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◎百足の草鞋/炸裂!劇場望郷編


 家にこもりながら、することないのでつらつらと過去を振り返る、遺書のようなこのシリーズ。もう書くことがなくなってきた。これ以上過去をさらして面白いのか? 単なる自己満足ではないか? まあ、こんな時だから、と全てあの忌まわしい細菌のせいにして進めたいと思います。

 『劇場激情編』では大学時代の新世界の映画館のことを書きましたが、それ以前はどうだったのか? という誰も知りたくないお話を。中高生時代は和歌山に住んでいました。県庁所在地ということもあり、自転車で20分ほど行けば映画館のある繁華街に行ける場所に住んでいたので、週末になれば映画館で一日を過ごすことも少なくありませんでした。小学生の頃は、一人で繁華街に行ってはいけない、と学校から言われていたのでその教えを固く守り、中学生になってから一人映画館デビューでした。当時和歌山の繁華街『ぶらくり町』にはシネコンを先取りしたような4スクリーンで松竹系の築映、東宝系の帝国座、東映系の東映シネマ、それに洋画がメインの国際劇場がありました。それに和歌山駅前の商店街には洋画専門のニューパレス。

 見るものといえばSFにアクション、とにかく派手なものを好んで見てました。80年代後半、SFX、スプラッターブームにスタローン、シュワルツェネッガーの筋肉アクション。中高生にはごちそうのようなラインナップが目白押しでした。大阪のように名画座や二番館などはないので、ほとんどがロードショー作品。それでも上映館数の問題で、和歌山未公開の作品もたくさんあったと思います。和歌山の映画好きの有志がそういった小規模公開の映画を定期的に上映したり、築映が主体になってシネマガイドを作って配布したりと映画活動自体は盛んだったっとも思います。年に一回和歌山市民映画祭というイベントもありました。投票によってベスト作品を選び、ゲストを呼んで上映するのです。都市圏に比べると貧弱かもしれないけど、映画に対する熱気はあったように思います。
 

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 高校になると、ドンパチや特撮物からたまに上映するアート系にも手を出し始めました。たぶん珍しいものを見て映画通を気取りたかったのと、ゴダール信者だった高校のM先輩の影響が大きかったと思います。それと和歌山で上映されない作品は電車に乗って大阪に遠征に行くことを始めたのもこの頃です。新世界で『ラドン』を見たのもこの頃です。

 映画環境に恵まれた中で中高生時代を過ごし、やがて大阪の大学に移ってからも、帰省のたびに和歌山の映画館に通っていました。90年代前半、徐々に映画館事情が変わりつつありました。まずは国際劇場が閉館。最後の上映作品『エイリアン3』を見に行ったらポスターをもらいました。いつもはチラシも置かない、けちな映画館(失礼)だと思っていたので、思いがけないプレゼントでした。そして和歌山を離れて数年、風の便りにニューパレスが、帝国座が、築映が次々と閉館という話を聞きました。近隣にできたシネコンと、繁華街のシャッター化が原因とか。数年前、久しぶりに和歌山に行くとかつての映画館は駐車場になっており、にぎやかだった繁華街も人気のない閑散とした場所になっていました。

 町に映画館があった時代、電柱に映画ポスターが貼られていた時代、その最後のほうで十代を過ごせたのは幸福なことだったと思います。ロードショー映画ばかりでしたが、たまにリバイバル上映やミニシアター系映画の上映、興業が芳しくないと公開途中でも二本立てに変更ということもざらにありました。それに地方なのでよほどの大作でもない限り、二本立て興業が普通でした。ある年『ロッキー4』があまりにもヒットし、異例のロングランとなったので夏休み公開の『スペースインベーダー』『地獄のコマンド』が飛んだこともありました。『インベーダー』はのちに『スペースバンパイア』『エルム街の悪夢』とセットで公開しましたが、『地獄のコマンド』はついに和歌山にはきませんでした。あと、住んでいた町にポルノ映画館が二館あったのですが、そのうち日活の直営館が、ロマンポルノ終了と同時にロッポニカ作品やアクション、ホラー物を公開し始めました。『死霊のはらわた2』『スーパーマン4』の二本立てを見たのも、いつもは行きにくい場所で見た映画として強く印象に残ってます。


 という、和歌山のお話でした。『京阪怪獣哀歌編』はいずれ。

 

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