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#日プ女子 お気持ち表明⑤【「いい子」を強要する抑圧のシステム】

今回は日プ全体の構造批判です。

まあ正直言って日プがひどい番組であることは多くの人が共有していると思うんですよね。手放しで褒めてる人はあんまり見ないですね。たぶん居るとしたら業界関係者が「こんなに熱狂させられるシステム作ってすごいな」みたいな感想を持っているくらいじゃないでしょうか。
僕のお気持ちを述べさせていただくとこの番組は最悪の一言です。それはサバイバルが残酷であるとか悪編がどうとかではなく、この番組によって出演者も視聴者も「いい子」であることを強要されてしまう、最悪の抑圧システムだからです。社会悪だと言ってもいい。

「いい子」が評価されるシステム

日プでは合宿所に集められた練習生たちの姿や、舞台上でパフォーマンスする姿を見て視聴者「国民プロデューサー」が投票することでデビューが決まります。簡単にいえば多数決であり人気投票ですよね。
舞台上のパフォーマンスだけならいざ知らず、レッスン中や日常も評価対象になるのです。そういった中で生活しなければならないとき、みなさんが練習生ならどんな態度をとりますか?例えば番組側が用意した課題や仕組みに問題があると感じたとき、自分の個人的な要望を伝えたいとき、それを素直に伝えることができると思いますか?
僕が練習生であったらそれは言えないと思います。番組に反抗しているように見えたら国民プロデューサーから票をいれてもらえないかもしれない。「みんな苦しいなか我慢しているのにあの子はわがままだ」と国民プロデューサーに思われてしまうかも。だから今はしんどくても黙ってやりすごそう。仕方ない。
この「黙ってやりすごそう、仕方ない」こそが「いい子」の本質であり、社会の閉塞を生む元凶です。

福祉の世界では様々な「抑圧」が蔓延しており、「いい子」の支援者が結果的にその抑圧を後押ししてしまっている。たとえば、福祉職は賃金が低く、非正規雇用も多いなど、労働環境も改善されず、人手不足は深刻さを増すばかりである。これは社会的弱者を低く評価しているだけでなく、社会的弱者に関わる仕事をしている人をも低く評価している日本社会の抑圧構造の顕れだ。しかし、「いい子」自身も「力不足は私の自己責任だ」とあきらめを内面化し、不満や怒りを自らに抱え込んでしまっている。この抑圧は、福祉現場に閉塞感をもたらし、ケアや支援の仕事を、つまらない・しんどい・希望のないものにしている。つまり、「いい子」とは抑圧構造にとって「都合のいい子」をも指している。逆に言えば、「いい子」から脱し、抑圧に目をつぶらず、変えていく実践ができるならば、支援現場の実践はもっと面白く、魅力的になるかもしれない。

脱「いい子」のソーシャルワーク――反抑圧的な実践と理論より

上記の文章は福祉・支援業界についての話ですが、日プにもみられる状況だと感じませんか?

トレーナー批判の記事でも書きましたが人はみんな対等なんだから気に入らないことには抵抗してもいいんです。おかしいと思うことには意見を出していい。当たり前のことです。権力勾配の上に立つ者はそれを聴く義務がある。それなのに放送に載った部分だけではありますが、練習生の皆さんはみんな従順で一度も反抗的な態度を示さなかった。これは健全な状況ではない。
最初のレベル分けテストのときトレーナーに「Fクラスです」と言われても「はい」と受け入れていた。「その評価は不当です。受け入れられません」と言い返してもよかったはずなのに。

ここでみなさんに自己洞察していただきたいと思います。今僕が書いた「不当です」と言い返すシチュエーションに抵抗があったでしょうか。そんなこと言っちゃダメだと思いましたか。そう思ったのなら、なぜそう思ったのか、理由を考えてみてください。

抵抗を感じた理由は人それぞれだと思いますが、おそらくはみなさんも日々抑圧の中で生きているからなんじゃないかと思います。
日プだけの話ではなく、日常を生きるみなさんも「いい子」を強要されています。社会の中で「仕方ない」を感じずに生きることは難しい。僕もそうです。耐えしのいでやりすごすことばかりだと思う人も多いと思います。いまの社会全体が物わかりのいい「いい子」が評価されるようになっている。だからそんな根本的なこと指摘してもしょうがないじゃないか、と思うかもしれません。
しかし、社会の中に抑圧があることと、それをエンタメとしてシステムに利用することは大違いです。抑圧を再生産してどうする。

