押井守は「押井守」を更新した。

押井守の新作の特報映像を見た。その興奮のままにこれを記す。

 押井守はスタンリー・キューブリックを指して、彼がある時から過去の自分の作品をするようになったと述べた。映画監督はそうなったらおしまいだ、とも。

 翻って彼がリスペクトを払う映画監督ジャン・リュック=ゴダールを見ると、ゴダールは常にゴダールを含む創作物を引用しながらゴダールというイメージを更新している。

 押井守がほんの3分弱の特報で達成したことは、このゴダールの行いだった。押井守は、押井守の手で「押井守」を──ミームとしての押井守を更新したのだ。

 これは彼の手でなされなければならなかったし彼以外の手では達成できなかった。なぜなら押井守以外の誰かがやってもそれは押井守をリスペクトする誰かの希望的観測として受容され、たちまち忘れ去られるからだ。

 だが押井守はやってくれた。押井守は自分自身をオマージュすることによって、引用することで、イメージを上書きすることに成功した。

 昨今流行りの「部活もの」というフォーマット、あざといくらいの「パトレイバー」「うる星やつら」「トーキング・ヘッド」オマージュ。

 これは、押井守というイメージをある限界に制約し続けた「ミームとしての押井守」に直接的に作用する。

 もはや押井守はペダンティズムとデカダンスを通過した。彼は違う世界を表現する。

 そのことを存分に示す3分弱の体験を私たちはさせられる。そんな特報だったのだ、これは。

 「VLOD LOVE」にあるのは奔放な映画の快楽だ。既存イメージへの諧謔、上書き。新しい物語を語るために引用される古典スリラーたる「フランケンシュタイン」と「吸血鬼」。ともに人とは違う形で眷属=つながりを他者と成立させた怪物たちが跋扈する世界で、友達ではなく「血ぃともだち」がいると微笑む声が響く時、視聴者はそこに新たな物語の予感を見出し、「押井守」のオマージュは物語の従属物へと下降する。

 ここには「押井守は虚構と現実を…」のような古臭いイメージはもうない。フィクションに侵食された“現実”は、ファンタジーの領域に接近し、私たちを幻想とのあたたかな戯れに引きずり込む。

 ファンタジーはあたたかな幻想を通じて切実な現実との関係を結ばせるジャンルだが(「若おかみは小学生!」「バースデイ・ワンダーランド」「太陽の王子 ホルス」「もののけ姫」そして「ニルスのふしぎな旅」など)、この映像がこの時代に押井守の手でもたらされたことは、もうそこには現実の風景に虚構を放り込むことで私たちのよく知る街を虚構の街に異化する“世界精神型”のテロリストなど存在しないことを示してくれる。
 ここにあるのが期待だ。

 押井守は押井守の手法で、この時代に「つながり」を、新たな形のつながりを表現する。

 押井守が小島秀夫、須田剛一らと一緒に写真を撮っていたこともあってついつい「DEATH STRANDING」の華々しい達成を私は連想してしまう。

 私が尊敬し敬愛する映画監督が、どのような物語を、映画を届けてくれるのか。私は楽しみでならないし、これでようやく、「ミームとしての押井守」に抱く苦々しい苛立ちも減じてくれると安堵している。

「ぶらどらぶ」一話が楽しみだ。


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