日本人がNASAで働くには
このnoteは日本の大学を卒業した筆者が、コネクションゼロの状態から、アメリカの大学への留学を挟まずに、NASAへの就職を果たした過程を記録したものです。これからNASAを目指す人、また夢を叶えようと努力している人の考え方のヒントになれば幸いです。
一度きりの人生をかけてこれをやる
2012年の夏、NASAの1機の探査機が火星に着陸した。キュリオシティという名のその白いローバーは、胴体からまっすぐに伸びた首の先に大きな目玉がついた頭を持ち、足についた6つの頑丈な車輪で火星の荒れ地を走る。長い腕を伸ばしドリルで岩石を削り、それを体の中に入れその場で調べる。これまでのどんな探査機とも異なるその姿は、僕の目にはまるで生き物かのように写っていた。
当時僕は東北大学に通う大学院修士課程1年生の学生で、休日のエアコンの切れた蒸し暑い研究室で一人、実験の待ち時間にパソコンの画面に釘付けになっていた。キュリオシティの火星着陸のニュースが配信されていたからだ。何度も Jet Propulsion Laboratory (JPL) という名前が目に入る。日本語だとジェット推進研究所というらしく、どうやらここでキュリオシティが作られたようだ。NASAではないのか?
着陸当日の管制室の様子がYouTubeで公開されていた。固唾をのんでモニターを見つめる人々。リーダーらしき人が何か言うたびに拍手が起きる。少しずつ興奮が高まっているのが伝わってくる。ローバーの車輪が地面に触れ、スカイクレーンが飛び立ったその瞬間、部屋が割れんばかりの歓声で包まれた。みんなハイタッチを交わし泣いて喜ぶ人もいる。
動画を見終わる頃には、全身に鳥肌が立っていた。画面に映る人たちに嫉妬すら感じていた。それと同時に心は決まった。
「僕もここに行きたい。自分の一度きりの人生をかけてこれをやりたい。」
裏口入社的に
大学院修士の2年生になった僕は、まずは実力をつけなくては何も始まらないと思い、目の前のやるべきことに日々必死に取り組んでいた。その甲斐もあって少しづつ研究の成果も出るようになっていた。一方で、どうしたらJPLで働くことができるのか、ずっと頭を捻っていた。どうやらJPLはNASAの研究所の一つだが、NASAの中でも特殊で外国人でも職員として働くことができるようだ。とはいえ、日本人で、アメリカの大学にも通っていない、アメリカの永住権も持っていない僕がNASAの研究所で働くなんて簡単なことではないと容易に想像できたので、ある種 ”裏口入社的に" JPLに近づかなければいけないと考えていた。そのためにはまずJPLのしかるべき人と知り合いになる必要があった。
そんなある日、日本国内で開かれる宇宙関係の学会にJPLからゲストスピーカーが来るとの情報をキャッチした。しかも、僕の研究分野と同じ、探査機の熱設計を担当する部署のグループスーパーバイザーだ。きた!このチャンスを逃したらもう僕の人生でJPLに近づける機会はないかもしれないと思い、迷うことなく学会に申し込みをした。
名古屋で開催された学会当日、僕が参加するセッションのファーストスピーカーがJPLからの使者Gだった。意外にも初老のおじいさんだったが、眼光は鋭く、キュリオシティの設計やJPLでの研究状況を発表するその姿はオーラをまとって見えた。僕の発表は次の日で、少しでも僕の研究を記憶に残して欲しくて、夜遅くまで練習し発表に臨んだ。プレゼンはうまくいき、会場からの質問も多かった。その勢いのまま、セッションの間の休憩時間に、勇気を出してGに声をかけた。
「JPLにとても興味があって、来月、学会でアメリカに行く機会があるんですが、そのときに見学させてもらえませんか?」
「…いまは忙しいからちょっと無理だな。」
一番重要なファクターは人間
今考えれば異国の地で急にJPLを見学させてくれなどと話しかけてくる、どこの馬の骨とも分からない若造にドライな対応をするのは当たり前だと思うが、結構なショックだった。口ではそうですよねぇ、お忙しいですよねぇなんて言っていたが、ショックすぎて学会のその後の発表は全然頭に入ってこなかった。