「いい子」であることを求められる国民プロデューサー

国民プロデューサーもまた「いい子」であることを求めらえます。
僕は笠原さんを応援していたのですが、彼女の「前世」であるアンジュルム(ハロプロ)のことを持ち出すと他の国民プロデューサーから嫌われてしまうから自制しよう、という空気がファンの間で流れていました。実際に「過去の話はやめてください」という主張もよく見ました。ファンダム「ぴちぺんず」のみなさんもこの点に心を砕いていたと思いますし、僕の友人たちの間でもその辺の戦略についてよく話し合われていました。
でもこれ変ですよね? まあ過去に芸能活動が無い練習生も多いので、その点で不公平になってしまうから、という理屈をつければわからないわけでもないけど、でもそれなら過去に芸能活動をしていた人の参加を禁止にすればいいだけだと思います。シンプルに意味がわからない。

国民プロデューサーは自分の推しの票を減らさないために「いい子」でいようとします。そして他のファンダムの「いい子じゃない」部分を探し始めます。国民プロデューサーである以上、番組の問題点を認識したとしてもそれを大っぴらに批判することができない状況なのです。番組批判をしたら「●●のファンは番組にケチつけてる」って言われてしまいますから。
僕自身もそうです。ずーっとこういう文章が書きたかった。でも笠原さんの足を引っ張るわけにはいかないので4ヵ月間ずっと抑圧されつづけ「いい子」を押し付けられてきました。そりゃnote書きまくるでしょ。

「いい子」でいなきゃいけない国民プロデューサーが練習生に「いい子」を求めます。そりゃそうですよね。自分は日常でも抑圧されエンタメ(日プ)を享受するときでさえ「いい子」でいなきゃいけないんだから、番組に出ている人にも「いい子」でいて欲しいはずです。
SNSでは練習生の暴露がいくつかあったようです。過去に何かあった練習生よりも何もなかった練習生にデビューして欲しいと思うのは典型的な「いい子」思考だと思います。
余談として。一見「いい子」から逸脱しているように見える愚痴垢・伏字界隈ですが、愚痴垢・伏字こそもっとも強く「いい子」を内面化した存在なんだと思います。このことはまた後日。

つまりこの日プのシステムとは練習生には「夢」を人質に、ファンには「推し」を人質に「いい子」を押し付ける、現代社会の宿痾を煮詰めた最悪の抑圧システムであると断言します。
そりゃ人気になるでしょうよ。現代社会にここまで阿った番組なんだから。日常で強い抑圧を受けている人ほどのめり込みやすいのかもしれません。

日プを愛する方へ

日プを楽しく見ていた方にとってはつらい文章だったかもしれません。あなたが日プを愛しているのならその愛を変える必要はありません。この批判はあくまで僕個人のものです。「日プを愛している方に悪いから批判しないでおこうかな」と意見を収めてしまっては「いい子」そのものです。
僕は「いい子」ではないので、日プを愛している方を傷つけるかもしれませんが批判を書かせていただきました。

僕は仕事上、抑圧された「いい子」にたくさん出会ってきました。就労に関わる場所でコミュニケーション講師をやっているんですが、多くの方が社会からの抑圧を受け「いい子」でいなきゃいけない呪縛で身動きがとれなくなっています。少しでも「いい子」の呪縛を解いて楽に生きていってもらうためにトレーニングをしているのです。だから僕にはどうしても許せない。強い口調で批判しなければならないんです。

最後に、特にお若い方に読んでいただきたいのですが、夢を掴むためには必ず茨の道を通らなければならない、というのはまやかしです。そんなまやかしに騙されないでください。苦しい思いなんてしなくて済むならそれに越したことはないんですよ。
自分の夢を掴むために自ら茨の道を歩む人のことは尊敬しますが、誰かの道に意図的に茨を敷き詰める人は軽蔑します。後から来る人のために頑張って茨を刈っている人たちもいるんです。



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