きょうの素問 玉機真蔵論篇 第十九(3) 2023/12/14

早いもので、12月も真ん中に近づきました。
そして、玉機真蔵論も3回目となります。
今回、この篇の名前の由来となった部分が華々しく登場しますので、ご期待ください。
それでは読んでいきましょう。


帝曰 四時之序 逆從之變異也 然脾脈獨何主
(帝曰く、四時の序、逆從の變異なり。然して脾の脈獨り何れをか主どる。)

※ 四時之序
前段までで述べてきた季節(四季)に応じた脈のこと。

※ 逆從之變異
季節に応じていない病的な状態の脈。「逆從」としているが、前段までの内容からすれば「太過・不及」の脈のこと。

春 → 肝・木(弦)
夏 → 心・火(鉤)
秋 → 肺・金(浮)
冬 → 腎・水(營)

前回まで、上記を論じてきたわけですが、「脾・土」はどこにいったの?という黄帝の問いが投げかけられます。

歧伯曰 脾脈者土也 孤藏以灌四傍者也
(歧伯曰く、脾の脈なる者は土なり。孤藏たりて以て四傍に灌ぐ者なり。)

ここでは、星型の五蔵(五行)の配置では無く、土を中央に据えた配置の五行図を前提にしているようです。
土の胃気が中央(もしくは土台)から四蔵に灌がれて、それぞれの蔵をコーティーングしている。もし、この胃気が無くなると、それぞれの蔵の気がむき出しになる、いわゆる「真藏脈」となる、というのは、『素問』の平人氣象論で述べられているところです。

『素問』 平人氣象論
人以水穀為本 故人絕水穀則死 脈無胃氣亦死
所謂無胃氣者 但得真藏脈不得胃氣也
所謂脈不得胃氣者 肝不弦腎不石也

帝曰 然則脾善惡 可得見之乎
(帝曰く、然らば則ち脾の善惡、これを見ることを得べしや。)

歧伯曰 善者不可得見 惡者可見
(歧伯曰く、善なる者は見ることを得べからず、惡なる者は見るべし。)

※ 善惡
正常な状態の脈と、異常な、病的な状態の脈のこと。
「正常な脾胃の脈」は診れないけれども、「病的な脾胃の脈」は診れる、としているところが興味深いです。

帝曰 惡者何如可見
(帝曰く、惡なる者は何如にして見るべし。)

歧伯曰 其來如水之流者 此謂太過 病在外
如鳥之喙者 此謂不及 病在中
(歧伯曰く、其の來たること水の流るるが如き者、此れを太過と謂う。病、外に在り。鳥の喙の如きなる者、此れを不及と謂う。病、中に在り。)

※ 如鳥之喙者
「喙」はくちばし、もしくは苦しむこと。獣や鳥の突き出た口の象形。
一説には「啄」の字だとも。「啄」は鳥がついばむさま。鍼灸師にとっては「雀啄術」で馴染みのある字。また、七死脈のひとつに「雀啄脈」もある。
『素問』平人氣象論では、脾の脈について、以下のように述べている。

平脾脈來 和柔相離 如雞踐地 曰脾平 長夏以胃氣為本
病脾脈來 實而盈數 如雞舉足 曰脾病
死脾脈來 銳堅如烏之喙 如鳥之距 如屋之漏 如水之流 曰脾死

・如雞踐地(雞の地を踐むが如し)
鶏の足が地を踏むときのように、穏やかでゆったりとした脈象を形容している。
・如雞舉足(雞の足を舉ぐるが如し)
鶏が驚いたときに速く歩む様子。

・銳堅如烏之喙
鳥のくちばしのように、堅くて曲がっていることを意味する。

・如鳥之距
鳥の足の鈎爪のように堅く鋭い状態を意味する。

帝曰 夫子言脾為孤藏 中央土以灌四傍 其太過與不及
其病皆何如
(帝曰く、夫子、脾は孤藏たりて、中央の土以て四傍に灌ぐと言う。其の太過なると不及なると、其の病、皆にいかん。)

歧伯曰 太過 則令人四支不舉
其不及 則令人九竅不通 名曰重強
(歧伯曰く、太過は則ち人をして四支舉らざらしむ。
其の不及は則ち人をして九竅通ぜざらしむ。名づけて重強と曰う。)

※ 九竅不通
九竅(口、両眼、両耳、両鼻孔、尿道孔、肛門)全てが不通になる、という説と、脾に対応する「口」が不通になる、という説がある。

※ 重強
胃氣が不及なので、五臓の氣が相争っている状態。
脾が病めば身体はみな重だるく、舌根がこわばる。
王冰の解説。
「『八十一難経』に「五蔵が調和しないと九つの竅が通じない」とある。重とは蔵気が重なり合うことをいう。強とは気が穏やかでないことをいう。」


帝瞿然而起 再拜而稽首曰 善
吾得脈之大要 天下至數 五色脈變 揆度奇恒
道在於一 神轉不迴 迴則不轉 乃失其機 至數之要
迫近以微 著之玉版 藏之藏府 每旦讀之 名曰玉機
(帝、瞿然として起ち、再拜して稽首して曰く、善し。
吾、脈の大要を得たり。天下の至數、五色の脈變、奇恒を揆度すること、道は一に在り。神、轉りて迴らず、迴りて則ち轉らざれば、乃ち其の機を失う。至數の要は、迫近にして以て微なり。これを玉版に著わし、これを藏府
に藏して、旦ごとにこれを讀まん。名づけて玉機と曰わん。)

※ 稽首
「稽」はもともと、久しくとどめおいた収穫物のこと。収穫物が垂れ下がって地面につく所から、「地につける」の意味。
さらには、そうした収穫物を「計る」「考え合わせる」の意味に展開されていく。

※ 瞿然
張景岳の解説。
「敬い粛しむ様子。」
張志聡の解説。
「驚き悟る様子。」
「瞿」は鳥が目をきょろきょろさせる様を表す。転じて、人間が驚いたときの目の様子の事。

ここのくだりはちょっと芝居がかっていますね。

※ 揆度
「癸」は十干の「水の陰(みずのと)」。
真冬の寒い時期に、種が大地のなかに隠れ、春の芽吹きの時をまっているところから、「かくれてはかりごとをする」の意味に展開していきます。
『素問』の上古天真論では「天癸」という言葉で、体内に大切にしまわれている先天の精を表現していました。
本文では、病の浅深をはかる意味で用いられているようです。

※ 五色脈變 揆度奇恒
「五色・五脈・揆度・奇恒」は、それぞれ古医書の名称だとする説もあります。

岐伯が教えてくれた内容があまりに貴重なので、玉(石)の板に刻んで劣化しないようにし、毎朝朗読して心に刻みつけるとともに、この石を「玉機」として大切に保存しよう、という誓いが述べられています。

ここで終わってもいいように思いますが、まだしばらく続きます。
次回は玉機真蔵論の4回目です。
おたのしみに!



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