自己受容は甘えなの?
こんにちは、吉野匠人です。
この前、友人の人間関係のトラブルについての 話を聞いていて、私は自己受容ができてなさそうだからもっと自分の未熟な部分も受け入れてみたらいいのではという話をしました。
私は、自分自身、長い間自分の弱い部分から目を背け、その結果、それを指摘されることから必死に逃げながら生活していました。本当に辛かったです。
自己受容は、自分の強い部分と弱い部分の存在を認め、どちらも無条件で愛することです。
ですが、友人は、このように言うのです。
これに私は少し言葉を詰まらせてしまいました。
このコメントに対して、ここで反論できたらと思います。
「受容」と「肯定」について
まず、受容することは、受け止めることであって、肯定することではありません。
概念に対する私のより細かなイメージをシェアします。
まず、肯定とは、評価に関わる言葉です。点数をつけるイメージですね。
それに対して、受容は、内容を受けて、自分の中(自分の容器?)に取り入れ、自分とは不可分の存在として、排除しようとせず、真剣に向き合うことです。
排除、というのは、「そんなのは私じゃない」と、その要素を持つ自分を認めないことです。
それはまるで、顔にできたニキビのようなもの。無い状態が、本来の自分なのです。
例えば、英語が苦手な子どもが、
私は英語が苦手なはずはない→否定
苦手な英語はむしろ私のチャームポイント→肯定
私は英語が苦手なんだ。それも私の特徴だよね。でも、単語を覚えたらもっとできるようになるかも→受容
といった感じです。自分の一部として受け入れることで、本当の意味で自分ごと化できるようになります。
「甘やかす」と否定は二項対立なのか
次に、「甘やかす」について。
第一に、自分に優しく(甘く、かもしれません)受容することは、「甘やかし」ではありません。
この言葉は、辞書で見てみましょう。
つまり、相手の行動を悪化させることが、「甘やかす」の本質だと思います。
なので、自分に甘くして自分の行動が改善されるのなら、それは甘やかすことではないのです。
ですが、自分を受容せず、弱い自分を否定してた方が改善されるという反論が来るかもしれません。
しかし、弱い自分を受容し自分ごと化しない限り、弱さから目を背けて偽りの有能感に浸るだけです。
それは果たして成長なのでしょうか。
自己受容したら、怠惰な自分に気づくだけ
自己受容したら、自分のダメな部分が浮き彫りになってきます。
そんな状況をイメージして、
自己受容したら怠惰になるという因果関係を作ってしまう時があります。
でも、
自己受容したら、怠惰な自分を自分の一部として否定せずに認めて、伸ばしていく対象になるだけです。
客観的に見れば、怠惰さは減少するかもしれません。
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私は、自己受容は幸せに、豊かに生きるための重要な要素だと思います。
これからも私自身の自己受容も高めて行きたいです。
少し駆け足で書いたため、抜けがあると思います。
もし何かお気づきの点があればコメントで教えていただけると嬉しいです。
読んでいただき、ありがとうございます!
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