学会終了後、同じセッションの参加者で東京に移動して、JAXAの筑波宇宙センターと宇宙科学研究所を見学することになっていた。名古屋から東京まで移動する新幹線の車内でもショックが大きく、ぼんやりと窓の外を眺めながら、そんなに上手くいく訳ないか、と考えていた。
筑波・相模原でのツアーを終え、そろそろ解散となったところで、なんとなくもう一度Gに声をかけた。
「このあとすぐLAに帰るんですか?」
「うん。今日の夜のフライトで帰るけど、それまで東京観光する。」
「じゃあ僕、一緒に行きましょうか?」
僕も東京なんてほとんど馴染みはなかったが、少なくとも日本語は話せるし、行きたいところまでの乗り換えはスマホで調べられる。それに自分からは見学を頼んだのに、いま日本に来ているゲストをもてなさないのはフェアではないと思った。「それは助かる」と言われたので同行した。
観光したあと、他の研究者も交えて夕食をとり、そのあと羽田に向かった。フライトの時間までまだ少しあったので空港で飲みながら待つことにした。しつこく思われると嫌だったので観光中はJPLの話はしないようにしていたが、そこではGの方からJPLで働いているときの様子を話してくれた。印象に残っているのは、キュリオシティのような壮大なミッションを成功させるために一番重要なファクターは何かと聞くと、即答で「人間。ミッションを成功させるためにはプロジェクトメンバーが団結してモメンタムをもって挑まなければいけない」と言っていたことだ。
フライトの時間が近づいてきたので、保安検査場のゲートまで送り、そのときはそれで別れた。
夢の場所とつながった
大学に戻った僕は絶好のチャンスを逃したことに絶望しつつも、計画が振出しに戻ったので次の手を考えなければと頭を悩ませていた。すると数日してGからメールが届いた。
「名古屋や東京ではありがとう。ホスピタリティに感動した。JPLに見学に来たければアレンジするから教えてくれ。」
一度消えかけた光が再び灯った瞬間だった。この一通のメールにより、僕はキュリオシティが火星に着陸してからちょうど一年後の夏、JPLに足を踏み入れるための切符を手にした。
JPLが位置するロサンゼルス近郊の町パサデナはその年の夏も死ぬほど暑かった。しかしそれも忘れるほど火星を模した試験フィールド「火星の庭」を走るキュリオシティの地上試験機との出会いは感動的だった。ようやく夢の場所とつながったのだと実感した。そして、ここにまた戻って来ると心に誓った。
自分の売り方を考える
恥ずかしながら大学院に入るまで、アメリカの大学や大学院に留学するという発想がそもそも無かった。どうやったらJPLに入れるか考え、いろいろと調べる過程で、日本の大学の学部を卒業してアメリカの大学院に進学している人たちがいる事を知った。しかし、アメリカの大学院の博士課程は日本でいう修士課程と合体していて、もう一度修士課程に入りなおす必要があるようだ(大学によるそうです)。それだと時間のロスになるので最短でJPLにたどり着きたかった僕にとってはベストの選択かどうか分からなかった。
それに自分の研究のことを真摯に考えると日本の研究環境のほうが良いと感じていた。なぜなら僕が研究していた自励振動ヒートパイプと呼ばれる熱制御デバイスは日本で発明されたもので、技術レベルも世界の中で日本がリードしていたし、すでにJAXAとの共同研究も進めていて、軌道上実験のデータを使うことができるという文句のない環境だったからだ。それにその技術はNASAが持っていないものだったので、将来的にNASAが欲しがる可能性も高いと思っていた。
だから自分の売り方として、今からアメリカに渡って大学院に入り直してJPLを目指すよりも、このまま日本で地道に実力をつけ、海外コミュニティにも顔を売り、存在感を確立していくことで、スペシャリストの外国人として自分を売っていったほうが早くJPLにたどり着けるのではないかとイメージしていた。英語の力については日本にいても鍛えることができる。
