ピーターラビットの映画を観ていない私が語るウサギと手痛いしっぺ返しに喝采する楽しみのこと

ピーターラビットの映画の話がtwitterのタイムラインにたくさん流れてくる。多くの呟きは、ウサギと人間の繰り広げる殺伐爽快戦争(爆発つき!)がとてもたのしいということ。
私はまだその映画を見ていないのだけれど、どうも話を聞いていると、私の知っている「ピーターラビットのおはなし」というよりは「ウサギどんキツネどん」の方により近いような気がしてくる。
ウサギどんキツネどんって、みんなは知っているかな。ディズニーが映画にしたので、知っている人もいるかしら(註1)。スプラッシュマウンテンのところにいる「ブレア・ラビット(Br'er Rabbit)」彼がウサギどんです。
でも今は原作の話をしよう。

「ピーターラビットの絵本」の作者はビアトリクス・ポター。
「ウサギどんキツネどん」の作者はJ.C.ハリス。
ハリスは1848年生まれのアメリカの人で、ポターは1866年のイギリスの人。20歳ばかり年の離れた2人だけども、ハリスの「ウサギどんキツネどん」の話は1880年(註2)に発売され、その後イギリスでも出版されたそうだから、もしかしたらポターはこの話を読んでいたんじゃないだろうか。(註3)(ピーターラビットのお話の現本は1893年)

・ラビットとウサギ、はたしてその実体は

ポターの描いた「ピーターラビット」と、ハリスの描いた「ウサギどん」は、同じ「うさぎ」でありながらその立ち位置が大きく違う。それは、ハリスが黒人の物語を題材にしたことが大きいかもしれない。
両方とも悪戯ものには違いないけれど、ピーターの悪戯はあくまで、「いうことを聞かないで危ない目に遭う子供」のそれだ。
ピーターラビットのお話原作は、言う事をきかなかったわるい子ウサギピーターが、お父さんをパイにしてしまったマクレガーさんちの畑にしのびこんで、散々な目に遭う物語である。
不思議の国のアリスのなかで語られるように「やけどをしたり、野獣に喰われたり、そのほかさまざまいやなめにあった子供達はみんな、身近な人たちが教えてくれたなんでもないこと、たとえば真っ赤に焼けた火箸はすぐにはなさないとやけどをするだとか、ナイフで指を深く切ると、たいていは血が出るといったようなことを心に留めておかなかったから(註4)」それこそ(比喩抜きで)「死ぬ思い」をしながらほうほうのていで逃げ出し、おかあさんにおこられる。
ポターは学者さんであったし、動物に対する深い洞察があったので、この話も十二分に生き物のすんでいる厳しさとおかしさ、それにイギリス人らしい淡々とした皮肉っぽさと、いかにもヴィクトリア朝の子供向けの本らしい、いいこにしてなけりゃなりませんよ、という教訓話を盛り込んでつくりあげた。「きちんとした子供のためのきちんとした童話」だ。

一方「ウサギどんキツネどん」は、南部の黒人の間に伝わっている物語を、ハリスがきちんと編集して読み物としてまとめたもの。「くろんぼのリーマスじいや(原文の雰囲気を伝えるためにあえてこのままの表記にしておく)」の語るウサギどんの悪戯は、ポターのピーターより遥かに悪質だ。
ウサギどんの物語のなかに「勧善懲悪」の概念はない。
動物たちはお互いにやられてはやり返しの攻防を繰り広げるのだが、その中で一等際立ってひどいのが「ウサギどん」だ。
キツネどんを馬にして乗り回したあげく皆の見世物にしたり、クマどんを罠にはめてハチに刺されて腫れた顔が木のうろから抜けないようになったり(くまのプーさんはなんていう平和的な詰まり方をしたものだろう)、もうやりたい放題やるのである。
ウサギどんの悪巧みはなにも捕食者側の動物だけに向けられるものではない。親切なめうしのおばさんをぺてんにかけて乳をかすめとるわ、他人のバタをつまみ食いした罪をフクロネズミにおしつけて焼き殺すわ、悪巧みをし、ぺてんをしかけ、やられた奴が悪いとばかり敗者を散々に笑う。ウサギどんキツネどんの話をふと漏らした際、知り合いが「カチカチ山」と言ったが、カチカチ山に見られるような「正当な復讐」としての側面はこの物語にはない。永遠に続くかと思われた追いかけっこの物語の最後で、ウサギどんはとうとうキツネどんを叩き殺してしまうのである。

