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SakkBiblio26 Eフロム「自由からの逃走」

運営しているコワーキングスペースワークテラス佐久での読書会。26冊目は、フロムの「自由からの逃走」をみんなで読みました。

Eフロムはドイツ生まれアメリカの学者。社会心理学、精神分析、哲学。ハイデルベルク大学でヤスパースに師事。ナチスからの迫害を逃れてアメリカに移ります。個人の内面に焦点を当てたフロイトらの精神分析の知見を、社会情勢との関係に適応しました。「自由からの逃走」は第2次世界大戦中に書かれ、人類が獲得したはずの自由からファシズムが生まれるメカニズムを解明することになります。

フロムは「自由」の問題を考えるにあたって、「〜からの自由」(消極的自由)と「〜への自由」(積極的自由)を区別することが大事だと言います。

中世的な制度からの自由、束縛からの自由(消極的な自由)は、近代的な「自由な個人」を確立しましたが、そのような個人は自らの生きる意味を見失い、社会や他人に対して「恐れ」や「不安」を抱くことになります。そしてその状況(消極的な自由)からの逃避として、①権威主義 ②破壊的行動 ③画一的機械主義に陥ることになる。このような逃避のパーソナリティーは、宗教改革のころから現在のドイツを中心としたプロテスタント陣営に内在化されており、そこに巧みに取り入ったのがナチスであったとフロムは分析します。

ある意味で人間の弱さとも言えるそのパーソナリティーは、決して第1次世界大戦後のドイツに特有のものではなく、自由主義国家であるアメリカ自身も抱えている、と指摘したのがフロムの鋭いところで、その延長にいる我々自身にも現代的な問題として響いてくる。そこが、この本が名著たる所以だと思います。

フロムが指摘した、消費社会や教育の状況をみても現代にも当てはまりそうですし、「インフルエンサー」に追随しがちなSNSの状況や、読書会の参加者から話に上がった前回の都知事選をみても、思い当たる節があります。

では、積極的な自由を獲得するためにどうすれば良いのか?フロムは、他人や世間、社会に影響されず、自己の意思で全人格的を実現する自由を目指し、行動しなければならないと言います。行動を重視するあたりが実存主義にも近いなと感じますが、これはボーッと自由に生きてんじゃねえと言う話で、かなり厳しい、ストイックなものです。

いや、本当の自分とかないから。と、そもそも社会や他人に影響されない人格(いわゆる本当の自分)など存在しないので、フロムの「本当の自己を求めろ」的なアドバイスは当てにならないのでは、という考えもありそうです。構造主義以降の現代思想だったり、東洋思想の観点からは、そういう批判もできるんだと思います。

この点僕は、フロムは絶対的な自己が「存在する」ということを言いたいのではなく、そのような本当の自己を求める「運動」(心理的運動であり、意思的運動であり、身体的運動であり、社会的運動である。)が、近代の人間が抱える恐怖や不安から解放される唯一の手段であり、その運動こそがナチズムのような惨禍の副轍を踏まないための、必要条件になるということを僕らに教えてくれているのではないか、と飲み込みました。

最後に、本書をこのタイミングで読めてよかったと思えた点についてです。前回の読書会では、近代世界システム論を読み、資本主義のエンジンである中核が周辺を搾取するという近代世界システムについて再勉強しました。そこで、太平洋戦争時の日本が大東亜共栄圏を掲げて戦ったことの意味について、広域的なシステム的な視点で議論をしなければ感情論以上の意味がないと再認識したのですが、どうしても引っかかっている点がありました。

それは、ナチズムにもなかった日本特有の話で、8月ということもありNHKなどでも色々と特集されていましたが、特攻隊や回天(人間魚雷)などの10代や20代の方を兵器として物扱いした、自爆攻撃についてです。形式上、自ら志願していったというケースもあったりと言われておりますが、それを僕らはどう捉えれば良いのか。これは近代世界システムなどを議論してても仕方がないわけで、人間の内面、パーソナリティーから議論をせざるを得ません。だからこそ、感情論になってしまいます。前々回の読書会で「わだつみのこえ」を読んだ時は、出陣を前にした隊員の手紙が自分の子供と重なり、胸がつかえる想いで、重いページをめくりました

自ら志願したとしたら、彼らは自らの意思で、「〜への自由」にもとづいて敵機に逝ったと、正当化できるのか。「犠牲」についての、フロムの文を引用させていただきます。

" ファシズムにあっては、犠牲は人間が自我を確保するために払わなければならない最高の値ではなく、それ自身一つの目的である。このマゾヒズム的な犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちにみている。それはファシズムがそのあらゆる面にわたってめざすものー個人的自我の滅却と、そのより高い力への徹底的な服従ーの最高表現にすぎない。それは自殺が生の極端な歪みであると同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的な統一性を求める非妥協的な願望を前提とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻をかくしているのにすぎない。(日高訳/p294-295)  "

僕はここの部分を読んで、真理「への」自由のために自ら毒杯を仰いだソクラテスを思い出しました。フロムがファシズムにおける「全体のために、お国のために」の犠牲の対局に想定するもの。自分の内面から溢れ出て、何かを目的とした真の犠牲のひとつとは、ソクラテスのように真理を求めた犠牲のことだったのだと思います。2000年を超えてつながる西洋思想の深みを実感するとともに、僕たちの読書会第1回目で読んだ「ソクラテスの弁明」と繋がったことで、哲学を継続することでしか得られない、ささやかな喜びも感じることができました。

フロムの記述は、今、親として自分の子供を想う時、今後ファシズムや全体主義の風潮が出てきた時に、それと明確に争い、抗わなければいけない、強い論拠と勇気を与えてくれます。その勇気とは、ファシズムや全体主義が、例え現代社会において「自由」の錦の御旗を掲げていようといまいと、その本質を「〜への自由」を求める、自分の眼で見極めていくということなんだと思います。

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