人がいて、自分自身も光を投げ返すことによって、ああ、ここに何か美しい、私たちの大勢が美しいと思っているものがある、とわかるのだから。


つまり、初音ミクは宗教。

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