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「うまいもの」と「まずくないもの」そしてこれからの飲食店

「プロセスエコノミー」?

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という本がある。2021年7月に出版されたのでわりと最近の本です。ビジネス界隈ではたくさんのレビューがあがっていたりするので目にした方も、既に読んでいる人も多いかもしれない。ちなみに僕は読んでおりまへん。

読んでいない立場で大変恐縮ではありますが著者の尾原さんのオンラインサロンに入っているので大枠の内容は理解しているつもり(あくまでつもり)。

アウトプット(商品とかサービスとか作品とか)は今後どんどん均一化されていくので、プロセス(そこに至る過程)に価値をおいて差別化していかなきゃね!

っていうのが大枠の内容だと理解しています。でも読んでないんですよね。すごい内容に引き付けられるし、タイトルだけでもなるほどなーーって思うのですが、読んでない。

「役に立つより、意味がある」?

少し違った文脈で、「役に立つより、意味がある」というのがある。これは「プロセスエコノミー」と似ていて、世の中の「機能的」な部分はほとんど均一的に満たされていくから、「意味的」に差別化しないと商品は売れないよね、という感じです。たぶん。

ほかにも、「モノじゃなくて人で選ぶ時代」とかなんとか、似たような文脈の話をよく耳にするのは、時代がそっちに向かっているからなんでしょうか。ほんとうにそうなんでしょうか。

なんとなく感じる違和感

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こういう類の話でよく例に出されるのが、飲食店なんです。

最近はどこの店に行っても料理はそれなりに美味しい。料理の機能面をつくるレシピはネットにも大量にシェアされているので、味の面で差はほとんどなくなる。まずい店は、ない。

とまあこんなふうに言われると、うーーんなるほどな。。と思ってしまう。とても論理的で反論の余地がないように思える。たしかに最近はコンビニの惣菜も、けっこう旨い。だからこれからの飲食店は味はまあそれなりで、それよりもストーリーや存在意義、コミュニティーづくりなどに力を入れていくべきだ!なんていきり立ってしまっても無理はない。折しもコロナ禍、僕ももれなくその類になった。3カ月くらい。

そして3か月後、やっぱり違和感が残った。「プロセスエコノミー」はまだ読んでいない。

「まずくない料理」なんて誰が食いたいんだ

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その違和感の正体を探っていきたい。そしてこれからの飲食店がどうあるべきかを見出していきたい。

どこの店もそれなりに美味しい

まずい店は、ない。

どうやらこの表現が僕の心をチクチクと刺しているようだ。論理的には反論の余地はないが、心のどこかが何かを訴えている。

考えていて疑問が浮かんできた。

「うまい」=「まずくない」なのか?

「うまい」=「それなりに美味しい」なのか?

いやそれは違うやろ。あってる部分もあるけど絶対的に違うところも、ある。確かに、すきな人が作った「まずくない料理」は、「うまい」と感じるかもしれない。プロセスがアウトプットの価値を変えることもある。

でもさぁ。それはあくまで最高のアウトプットへと一直線に繋がるプロセスだから価値を感じるんとちゃうの?違う?おれ、間違っている?

食べる前にうんちくを垂れるのはチート

飲食店において商品(プロセス)の説明をすることはある。「○○産の○○を、○○と合わせて○○に焼いて○○を添えました」的なアレです。そしてこれをやるのには2つのパターンがある。

①料理に対する反応があったとき(食べたあと)に説明する

②注文段階や提供時(食べる前)に説明する

実はサービスマンはこれをお客さんによって使い分けている(はず)。

①のパターンというのは実はお店が一番やりたいパターンです。料理というのはお店の最大のアウトプットであり、プロセスのすべてが注ぎ込まれたものです(そう願いたい)。お店の(人の)感性の結晶である料理を、お客さんにぶつける。そして食べたお客さんの反応がどう出るか、じっと(こっそり)窺います。この瞬間は、感性と感性の真剣勝負、とも言える瞬間です。ドキドキしながら、口に入れた瞬間のわずかな表情の変化を読み取る。勝つこともあれば負けることもありますが、勝った!そう思った瞬間にサービスマンは行動に出ます。しれっと空いたグラスに水を注ぎながら、その料理の背景にあるプロセスを語るのです。お客さんは料理の余韻に浸りながら、それが生まれた背景を想像し、確認作業としてプロセスに耳を傾けるのです。とても知的で、提供する側も食べる側も満たされる瞬間です。

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ただ、これがすべてのお客様にできるわけではないんです。感性と感性の勝負は、同じ土俵に立てる人だけが行うことができるものだからです。飲食店の扉は常に開いていますから、いろんな人が入ってきます。そのためにパターン②の説明方法があります。