というわけで僕が立てた作戦は、東北大学の博士課程に進んで実績を積み、卒業後にJPLにポスドクとして雇ってもらい、数年かけて実力をアピールし、あわよくばその間に職員として雇ってもらう、というものだった。ポスドクの期間が必要だと思ったのはアメリカの大学を卒業していないので、実力の保障になるものが乏しくJPLとしても急には採用しにくいだろうと考えたからだ。
リスクはある。いつどのタイミングでこのストーリー通り上手くいかなくなってもおかしくない。ただ自分が人生をかけてやりたいと感じたことをあきらめたくない。一度きりの人生だ。賭けてみよう。
作戦が決まったので、あとはやるだけだった。平日も週末も関係なく朝から深夜まで研究した。地道に成果を出し、学会で発表し論文を投稿した。弱点である留学経験の無さをカバーしようと、海外派遣用のファンディングを獲得して、学会で知り合った海外トップ研究者のもとに数ケ月滞在し技術を学ばせてもらう経験も何度かした。JPLのエンジニアたちとも学会で交流を続け、コネクションをさらに強くすることも怠らなかった。
まずは学生のうちにインターン
博士課程の2年生になり、卒業後のポスドクの話を早めに進めておいたほうが良いなと思ったので、JPLにさっそくコンタクトした。そのころにはGが引退していて、Eが新しいグループスーパーバイザーに就任していた。Eは情熱的な性格のGとは対照的に物腰が柔らかくにこやかだが、数分も話すと「この人は頭がいい」と誰もが感じるほどの切れ者だ。
「卒業後に自分で研究費を持っていくのでポスドクとして受け入れてもらえませんか?僕が持っている数値モデリングのスキルはJPLがやっている研究開発にもすぐに応用できると思います。」と打診してみた。
するとEは「ポスドクとしてJPLに迎えるのはもちろんいいのだが、せっかく今まだ学生なんだから学生のうちにインターンとして一回来てみたらどうだ?」と提案してきた。
確かにチャンスを増やすのは悪いことではないと思い、Eの提案に乗った。
こうして2016年の冬、JPLで2か月のインターンをすることになった。
その2か月は昼も夜も関係なく研究した。少しでもアピールしたかったし、それ以上に研究テーマ・環境が新しくなったことでどんどん新しいアイディアが湧いてきてそれを実装するのが楽しくて仕方がなく、1日が24時間では足りなかった。
あるときEとランチをとったときに世間話程度に聞いてみた。「例えばですけど、アメリカ国外の大学を卒業した外国人を新卒で雇うことはできるんですか?」
Eはこう答えた。「うちの部署ではまだとったことは無いけど、他の部署でそういう話を聞いたことがある。」
この言葉を聞いた後から、大学を卒業してすぐにJPLで職員として働くというルートを意識し始めた。
その後もJPLでの研究は順調で、毎週のチームミーティングは僕の成果発表で埋め尽くされ、チームのみんなもとても喜んでくれた。一緒に働いていたチーフエンジニアからは「タクが来てから、何かが変わった」とお褒めの言葉をいただいた。
フラれた
日に日に自信は増していき「JPLでも十分にやれる」と確信に近いものを感じ始めた。そこで思い切ってEにお願いをした。
「ドクターを卒業したらJPLで働きたいです。職員として雇ってもらえませんか?」
Eはしばらく考えた後、こう答えた。
「個人的にはタクのことを今すぐにでも雇いたい。しかし我々の部署で前例がないし、雇うための予算も我々のプロジェクトだけでは足りない。だから難しいと思う。」
絶対にOKしてもらえると思って告白したのにフラれたときの心境といえばわかってもらえるだろうか。こんなに成果を出し、実力を証明しているのに、受け入れてもらえなかった。みんな認めてくれているじゃないか。やはりアメリカの大学を出ていないとだめなのか。
それはショックだったが、いつまでもへこんではいられない。気を取り直して再び研究に集中し、インターンの間にまとまった成果を残そうと頑張った。そうすれば将来またチャンスが巡ってきたときにプラスに働くはずだ。
