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県内トップ5の高校から県内1のド底辺ヤンキー高校に転入。

小学生の頃、夢はプロ野球選手!その当時、本気でなりたいと思っていた。

中学生の頃、もうその夢は諦めていた。勉強はそこそこできたので、頭の良い高校に行って、良い大学出て、良い会社に就職する。そう考えていた。なんとも可愛くない中学生だった。けれど、野球が大好きだったので、そこそこ偏差値も高くて、野球の環境もしっかりしているところが良いなと思った。なので、県内トップ5の偏差値で、野球のグラウンドがしっかりある、鹿児島高専を推薦入試で受験した。結果、何の苦労もなく合格した。

周りからは、高専に受かるなんて凄いね!ともてはやされ、親戚の人達は、みんな喜んで盛大にお祝いしてくれた。

そして4月。1年生は全寮制となっていたので、実家を離れ、初めての寮生活が始まった。もちろん、不安なことも多かったが、どこかワクワクしている自分がいた。

しかし、異変に気づく。それは、1年生の夏休み明け。また、寮生活が始まるタイミングだった。

夜は全く眠れず、部屋にいる時、学校にいる時、部活をしている時もずっと不安で、精神が崩壊していた。寮生活が合ってないのかもしれないと、特別に実家から通うことになったが、状態が良くなることはなかった。

勉強が全くわからないと嘆いているのに、実際にテストを受けると90点以上をとる。担任の先生や周りの友達からは、何がわからないのかわからないと言われる始末。

野球の練習では、キャッチボールをするのが怖かった。もちろん、守備練習や打撃練習はそれ以上に怖かった。今まで出来ていた動きに不安を感じ、どう動いたらいいのかわからなくなっていた。

そんな僕をずっと見守っていた母に『心療内科に行ってみよ』と言われ、病院に行き診察。その時は、病名などは特に言われなかったが、睡眠薬などの薬を処方された。

それから、学校を休むことは増えたが、なんとか2年生にはなれた。だが、状態は悪くなる一方だった。

4月。春季大会が訪れる。今までは背番号6をつけて2番ショートで出場していたが、練習にまともに参加していなかったので、背番号すらもらえないだろうなと思っていた。ところが背番号が配られる当日、僕の手には背番号16があった。セカンドを守っていたキャプテンが監督に相談してくれたそうだ。背番号をもらえていない子がいる中、練習もろくに参加していない自分が、背番号をもらっていいのかと複雑な気持ちだった。

試合当日。オーダーが発表される。1番セカンド○○、2番ショート盛満。ん?頭が真っ白になった。普段なら名前を呼ばれたら嬉しいはずなのに、この時ばかりは『なんで呼ばれるんだよ!』と思ってしまった。練習もろくにしていない。投げることにも恐怖を感じているぐらい精神が崩壊。この状況下でのスタメンは拷問だった。そんな状態の人間が、良いプレーなど出来るはずもなく、途中で交代を告げられた。普段なら悔しいはずなのに、どこかホッとしている自分がいた。

それからは、今まで以上に学校を休むことが増えた。夏休みに入る前、担任の先生から『現状、成績は問題ないが、出席日数が圧倒的に足りていないので、このままだと留年になってしまう。選択肢は2つ。1つ目は、留年して2年生をもう一度やる。2つ目は、違う高校に転入する。現状、この2つしか方法はない。』と告げられた。僕は、留年して下の子達と一緒に勉強したりするのは嫌だし、もうこの環境には居たくないと思い、転入を選択した。

転入を選択したのはいいものの、私立の通信制か県内1のヤンキー校と噂されていた県立高校の2つしか選べるところがなかった。金銭面的に私立は厳しかったので、県内1のヤンキー校を選択した。

周りの人達からは、『あんなところやめときなさい!』『せっかく高専に受かったのに勿体ない!』と散々言われた。

僕だって、できるのであれば、高専に残ってみんなと勉強して、野球をして、高専生活を満喫したかった。でも、これ以上ここにいると自分が自分じゃなくなる。完全に壊れてしまう。そう感じた。

〝だから僕は逃げた〟

10月。県内1のド底辺ヤンキー校と噂されていた開陽高校に転入。新たなスタートを切った。

しかし、状態は悪化し続けてしまい…

11月。双極性障害(躁うつ病)と診断され、大学病院の閉鎖病棟に入院することになる。

ここからが本当の地獄だった…

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