②のパターンで説明するときは、店側がお客さんが「わからない人」だと感じたとき。自分たちが料理に込めている感性を理解できないやろうなぁとか、そもそも価値基準を持ち合わせてないな、というのはできるサービスマンならお客さんが入店してから注文をとるまでに判断できるもんです。勘違いしないために言っておくと、これは決してお客さんを下に見ているわけではなく、その人が最大限楽しむ環境をつくるための予察なんです。で、感性で価値をわからない人には最初に説明をします。料理のコンセプトやできるまでのプロセスを伝えて、その確認作業として料理を食べてもらう。お客さんはフムフム言いながら、「なるほど、○○産の○○ってこういう味なのね」と心の中で体験しつつ、「うん、やっぱり○○産の○○は美味しいね」と言う。バカにはしてません、念のため。そういう楽しみ方も、悪くない。ただね、サービスする側からするとこのやり方はある意味チートなんですよね。先に壮大なプロセスをぶちまけるんで、悪く言えば「まずいと言えない状況」を先につくってしまうわけです。仕事としては、美しくない。あくまでシチュエーションに合わせて行います。

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わかってない店員

一方でこれをわかっていないサービスマンが、②のパターンを使うことが実によくある。料理をテーブルに出してから、これでもかと説明をかましてくる店員に出会ったこと、あるんじゃないでしょうか。料理冷めてまうやん、て。めちゃくちゃ会話が盛りあがってるのに、横から入ってきて説明をかましまくる、あの店員もそうです。ここに大きな勘違いがある、そう思うんです。

その勘違いとはまさに「説明(プロセス)に価値がある」という思い込みです。説明をすれば料理の価値が上がると思っている。料理に上乗せするノリで、ひどいときは料理を犠牲にしてまでプロセスをぶちまける。優しいお客さんはフムフムって聞いてくれてるからいい気になってるかもしれないけど、もはやどっちがサービスしてるのかわからない。そしてそれをかまされたお客さんは、二度と来ない。

結局はアウトプット一択やろうが

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そう考えていくと、料理に限らず商品やサービスのほんとうの価値と言うのは、「感性と感性のやりとり」なのかもしれない。美意識、と言い換えてもいい。だから僕はプロセスがそれを補完することはあっても、「プロセスに価値がある」とは言えないと思う。いや、プロセスに価値はある。ただ、それはあくまでアウトプットに向かうプロセスでなければいけないんとちゃうか。アウトプットに向かってないプロセスなんて、全然興味がない。そう考えると、やっぱりアウトプット一択やろうが、そう思うんです。

均一化されるものはなにか

とはいえ、均一化されていくものは確かに、ある。レシピはネットで無限に出てくるし、配膳ロボットや寿司マシーンも今やあたりまえになった。今後もこの流れは加速していくと思う。

ここで大切だと思うのが、均一化がどうこうという話ではなく、「何をどう均一化するのか」という話です。

均一化していくということは、多くの人に届けるという前提で行います。そうでなければ均一化の意味がない。だから均一化する内容を考えるときには多くの人が受け入れられる内容でなければいけません。そうした思考が必ず入り込んでくる。そうすると、受け取りてによってわかる、わからないの違いが生まれるような、感性に訴えるような内容はどんどん削られていくことになります。「感性の勝負」なんて際どいことはやってられないから、誰でも飲み込めるようなものを、均一化していく

そうしてつくられたものが、「まずくない料理」なのではないでしょうか。

クックパッドのレシピも、コンビニの惣菜も、はっきり言って美味しいです。でもそれは「うまいもの」では、ない。つくりての感性の、美意識のたたかいが、そこにはないからです。それはアウトプットに出る。でも、わからない人には、アウトプットからそれがわからない。だからこの認識はあまり共有されないのかもしれません。

感性のために非合理なたたかいを

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ここまで考えてきて、やっぱり言えること。それは「これからもうまいものをつくり続けたい」という想いです。自分の感性に正直でいるために、たたかいを挑み続けなければならない。仕事において、アウトプットにおいて合理性が求められることは多々あります。マーケティングを通じて受け手の合理性にあわせなければ、たたかいの土俵にすら立てないこともある。でも、です。ぎゅうぎゅうの合理性の間に無理やり隙間をこじ開けて、そこにいかに感性による非合理なたたかいを差し込んでいくか。茶碗一杯の米に、一皿のサラダにそれを差し込んでいくのだ。

そういうものが、これからの時代にあってもいいんとちゃいますか。


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