インターンも終盤に近付いてきたある日、Eから提案があった。「こんどNASAセンターやアメリカ国内の研究所をつなぐウェブセミナーの機会がある。そこで日本でやっていた研究の話をしてもらえないか。みんな自励振動ヒートパイプに興味があるんだ。」これは僕の、NASAは近い将来に自励振動ヒートパイプに興味を持ち、その技術を欲しがるだろうという読みが当たる形になった。僕は快諾し、さっそく発表資料の準備に取り掛かった。
セミナー当日は50人近くが参加しプレゼンを聞いてくれた。そのうちの一人にNASAが誇るヒートパイプのスペシャリストJがいた。彼はJPLのライバルに当たるNASAの研究所、ゴダード宇宙飛行センターの研究者で、実用化されているNASAのヒートパイプテクノロジーは彼によって育てられたと言っても過言ではないくらい実績のある人物だった。プレゼンの評判はよかった。発表したことに対するお礼のメールが何通か他のNASAセンターの研究者から届いたし、セミナーをホストしてくれたEも満足気だった。
とっさの一言
「今からセクションマネージャーと話してきてくれ。」
インターンにも終わりが見え、帰国が近づいてきたある日、Eに急に呼び出されこう告げられた。僕はことのいきさつがよく分からなかったが言われたとおりセクションマネージャーの部屋に向かった。部屋に入るとふくよかな貫禄のある人が座っていた。僕も促されるままに椅子に座ると、彼はゆっくりと話し始めた。
「君のいいうわさを聞いているよ。Eのプロジェクトでずいぶん頑張ってくれているみたいだね。」
「はい、自分のできることはしています。」
「じつは君のことを雇うようにと、Eや部署の数名からお願いされていてね。もし君が興味があるならオファーを出したいと思うのだが、どうだろう?」
急展開過ぎて意味が分からなかった。僕はフラれたはずだ。それなのにどうして?
じつは、あとから聞いた話では、ウェブセミナーのあと、EのもとにNASAゴダードのJから電話があったらしい。
「彼の卒業後の進路は決まっているのか?彼に興味がある。彼を雇えばNASAの技術レベルをひとつあげることができる。」と。なんとも嬉しいお言葉だが、冷静に考えると僕はアメリカの市民権を持っていないのでNASAゴダードに就職することはできない。ポスドクか契約職員として引っ張るつもりだったのだろうか。いずれにせよこのJの言葉はEを焦らせるには十分すぎた。
黙っているとライバルであるゴダードに僕をもっていかれると思ったEはとっさにこう答えたのだ。
「じつはJPLで雇おうと思っている。」
Eはこのとっさの一言により、引っ込みがつかなくなりセクションマネージャーに僕を雇うようにゴリ押ししてくれたそうだ。こうして僕は博士課程を卒業した後にNASAジェット推進研究所に職員として就職することになった。
道は無限にある、ただ本質的なことは
いま振り返ってみるとGにもEにも一度ずつフラれている。でもその度あきらめずに粘り、ギリギリのところで可能性を繋げ、就職までたどり着いた。NASA/JPLにはいま6000人の職員が働いている。そのうちの僕を含めた10人ほどが日本人だ。僕のケースはただの一例に過ぎず、それこそ道は無限にあるだろう。結果だけ見ると僕の場合は「日本の大学に残る」という作戦が功を奏したのかもしれない。もしあのときアメリカの大学院に留学するという選択肢をとっていたら、どうなっていたかは分からない。運もあるだろう。しかし、自分の夢や目標を達成するために本質的なことは、具体的なアプローチを考え、どんな環境にいたとしても目の前にある自分がやるべきことをやる、そしてチャンスが巡ってきたときにベストを尽くす、ということなのだろうと思う。
あのとき白いローバーに魅せられNASA/JPLを目指した僕はいま、2020年打ち上げ予定の火星ローバー「Mars 2020」や、木星の衛星で海を持つと言われているエウロパに向かう探査機「エウロパ・ランダー」の開発に熱設計の専門家として携わっている。自励振動ヒートパイプの研究ももちろん続けており、EやGを含むプロジェクトチームと共に(Gは一度引退したけど張り合いがなくて戻ってきた)NASAの探査機への応用に向けて動いている。
夢はまだ始まったばかりだ。
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