我々の創作を明確化する:「想像地図」との比較から

 こんにちは。仮想世界創作サークル「新拓都」の宇橋別です。あ、仮想世界創作サークルというのは、私が昨年末に立ち上げたサークルなんですが、noteでは関連する記事を一つも書いていなかったのに気付きまして(言い出しっぺのくせに!)、今回とりあえず我々が何をしたいかを概観する記事を書こうと思い立ったわけです。

 仮想世界創作は、文字通り、仮想の世界を創作する活動ですが、すでに似たような活動をされている方が何人かおられます。その中で、私がかなり影響を受けている一人が、「想像地図の人」さんです。(この先は「想地さん」と呼ばせて頂きます。)

 今回は、想地さんが2020年8月に公開した「想界創作論」という記事を手掛かりに、我々の創作の方針を明確化してみたいと思っています。実は、私のアイデアも想像地図の各種法則が出発点になっていることが多く、その意味でも比較検討は効果的だと考えられるからです。

 では、本題です。想地さんは想像地図の創作にあたって3本の柱を提示しています。それは、

 ⑴田谷野解釈
 ⑵現想対称性
 ⑶住岡解釈

です。
この先、3つの柱に関して少し引用を行いますが、もっと詳細な内容については、次にお示しするリンクから元記事をご覧ください。

 比較を始める前に少しだけ。これからお話しすることは、各作品の個別的な話であり、架空創作における普遍的理論を構築する意図は全く無いことにご注意ください。想地さんもこのように述べられています。

なお、これは想像地図の人が想像地図をどう作るかという論であり、架空世界創作はかくあるべきだという主張ではない。

 それでは、3本の柱を順番に比較していきます。
 まず、⑴田谷野解釈です。

田谷野解釈は、想像地図の作者は世界の造物主ではない、とする考えのことである。これは、想像地図世界(想界)は作者の理想を体現する世界ではなく、想像地図は旅人や科学者の立場から演繹に基づいて描くものであるという意味である。

 田谷野解釈については、仮想世界創作でもほぼ同様の原則を採用しています。私は「観測主義」と呼んでいますが、こういった「作者は創造主ではない」という考え方は他にも結構見られるように思います。
 この原則を採用する理由は、作品に対する作者の恣意性の排除にあります。すなわち、「創造主ではない」と作者の立場を明示することで、作者の勝手にできない状況を生み出しているわけです。このことを踏まえると、動機については一致していると言ってよいでしょう。
 ただし、仮想世界創作ではそれ以上のことがまだ決まっていないことに注意しなければなりません。「それ以上のこと」とは、具体的には「どのくらい演繹を重視するか」ということです。
 今のところ、大きく分けて2つの主張を考えています。1つは、「完全に合理的な世界線を辿る」という主張です。これは合理主義と呼びましょう。もう1つは、「偶然性を含みつつ、ある程度合理的に世界線を辿る」という主張です。どちらかと言えば私は後者を支持していますので、ここでは写実主義と呼ばせて下さい。
 要は、「どちらがより現実に近いか」という判断基準であり、「現実世界は何たるか」という問いに帰着するわけですが、合理主義では現実世界を合理的世界と言い切る一方で、写実主義では現実世界を合理性と偶然性の混合体と捉えているのです。我々がどちらをとるかは、今後の議論によります。
 ここまでの話をまとめると、「我々は、恣意性の排除という点では田谷野解釈と方針が一致するけれども、演繹の具体的方法についてはまだ決まっておらず、今後考える必要がある。」ということになります。

 次に、⑵現想対称性を見てみましょう。

現想対称性は、想界にも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本(というか地球)を想像地図として描いているという裏設定である。だから、この裏設定を成り立たせるためには、想界は「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」でなければならない。

私は、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」みたいな何かを感じるのですが、これは想像地図を大いに特徴づける原則の一つだと思います。
 仮想世界創作に関して言えば、この原則は導入されていません。これは⑶住岡解釈の話にも繋がってくるのですが、現実世界と仮想世界は完全に対等ではないと考えており、対称性は想定していないから、というのが理由です。
 厳密に言いますと、現実世界と仮想世界は対等だったり対等じゃなかったりするのです。どういうことか説明しますね。まず私の基本的な考えを述べます。

①1つの時刻(=時間という数直線上の点)に「世界」が1単位あると想定します。
②時刻が進むと、「世界」は枝分かれし、複数単位の「世界」が生まれます。そのうちの1つが「現実世界」で、それ以外はすべて「非現実世界」とします。
③時刻がどんどん進むにつれて、どんどん「世界」が枝分かれしていきます。「現実世界」は枝分かれしていく無数の「世界」のうちの1つですので、特定の1つのルートを辿っていることになります。
④我々が関与する「仮想世界」は、ある時刻における「現実世界」を出発点とし、そこから枝分かれした「非現実世界」のうちの1つを指します。

こういったことを考えているのですが、とりあえず2つのことが指摘できます。

・「世界」を1単位として見る限りにおいては、「世界」どうしは対等である。
・「現実世界」と「非現実世界」は異なる。(混乱を防ぐために補足しますと、n個の「世界」は1個の「現実世界」と(n-1)個の「非現実世界」を含み、(n-1)個の「非現実世界」は1個の「仮想世界」を含みます。((n-2)個の「それ以外の非現実世界」は余り物。))そして、(我々から見れば)現実世界は実在(=じっさいに存在)し、非現実世界は実在しない。

 前者では、「現実世界も非現実世界も『世界』なのだから平等である」と考え、後者では「現実世界と非現実世界とで存在の仕方が異なるのだから平等ではない」と考えます。つまり、異なる視点からの指摘が異なる関係性を導いているわけです。だから、「現実世界と仮想世界は対等だったり対等じゃなかったりする」というわけです。
 説明は以上です。ともかく、仮想世界創作においては現実世界と仮想世界を完全に対等とは考えないので、対称性も考えない、というのが結論です。

 ⑶住岡解釈の話に移りましょう。

住岡解釈は、「想界は、観測可能な宇宙の範囲外に実在する」という解釈である。もし宇宙が無限に広く、星が無限にあるのであれば、地形の配置パターンも無限に存在しうる。地形の配置パターンが無限に存在するなら、その中には、想界の地形と偶然一致するような星もあるだろう。

想界は住岡解釈によって実在するとされていますが、一方で、仮想世界は非実在です。先程の話を踏まえると、仮想世界は非現実世界に含まれるがゆえに非実在なのです。まあ、先程の話を否定されるとそれ以上何も言えないのですが、住岡解釈のように実在を示す方針はありません。
 ということで、仮想世界の実在はあり得ないのですが、これは存在の否定を必ずしも意味しません。しかしながら、この話を考えると「虚構は存在するか」という問いに繋がり、大変悩ましいことになりますので、これ以上話すのはよしておこうと思います。

 はい。とっても長い文章になってしまいました。ごめんなさい。
 ここまでの議論で、想界創作論と比較しつつ、仮想世界創作の基軸をある程度はお伝えすることができたのかな~、と思います。
 今後もちょくちょく創作論を書いていき、いずれはまとめて分かりやすい形でお示しできればなと思っていますので、是非よろしくお願いします。

 最後に、想地さんにおかれましては、比較検討に際して許諾をして頂き、ありがとうございました。

 では、またこんど。

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