短編小説「枯れた金木犀」
君の匂いがした。
気づけば振り向いていた。
目の前にはただ、金木犀の花が咲いていた。
そのはずだ。
僕は君から逃げてこの街にやってきたのだから。
この匂いは、もう君の匂いなんかじゃない。
そう自分に言い聞かせ終わってから、無意識に口角が上がっていたことに気づいた。
動けない。
何故だろう。
道端の金木犀を1人で見つめる。
別に用も無い。綺麗だとも思わない。
甘い匂いが、僕の気も知らず流れ込んでくる。
ここを通る人は、きっと皆この匂いを喜んでいくのだろう。
「あなたも嬉しいでしょう?」とでも言いたげに、主張の強い橙が図々しく咲いている。
その匂いを嗅げば嗅ぐほど、君の笑顔が近くに浮かぶ。
こんな図々しい花とは真逆の、儚くて優しい君の笑顔。
脳裏に焼き付いたその笑顔を、目の前の花で汚く塗りつぶしていく。
この匂いでもう君をもう思い出さなくていいように。
そうだ。おかしな話だ。
金木犀の匂いを嗅いで、金木犀よりも先に君を思い出すなんて。
君はただ、金木犀の香水をよく使っていただけ。
君が生まれるずっと前から、この匂いは金木犀のものだったのだから。
君のものじゃない。金木犀のものだ。
「この前金木犀見つめてたからさ、好きなのかと思って。香水買ってみたんだ。どう?」
君が僕の大切な人になったその日から、君からはいつもこの匂いがしていた。
「僕、金木犀の匂い好きなんだ。」
嘘だった。
金木犀の匂いが好きなんじゃない。
君が僕のために選んでくれたこの匂いが好きだったんだ。
「ごめんね。あなたといるの、辛くなってきちゃったんだ。」
そう言って、僕の胸の中で泣いた君。
どうしていいかも分からずに、何も言わず君の頭をそっと撫でた。
君といたどの時間よりも、甘く鮮烈な金木犀の匂いがした。
こぼれた涙の冷たさで、はっと目を開いた。
そこに君はいなかった。
金木犀の花と、君のいない街並みがあった。
僕の枯らしてしまった金木犀からは、今頃どんな匂いがしているのだろう。
僕の知らない花の匂いがしていて、幸せそうに咲き誇っているのだろうか。
根拠は無いけれど、そんな気がした。
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