・弱い者と虐げられたもののためのヒーロー

両者のこのような違いは、ハリスの「ウサギどん」が黒人民話を編集したものであることが大きく関わってきているだろう。アメリカのイソップ物語とも呼ばれるリーマスじいやの物語は、アメリカ風の味付けがされていながら源流はやはりアフリカにある。イソップがそうであったようにじいやもまたかつて奴隷として連れてこられた背景がある(アメリカの黒人奴隷と古代ギリシャの奴隷では大きな差があるけれど、生殺与奪の権利を主に握られていることは変わりない)。食べられる側であるうさぎが食べる側であるきつねを翻弄する。賢くなければ生き残れないし、うまく立ち回れない奴はそれまでだ、という厳しいリアリズムがそこには隠されている。
丁度ロビン・フッドの話(途中で行き会ったという僧侶を何の理由もなく身ぐるみはいで殺害たりする話が山の様にでてくる)や、水滸伝の話(もはや語るのも面倒なほどの理不尽な暴力)のようなものだ。現代の倫理観に照らし合わせるとどうも納得できないような惨劇だけれど、物語のなかであえて語られてはいないが物語が産まれた時代の大前提としてキツネや、貴族や、僧侶や、白人や、汚職官吏は押さえつけ、むしり取り、打ちのめそうとしてくる絶対強者であり、弱い筈の立場の者が知恵を使って手痛いしっぺ返しを喰らわせる、その構図は拍手喝采される。
いけっ!そこだっ!やっちまえ!いい気味だ!
正当な攻撃って、とっても気持ちがいい。
そして罪悪感を持たなくてもいいサンドバッグは、かつて確かにここにあったのだ。世の中が民主主義になって、「叩き潰すべき絶対強者」が(少なくとも名目上は)いなくなった今、自分を弱者だと思うとき攻撃する相手が見当たらなくて、結局個人にその気持ちが向かってしまうのはとても痛ましいことではあるのだけれど。

・手に手をとって(画鋲をしのばせて)

ちなみに、ウサギどんキツネどんの話にもウサギどんが人間どんの畑に忍び込んで野菜をくすねようと思った話がでてくる。この話では罠にかかったウサギどんと、キツネどんとのやりとりが主軸になっているが、うさぎが畑の野菜を荒らすのはどこの国でもお定まりのことだ。

さて、話をピーターラビットの物語に戻そう。聞く所によると映画版ピーター・ラビットの一番の見所は、マクレガーさんの甥っ子とピーターたちの血で血を洗う攻防とのこと。自分のものでもないし自分が育てた訳でもない野菜を自分たちのものだと主張するピーターと(ウサギどんの血脈を感じませんこと?)、相続した野菜畑をウサギなんぞに荒らされるわけにはいかぬマクレガーさんの甥っ子。
このあたりとてもうまいなと思うのは、ポターが描いた「そこで生きている動物達」という構図と、ハリスの描いた「いけ!やっちまえ!」という興奮を両立させているところだ。ここには「虐げるものを虐げられるものが叩きのめす」といった雰囲気は余り感じない。どちらかというと「どっちも必死」という雰囲気がある。いや、観ていないので、詳しい話は解らないけど、利害の不一致とトムとジェリー式攻防によって「お互いがお互いをサンドバッグにする」という解決方法はある意味とても平等なものに思える。
相手を笑い者にしているだれかさんを笑い者にしている自分を笑う。
シェイクスピアも言うように、ものが大きくも小さくも見えるのは位置のせいとのこと。

・兄弟たち、お祈りしにいきましょう。川を下って。

このピーターと甥っ子、和解するのかしら。どうかしら。
首を傾げながら、ウサギどんキツネどんのなかのエピソードのひとつを紹介しよう。「くろんぼが黒いわけ」という題名で掲載されたこの物語の概要はこんな感じ……

昔、世の中には黒人しかいなかったけれど、ある日誰かが浸かった人間が真っ白になるという池をみつけた。最初に飛び込んだ人が銀のように真っ白になって出て来るのを見た人々は、われがちに自分も飛び込んだ。
最初に飛び込んだ人たちは水が十分にあったので全身が浸かって白い肌に、
次に飛び込んだ人たちは水が少し減っていたので黄色や茶色の肌に、
ところが最後にやってきた人々は、もう水がぜんぜんなくなっていたので掌や足の裏を水たまりにつけてちゃぷちゃぷやるしかなかった。

こういった訳で、黒人の掌と足の裏は白いんだよと、こういうお話だ。
こういう話をきいていると、コーエン兄弟のオー!ブラザー!を思い出す。
時は1933年、大恐慌の爪痕ふかく、まだ黒人差別が根強いアメリカ南部、ミシシッピ。お互いに鎖でつながれた三人の囚人が脱獄を謀る。黄金の隠し場所を目指していく三人の前にトロッコに乗った盲目の黒人の老人が現れて、こう予言した。

「お前達は黄金を手に入れるだろう。しかし望む場所にはない。
 牛に出会うだろう。そいつは屋根の上に乗っている。」

金の隠し場所がダムに沈むまであと4日。三人の旅は……
さあてお楽しみ。

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「悪魔に魂を売った黒人のギタリスト」「ベビー・フェイス・ネルソン」 「KKK」など、ウサギどんキツネどんから百年あまり後の時代の話ではあるけれど、音楽と映像の美しさから南部のあたたかな、古くさい、迷信と偏見の強い空気と、そこからやがて産まれてくる結末を楽しんでほしい。
みんなに映画を押し付けて………

私は、ちょっとピーターラビットを観にいってみようかな。


註1:
1845年 南部の唄

註2:
この年に関してはウィキペディアを引いてみたところ、手元のウサギどんキツネどんのあとがきにある年代とズレがある。手元にあるウサギどんキツネどん(昭和28年1月初版 岩波少年文庫49 八波直則訳)では1880年のこととされているが、ウィキペディアでは1881年のことになっているのだ。
Uncle Remus https://en.wikipedia.org/wiki/Uncle_Remus

註3:
ピーターラビットのお話の現本は1893年に作られている

註4:
1980年4月15日第1刷発行 東京図書 石川澄子訳 不思議の国のアリス p.34 8~14行 より引用

これはおひねり⊂( ・-・。⊂⌒っ