見出し画像

星を編む

※ネタバレを多分に含む記事です。


本屋大賞2023を受賞した凪良ゆうの『汝、星のごとく』に続編が出たとのことで、音を超える速さでamazonを開き、一瞬の迷いもなくポチった。価格が1万円でも買っていただろう。そのくらい『汝、星のごとく』は自分の頭を体温を熱を心を持っていかれた作品だったのだが、読んだ感想を前回noteにアップしたときの記事を読み返すと寒気がした。こんな浅くてチープな文章を書く自分を殺してやりたいと思ってしまったのだ。

まぁいつ何時も、自分の過去の文章というのは今の自分が見ると、気持ちが悪くて浅くて寒気がするもので、自分の過去の文章に触れて自分を殺したいと思えている精神状態がまだ救いだなと、物書きとしてあるべき姿ではあるなと納得させる。

文章は自分の等身大を移す。今や加工技術が発達し、メイクやら写真やらは盛ればどうとでも編集可能で、自分を過大に見せることは可能だが、文章に関してはAIが発達しようが自分自身が成長しないことには人を惹きつける古文字は紡がれない。

ので、今回もまぁ安い感想になるんだろうが、それを受け入れていかないと、それでも書かないと等身大としての僕は大きく豊かになっていかないのである。こうした素晴らしい作品を読むことで血に刻まれた何らかのものを書き起こしていく作業こそが大事なのである。いつか、櫂のように死後も誰かの心にそっと居座る作品が書けたらいいなというわずかな光を片手に宿しながら。



『汝、星のごとく』は櫂と暁海の二人の視点からしか物事を見ることができなかったが、今回『星を編む』では暁海以外に北原先生や編集者の植木さんと二階堂さんの視点からも物語が紡がれていくのが大きく違った点。二人の視点からしか見られないという制限は、読者に櫂と暁海に憑依させ、物語へのめり込ませていた。一方で今回の作品は、櫂の死後の物語。櫂と暁海の周りで起きていた物語に焦点を当てられたことで、人の知れば知るほどさらに知りたくなる欲を掻き立て、『汝、星のごとく』をもう一度読みたいと想起させる作品になっているように思う。

また『星を編む』は主に暁海と北原先生の物語が軸なのだが、読みながらも常に櫂の視点を読者の頭の片隅に植え付ける構造になっていたように感じた。適当なことを言うと怒られそうなので嘘か誠か諸説ありで捉えてほしいのだが、ヨーロッパの言語の成り立ちは聖書だそうで、英語やドイツ語やフランス語は基本的に主語を省くことができない。というのも、常に「ゴッド」にわかるように説明しないといけないからだ。だから、毎度毎度“私は”とわざわざ言わないといけない。櫂は暁海にとってこのゴッドと同じような立ち位置にいるのではないかと感じさせるように暁海の使う言葉には特に無意識にゴッド(櫂)を含んでいたように思った。それは日本語を使っていても、主語を省いていても、感じられるものだった気がする。



『汝、星のごとく』も『星を編む』も世間では恋愛小説のような形で括られると思うのだが、恋愛などという言葉では括れない壮大さを、日本の中でも小さな世界(島)に住む人たちに起きる物語が語っていたなと思うと、恋愛小説として括れないと思っている自分の恋愛というものに対する概念の小ささを感じ、本当の恋愛というものの壮大さを逆に見た気がする。

人が生きていくというのがそもそも壮大なことで、ドラマであり、小さな世界の話だとしてもそこに紡がれる物語は空のように壮大で、海のように波打ち、花火のように儚いものなのだなと。人生というものに尊さを感じれる作品でした。



かくいたくや
1999年生まれ。東京都出身。大学を中退後、プロ契約を目指し20歳で渡独。23歳でクラウドファンディングを行い110人から70万円以上の支援を集め挑戦するも、夢叶わず。現在はドイツの孤児院で働きながらプレーするサッカー選手。

文章の向上を目指し、書籍の購入や体験への投資に充てたいです。宜しくお願いします。